神の街の神官と幽霊


 宗教的リーダーの住居でも、例外なく灰色で同じ形をしている。それでも今の私には、外壁が薔薇やリンゴのように鮮やかな赤に見える。ここが最後を迎える場所。最後までもっとも親しい人と共に過ごす場所だ。

「スピリット、最愛の幽霊さんがやってきたよ!」

 しばらくして静かに扉が開く。腰を擦りつつ出てきたのは、法衣に仮面の女だ。

「あら、待ってたわ。座って待ってたのだけど、待ちすぎて腰が石になるかと思った」

「約束は夕食だったよね。まだ昼なのに、そんな待ってたの?」

「息子と会えるって聞いて、一日中待たない親がいるかしら?」

「スピリットは僕の母さんじゃないだろ」

「母さんよ、だって三年以上も面倒みたんだから」

「まあ年齢は僕の母親くらいかな」

「女性に年齢の話はどうかと思う」

「でも年齢を否定はしないんだね。まあ、スピリットは何歳でも魅力的なイイ女だよ」

「マザコン?」

「だから母さんじゃないでしょ」

 談笑しつつ家にあがる。

「あっ、これプレゼント、今日は天気がよかったから感謝も二倍ってことで」

「いつもありがとうね」

 受け取ると軽く香りを楽しんだ。そのまま服の下より鋏を取り出す。花束のラッピングを解いて、茎を少し切り、入り口近くの埃ひとつない花瓶に挿す。あいかわらず準備がいい。私の行動はいつもお見通しだ。どこにいようと常に私の心を監視しているのではないかと思うほど、異常にタイミングや用意がいいのだ。それも神に祈ったからなのだろうか。

「いい香りね」

「僕は苦手だけどね」

「歳をとったら好きになるわ、きっと」

「そうだと嬉しいね」

 私は数時間後に死ぬけど。

 私と彼女の会話はいつも冗談まみれだ。いちいち冗談にツッコんでいたら疲れてしまう。ツッコもうなんて思わずに、こぼれる笑いを抑えないようにすればいい。それだけでいい。今日は特別でも、いつも通り何でもない時間を過ごしたい。

 奥へ進めば黒い木の椅子が二つとテーブルがある。テーブルの上には花瓶。スピリットは先ほどと同じように薔薇の花束を活けて、キッチンへ向かった。私はレコードで、名前もよく知らない優雅な曲をかける。パイプやタバコ葉を取って、リズムに頭を揺らしつつ椅子に座る。ゆったり指揮でもするよう葉を詰め、マッチを擦り、火をまわす。ふかし煙で輪を描けば、街で誰にも認められなかった事なんて、どうでもよくなる。

 しばらくして、スピリットが紅茶とジャムを持ってくる。

「今日はリンゴのジャムかい?」

「もちろん、幽霊ちゃんはリンゴのジャムしか食べないものね」

「すまないね、スピリットが好きな薔薇のジャムは、どうも体が拒絶するんだ」

「子供だもの、仕方ないわ」

「これでも25年生きてるんだがね」

「私だってもっと生きてるけど、クランベリーだけは苦手よ?」

「クランベリーは僕も苦手、なんか草みたいなにおいしない?」

「するする」

 ジャムを口にして紅茶でほっと一息いれる。このポットが空になれば、すぐに夕食だ。おなかは空いているが、はやく空にしようとがぶ飲みしたりはしない。ゆっくりスピリットと話しながら飲むからいいのだ。それに夕食となると二人とも切ったり煮たりで作業して言葉が少なくなる。話し疲れるまではゆっくりお茶を楽しみたい。

「そういえば、今日の街は明るかったわね」

「スピリットも思ったんだ。この時期いつもはみんな怖がったり悲しんだり、どんよりしてるのにね」

「いいじゃない。暗いより明るい方がいいわ」

「そうだね。そういえば、僕が小さい頃にも、同じような日があったな。その時は幽霊のこともよくわからなかったけど、3年目の8月15日なのに父さんが妙に落ち着いてたんだよ」

「それは神様のせいよ」

 急に胡散臭い。以前ならそう思っていただろう。だけど、今なら納得できないこともない。周期のある住人の精神状況、狂った感覚と認識、神だの霊だののせいならば容易に説明がつく。というより神のせいにしておけば無駄に考えなくていいから楽だ。

「だいたいいつもは暗いのに、昔とか今日は気まぐれってやつ?」

「実験よ。この街を守ってる神様は科学の神なの。ずっと同じ条件で実験すればより明確な結果を出せる。でも、それじゃ発展しないでしょ? 知的好奇心が満たされないでしょ? だから仮定を立てて実験して、自らの知ることが正しいことを色々と確認しているの。ときおり条件を変えてね。ただ、感情とか認識とか好き勝手操作してるみたいよ。まあどのみち気まぐれには違いないけど」

「神様なのに実験して確かめるなんて、えらく俗だね」

「人間にしたら変人よ。だって確実にそれが起こることを知っていながら、実際にやって楽しんでるんだから。それって知的好奇心も何もないじゃない。歩いたら進めるのは当然でしょ、そのレベルだもの」

「神様はよくわからないな」

「ホントね」

 真実なんてどうでもいい。どうせよくわからないのだから。そんなことより紅茶とジャムだ。幽霊でも私は現実主義者だ。難しいことを考えるより、おいしいものを食べているときの方が幸せになれる。特に美しい人と席を共にするときは、目も耳も舌も五感すべてが満たされるような気がする。

「何にせよ、暗いより明るい方がいいよ。笑顔で見送られる葬式ってのも悪くない。見送ってくれるのはスピリットだけだろうけどね」

「私は笑顔であなたを見送れないわ。仮面ごしでも見せられないくらい泣くと思う」

「どうして?」

「母の愛?」

「こんな仮面被ったよくわからない人が母親なら、僕は死ぬまで反抗期になるな」

「それはそれでかわいいじゃない」

「かわいいねぇ、まあ実際、僕には母親もいないし、スピリットとの三年間は親子の時間って感じがして楽しかったよ」

「でもこれからもっと楽しい時間になるわ」

「幽霊最後の日だもんな、もちろんパーティーしてくれるんだよね」

「夕食のパン、一枚多く用意するわ」

「ハムも一枚増やしてくれる?」

「もちろん」

 こうして時間は過ぎていった。紅茶がなくなると、私たちは調理場に行って夕食の準備をする。スピリットはスープをつくる。私はお茶の道具を洗ったり、パンやハムを切ったり、スープ以外の諸々をする。私だって特性スープをスピリットにご馳走したいと思ったこともある。色々自由に食材が手に入るから、おいしい料理には自身がある。でも、私がつくると彼女は怒るのだ。いつもの冗談で「母の味を息子の魂に刻みつけたいのよ」と。

 夕食はあっという間に完成する。スープとパン、ハムやチーズなどちょっとしたもの。質素ではあるが間違いない。贅沢なものは幽霊になってから散々食べてきた。それゆえにか否か、シンプルなものが心にも味覚にもよくしみる。

 食事を前にしてからはあっという間だった。パンはライ麦。甘ったるい香りがして、口にするとほんのり酸っぱい。ハムやチーズは、そこらの店で売っているのよりも塩気が抑えてあって、素材の味がしっかりしている。スープはキャベツとチキンベース。隠し味のエビペーストがパンの酸味とよくマッチする。

 私はパンをハムやチーズと共に食べて、最後までスープはとっておく。スピリットは偏りなく食べ進んでいくが、スープだけ半分残り最後には二人そろってスプーンを動かしている。そしてなんだかんだほぼ同時に食べ終わる。交わす会話はあそこの店のアップルパイがおいしいだの、数日前の雨のときに子供たちがはしゃいでいただの、街であったちょっとしたことである。いつも通りの夕食だ。違うのは私のパンとハムの枚数だけ。

 それでも私の最後は近づいている。

「皿洗いはあとにしましょう?」

 調理場に向かおうとする私を止めた。

「なんだい、食後のデザートでもあるの。もしかして『食後のデザートは私よ』なんてことはないよね」

「あなたとは寝る気にならないわ。冗談抜きに息子感がすごいもの。今日はお酒を用意したのよ。だから飲み明かしましょう?」

 棚から食卓に置いた瓶には「Papilio」とラベルが貼ってある。手に取り見てみるとウィスキーらしい。私もウィスキー好きで街の酒屋にはずいぶんと世話になったが、一度も見たことのない銘柄だ。

「これはどこのウィスキーなの?」

「世間に出回ってはいないものよ。スピリットに特別なウィスキーを捧げる人がいるのよ。それも代々ね。私はそんなに飲まないのに、以前のスピリットにウィスキー好きでもいたのかしら。でも、私が飲んでもおいしいと思えるから、ウィスキー好きならたまらない味かもしれないわ」

 私の目を見て微笑む。顔に出てしまっていただろうか。いや、自分でもわかる。たしかに私は唾を飲んだ。飲みたい。飲みたくないわけがない。

 飲みたいと答える前にグラスに注がれる。美しい琥珀色だ。安物の熟成の甘いものとはまず違う。まるで王族お抱えの宝石師が磨いた石のように透き通り、揺れるとむこう側の光を虹色に砕く。香りはバニラや蜂蜜のように甘いが、ほのかに薔薇のような華やかさもある。離れていても感じるほど濃厚な香りではあるが、鼻腔を心地よく撫でる程度でしつこくない。

 飲んでいいよと前に置かれれば、掴もうと思う前に私はグラスを握っていた。近くで香ればより強く、濃厚さと刺激のない繊細さを感じる。深く吸い込めば肺から幸福がまわっていく。全身にまわるころには腕が動き出し純粋美麗の琥珀とキスした。

「これはいい、すごくいい」

 琥珀を口でころがせば、香りが一瞬のうちに腹のそこにまで広がる。アルコールの刺激は感じない。無垢の揮発性で全身を心地よい香りで包まれたような心持がする。だが、香りはすぐに去ってしまう。濃厚だがしつこくない。遠くからはそうだったが、一度その味を知るとしつこくてもいい、ずっとそこにいてほしいと思う。刹那、二口目を含んでしまう。

「そんなにおいしかったの?」

「ウィスキー好きなんで」

「でも、これはウィスキー感ないと思わない?」

「それはわかる。限りなく純粋においしい蒸留酒、味だけだったらウィスキーじゃなくてPapilioだね」

「私もそう思うわ。これとしか言いようがないのよね」

 スピリットもグラスを軽く傾けた。仮面で目元はよく見えないが、口元は幸せそうだ。口角が上がって細くシワをつくる。

「Papilioにはフレーズがついてるの」

「フレーズ、春の夜の夢とかかい?」

「さまよえる魂の救済」

「たしかに口にするだけで、ずいぶんと救われたような気になるな」

「そう、でも救済された魂はどこへ行くのかしら?」

「天国だの地獄だのじゃないのかね」わか

「そうかもね。でもこれで救われた魂は、もうしばらく現世にはりつけなのよ。酔いはすぐに醒める。はじめは救われてもすぐに新たな孤独の日々が始まる。さまよわなくていいだけで楽園は遠いわ」

「さまよわなくていいだけでも、ずいぶんと楽だと思うよ。幽霊を三年やったら家もあるし問題なく生活しているのに、街には僕の魂というか心というか、そういうものが落ち着く場所なんてないような気がしてくるんだ。まあ唯一スピリットだけが僕の魂の住処だよ」

「クサい台詞ね」

「最後くらいいいだろ、正直、私はスピリットに親子と恋人の中間くらいの感情は抱いてるよ?」

「私もだいたい同じよ。でも、やっぱり私は親子って感じが強いわ」

「いい年して僕がガキだからかい?」

「そうではないけど、いえ、ガキね」

「ひどいじゃないか、僕は今年で25にもなるのに」

「年齢じゃないわ中身よ。私だってまだまだ少女だもの」

「さすがに少女っていうには色っぽすぎるな」

「だって、私たちがちびちびお酒飲んでるのと、幼子が指をしゃぶっているのって、大差ないような気がしない?」

「それは、そうかもしれないね」

 酔いが回るほど意識は溶けておぼろげになっていく。交わす会話もみるみる形から離れていって、魂だの心だの、酔っぱらいでは理解できないものになっていく。それでもアルコールの救済は口を円滑に回す。互いに言葉は投げっぱなしでコミュニケーションなんてできてないかもしれない。だけど私はよい時間だったと思えるのだろう。

 いや、よい時間だったと思うこともなく、おぼろげな幸福感の中で、意識も命もぼやけていって、存在が空気に溶けるよう静かに午前0時を迎えるのかもしれない。

「そういえばさ、前から気になってたんだけど、その仮面の下って見せちゃダメとかそういうのあるの?」

「別にないわ、おとぎ話の神官様がつけてたってだけで、私たちのは趣味よ」

「じゃあさ、見せてくれない?」

 酔った勢いに任せて言った。仮面ごしの顔つきも厚い法衣ごしの体も美しい。少々歳を重ねてはいるが、むしろそれが存在に深みを与えている気がする。つまりいい歳の取り方してるというやつだろう。だからこそ、その素顔を見たかった。抱くだの生まれたままの肢体を見たいというのはおそれ多いし何か違う。ただ最後に彼女が何者であるか、目に焼きつけて逝きたいのだ。

「そうねぇ……」

「お願いしますスピリット様、一生のお願いですから」

「ううん、うん、幽霊殿のご命令なら」

 微笑み仮面を外す。その顔はこれまで感じていた印象通り、笑顔の似合ういい歳の取り方をした優しいものだった。しかもどこか懐かしい。懐かしいどころではない。私の脳内にはしっかりと似た顔が刻まれている。

「失礼かもしれませんが、僕たち何だがそっくりですね。目元とか」

「血のつながりを感じるわよね」

「もしかして母の親戚ですか?」

「これが実は母なのよ」

「本当に?」

「いつものも実は冗談じゃなかったのだけど、あなた絶対に認めようとしなかったじゃない」

「いや、母親は僕を産んだ時に死んだはず」

「確かに私はこの街的には一度死んだわ、でもこの街での死は命を失う以外にもあるのは、あなたもよく知っているのではないかしら?」

「……なるほど、幽霊か」

 一気に酔いが醒めた。彼女が私の母であることを証明することはできない。しかし顔も似ているし、すっかり空いた母の記憶から考えると、母はあるとき幽霊に選ばれて、かの科学神が僕の記憶から母を消し去ったのかもしれない。ただひとつおかしな点がある。

「幽霊だったのにどうして死なずにスピリットをやってるの?」

「神様の気まぐれよ」

「物心つく前には、もうあなたがスピリットだったはず。父さんもそんなことを言ってた」

「前のスピリットは私の母だったわ、私とそっくりなね。近くで見たらシワとかで年齢がわかるけれども、スピリットを近くで見ることなんて幽霊になってからでしょ。だから、私と母さんが入れ替わったことなんて気づかないわ」

 酔いに蕩けた瞳に火照った頬、そこにはほんのり冷たい憂いが混ざっていた。冷えを紛らわせるようにグラスに口をつける。

――カンコン、カンコン、カンコン

 今日を知らせる鐘が鳴る。8月16日、幽霊がこの世を去るはずの時刻だ。

「やっぱり、あなたは生きるのね」

 最期は私にやってこなかった。かわりに新たな一日がやってきた。

『新たなスピリットはお前だ。そして母は三年後に死ぬ幽霊となる。お前の母の寿命は少ない。限界を迎えた試料を取り替えたまでだが、せめて私が奪った日々を埋めるように三年を過ごすがよい。心というものは大変に興味深い。親子の純粋な愛を見せてくれたまえ』

 明確な言葉にはなっていないが、だいたいそのような意味が脳に響いてきた。

「家に来たとき街がやけに明るかったって言ってたわよね。昔も同じようなときがあったって。たぶん昔のその日に私はスピリットになったわ。だからきっとあなたもスピリットになったのではないかしら」

「さっき変な声が聞こえたが、そんなこと言ってたよ。それでそっちが新しい幽霊だってさ」

「三年後に死ぬんでしょう?」

「そうも言ってたね」

「老朽化したから交換する。科学のでも神様なんだから、もっと試料を大切にしてほしいものだわ。まあ死の運命は奴の管轄外なのかもしれないけれどね」

「あれ、そういえば父さんはどうなるの?」

「寂しい中年や老人として死んでいくでしょうね」

「僕は皆に見えるんだよね、父さんが僕を僕だと気づいてくれることは」

「ないでしょうね、だって幽霊になった時点で、いなかったことになってるんだもの。いないものが何者かとして現れる。スピリットはスピリットで、突如現れた街の救世主ってことなのよ」

「そうか、まあじゃあ、せっかく親子の時間ができたんだし、三年間ゆっくりしようか」

「ええ、私も母と子の時間ってのをちゃんと味わってから死にたいわ」

「余裕そうだけど三年後に死ぬのは怖くないの?」

「少し怖いけど、生きるのにはもう疲れた。今なら私と交代に幽霊になった母さんの気持ちがわかる気がするわ。とにかく、今日からは楽しみましょう、私が死ぬまでは」

「ああ、よろしくな母さん」

 科学の神には逆らえない。魂だの神だのを感じつつ、結局は奴の用意した枠のうちで、身近な愛やおいしい食事や酒など、絶対最高の救いではなく目前のジャンキーな救いの中で生きて死んでいくのだ。

 それでいい。人間なのだから、手を伸ばして得られるかわからない幸福より、伸ばせば届くものにすがる方が、ずいぶんと充実した生活になる。幽霊の間はリンゴだの、後にわかったことにしても母だの、身近なもののお陰で死んでも悔いはないほどの生活ではあった。その生活が街の象徴なんて無駄に大きな肩書を得て続くのだから、私は実に幸せ者なんだと思わずにはいられない。

 この幸せを、この感情を、次のスピリットにも知ってほしい。だから私の寿命が残り三年になるのをウィスキーを傾けつつ待とうと思う。

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幽霊 狐藤夏雪 @kassethu-Goto

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