第34話 夜が明けるということは
【厨川視点】
突然だが、オレはよく狂人だと言われる。
別にそのことに対して憤りとか不満とかは一切ない。
自分が狂人『キャラ』であることを自覚してもいる。
ただ、それは『キャラ』の範疇に留まっているからだ。
おかしなことやくだらないことをぺちゃくちゃぺちゃくちゃ、飽きもせず喋りたおし、周りのリアクションなんか顧みずにまずは自分が真っ先に笑うのだ。
とにかく何でも物事の最初はふざけることから入る。
冗談をうまく使いこなすだけで、人間関係がこうもうまくいくのである。
まあ、オレの場合は友人の質はともかく量はさほど存在しないから、人間関係がうまくいっていると形容するのはいかがなものかと、糾弾されかねないが、そこはひとまず置いておいてほしい。
少なくともいちいち周りの人間の悪意に心を病むなんてことはなくなった。
悪意に晒されなくなったのではなく、気にならなくなったのだ。
そうして自由奔放に生きていると、いつしか周囲の人間はオレのことを『狂人』だと評するようになったのだ。
そんなオレは誇らしいと自負していた。
狂人上等。天上天下唯我独尊。狂人なオレ大好き。
だが――
――オレは今日、本物の『狂人』を目の当たりにした。
キャラで取り繕った紛い物の狂人が、野を駆け回る兎ぐらい可愛く見える。
場所は佐伯の家。
燈田さんが石になってから家に引きこもるようになった佐伯を連れ戻そうと、ぃなと一緒に上がり込んだのだ。
しかし、異変は玄関からすでに始まっていた。
佐伯の母ちゃんがオレたちを迎え入れてくれたのだが、明らかにやつれていた。
特に気になったのが、佐伯の母ちゃんの顔に涙痕があったこと。
友達には向けないであろう警戒心を少しだけ手持ちに加え、そろそろと佐伯の部屋へと進む。
扉を開けると、右手にベッドがあるのだが、その上に佐伯――いや、狂人がいた。
は?
そう口に出なかったことを幸運に思う。
もし出ていたら、獣のように襲われていたのではないかと危惧するほどに、彼は狂乱に蝕まれていた。
ベッドで仰向けに寝転んでいる佐伯はおおよそオレの知っている佐伯ではなかった。
焦点の合わない目。口からだらしなく飛び出ている舌。壊れかけの人形のように折れ曲がった四肢。そのうちの右足はベッドからズレ落ちている。
咄嗟に、ぃなを背中に隠す。
そのぐらい、今の佐伯とコミュニケーションを取るのには危険を感じた。
やっぱ、ぃなは連れてくるべきじゃなかったか。
元々、オレひとりで来るつもりだったのだが、「ワタシも協力したい」と懇願してきたため、連れてきたのだ。
現在の佐伯は、人格に深いダメージを負っていると聞いた。
今までとは違う人間になっていることを覚悟した方がいいと聞かされてはいたが、まさかここまでとは……。
固唾を呑んで、佐伯を見下ろしていると、事態は動いた。
焦点の合っていない瞳をエイリアンのようにぎょろぎょろ、とこねくり回し、オレと目が合うなり、
「おにいちゃん、だぁれ?」
と、幼稚園児のように尋ねてきた。
面食らって、ぃなは何も言えなかったが、オレは何とか会話を続けた。
「オレは厨川水誠。こいつは猫雅禎奈。佐伯修一の友達だ」
すると、佐伯は上体を起こすなり、心底不思議そうに首を傾げた。
「さえきしゅういちってだぁれ?」
そのセリフにはさすがのオレも二の句を継げなかった。
呆気にとられているうちに、佐伯は自己紹介を始めた。
「ぼくはユータって言うんだけど……」
なるほど。
いわゆる二重人格というやつだ。
精神的ショックで人格が新たに追加されるのは聞いたことのある話だ。
十中八九、オリジナルの人格、すなわちオレたちの知っている佐伯は『ユータ』という新しい人格に上書きされている。
オレが顎に手を当てて思考していると、幼児化した佐伯が無邪気な様子で腰のあたりに抱きついてきた。
「ねえ、あそぼー」
「おいおい、知らないお兄ちゃんに抱きついちゃ危ないぞー」
とん、と肩を持って引きはがす。
適当にあしらわれたことを気にもしないで、佐伯はポン、と手を叩いて、何かを思いついたとアピール。
「そうだ! キョウヤおにいちゃんならおにいちゃんたちのことしってるかもしれないよ?」
「キョウヤお兄ちゃん?」
「うん! ものしりだからきっとなんでもわかっちゃうんだよ!」
屈託のない笑顔で佐伯は言う。
「いまからじんかくかえてもいい?」
「え……っ」
オレの反応を待たずに、佐伯は顔を下向きに直角に折った。
人格を変える。
二重人格ではなく多重人格だったことに驚き。
約十秒ほどだろうか。
おもむろに顔を上げた佐伯。
その表情はまるで不良のようだった。
特に眼光が鋭く、目が合った者を無差別に切りつけていくような忌避感があった。
ブルッと身震いをしたオレは半歩だけ後ずさる。
「てめえのことなんざ知らねえよ」
ドスの利いた声がオレを攻撃する。
――ヤバイ。
直感がそう叫ぶ。
だが、その第六感的警戒も虚しく、佐伯の手が真っ直ぐにオレの胸倉を掴み、壁に力強く叩きつけてきた。
「――カハッ!」
肺の中の空気が押し出される感覚。
新しく息を吸う前に佐伯は膝蹴りをオレのみぞおちに食らわす。
呼吸も言葉もままならない間に、足をかけられ転倒。
冷たい床に弾かれたオレは、危機感に急かされながら声を張る。
「ぃな! 逃げろ!」
「水誠!」
「誰の許可で俺のテリトリーに入ってきてんだよ、ああん?」
圧倒的威圧感と佐伯の豹変っぷりに心がついていかなくなった彼女は足裏に接着剤でもつけられたかのように動かなくなっていた。
「うぜえ、うぜえなぁ。俺の視界から失せろ」
佐伯の部屋と廊下の境目あたりにいた彼女にズカズカと接近していく佐伯の背中を、見上げることしかできないオレ。
やべえ、このままじゃ……。ぃなが危ない!
何とかしたいが、もう間に合わねえ!
ひっ、と小さく怯えた声を漏らした彼女に拳を振り上げる佐伯。
「佐伯! やめろっ!」
「っるせえ! 全員消えちまえよ!」
怒号と共に振り下ろされた拳は彼女に当たる直前で空を切った。
「あっ?」
佐伯は不機嫌そうに首を鳴らして、ぃなの方を目視する。
何があったのか。
一部始終を見ていたオレは、ぃなを守るように押し倒していた佐伯の母ちゃんを確認。
「大丈夫?」と、ぃなに声を掛けた佐伯の母ちゃんはギッ、と事の元凶を睨みつける。
「修一! 大事な友達になんてことしてるの!」
「あぁ? もういっぺん言ってみろよ」
「……っ」
とても親子の会話とは思えなかった。
そこには明確な上下関係が存在し、佐伯の一言で母ちゃんは完全に停止していた。
何かを思い出したのか、恐怖で肩を震えさせ、ふるふる、と首を振る。
「ご、ごめんなさい……っ」
――ドゴンッ。
突如、佐伯が廊下の壁をグーで殴った。
「てめえはぁ! 俺からずっと『自由』を奪ってきたくせに、まだ俺を縛ろうとすんのか、ああ?」
「しないっ。もうしないから……。怒鳴るのはやめて……っ」
「俺に指図すんじゃねえよ。今までは見逃してやってたが、やっぱ痛い目みないとわっかんないかなあ? なああああぁ!」
ぃなの劈くような嘆きがこだまする。
「怖いよ、佐伯! こんなの佐伯じゃない!」
――バサリッ。
「あぁ? てめえ、俺に殺されてえのか?」
佐伯の背中にぶつかった現代文の教科書が音を立てて、床に落ちていった。
その教科書の氏名欄には、確かに『佐伯修一』と記入されている。
そして、教科書を投げた犯人――オレはニヤリとシニカルに微笑む。
「返せよ」
「何を?」
「えっと……今の人格はキョウヤだっけか? お前みたいなチンピラには用はねえんだよ。さっさと佐伯を返せ!」
「よし、殺してやる。決定だ」
ガッ、と佐伯はオレの顔面を鷲掴み、握りつぶそうと力を入れてくるが。
そんなことはどうでもよかった。
オレは佐伯の身体で好き勝手暴れているキョウヤとかいう人格に底のない怒りを感じていた。
同時にオレがこんな茶番を終わらせるべきだとも思った。
燈田さんが学校を退学して、佐伯のメンタルの乱れが顕著になり始めた時から、こうなりそうだとは想定できていた。
それなのに、オレは何もできなかったのだ。
募金活動の日、一時の感情に流され、言いたいことをただ吐き捨てただけ。
だからオレなんだ。元の佐伯を取り戻すべきなのはオレの役目だし、オレにしかできないことなのだ。
「いるんだろ、そこに。だったら出てこい、バカ佐伯!」
オレは佐伯の股間に蹴りを入れ、全身の力が緩んだ隙に自身の顔面の拘束を解き、右ストレートを佐伯の顔に手加減なしにぶち込んでやった。
「ンブッ――」
一気に形勢逆転。
さらに手を緩めることなくオレは髪を引っ張り、左の拳を腹部に刺すように埋め込んだ。
そのままベッドに投げ倒し、馬乗りの形を取る。
両脚で佐伯の両腕を拘束し、抵抗できない状態にする。
「――んぐっ。は、はな――」
有無を言わさず、また、有無を言わずに上から台風の日の雨のように殴り続ける。
右へ左へ。押しては引いて。拳の関節あたりがとりわけ痛くて腫れていた。
始めは何とか身体を動かそうともがいていたが、だんだんと抵抗する気力を失ったのか、大人しくなっていった。
反発する力がなくなったのを確認して、オレは殴る手を止めた。
佐伯の鼻や口端からは血が流れ、頬のあたりが少し痣になっている。
ギリッと眼光を飛ばすと、キョウヤに人格を乗っ取られている佐伯は急激に表情を崩していった。
さっきまでの不良みたいな目つきはどこかへ消えている。
「うわあああああああん。ママ~。痛いよ~。許して~!」
気色の悪い泣き虫に大変身した佐伯。
これは先ほどの『ユータ』という人格なのか、はたまた別の人格なのか。判別はできないが、オレのやることは一切変わらない。
オレやぃなにとってはいくつ人格があろうが、佐伯かそうでないかの二択でしかないのだ。
だからオレは元の佐伯を取り戻すために――
――泣きじゃくる佐伯の鼻っ柱をもう一発だけ殴った。
すると、佐伯はバグに侵された機械みたいに急停止した。
何が起きたかわからないといった感じだ。
それは見方を変えれば、人格に上書きされまくった佐伯が素に戻りかけているのと同義といっても過言ではないだろう。
そう断言できるほどの確信がオレにはあった。
胸倉を掴んで、核心を突く言霊を飛ばす。
「おい、本当は聞こえてんだろ? 佐伯」
訊かれた佐伯はうんともすんとも答えない。ただ口をポカンと開けているだけ。
違和感はあった。
人格がいくつか生まれるのは、いわゆる解離性人格障害であろう。
ただ、その場合、別人格同士で記憶を共有することはない。
なのに、佐伯は人格を『キョウヤ』に変えた時、第一声が「てめえのことなんざ知らねえよ」だった。
つまり、記憶を引き継いでいるのだ。
そこでオレは確信した。
元の佐伯はちゃんとこの惨状を見ていると。
「なあ。狂ったふりしてんじゃねえ。さっさと戻ってこい佐伯!」
「ああああああああああ」
「自分の声でオレの呼びかけをかき消そうってか? 残念! 何度でも言ってやるよ。狂ったふりしてんじゃねえ!」
「ああああああああああああああああああああああ」
佐伯は白目を向きながらジタバタと暴れ始めた。
だが、馬乗りになって拘束されているので、まったくもって歯が立っていない。
「あああああああああああああああああああああああああああ」
「聞けよ、オレの話を!」
激昂したオレは容赦なく佐伯に頭突きをした。
若干、興奮が収まったようだ。
オレはがなり立てた。
「オレをいじめのトラウマから救ってくれたお前はダチの頼みをないがしろにするような弱い人間じゃねえだろうがよ!」
「……っ!」
息を整え、穏やかな口調になるよう努める。
「オレは小学四年生ぐらいまでは自分で自分のことを友達に囲まれた幸せ者だと思ってたんだよ。親父が病院を経営してて金だけは腐るほどあったから、オレはよく友達に奢っていたんだ。ジュースとかゲームとか色々な」
そうすれば周りの奴らは笑って、「厨川といると楽しい」なんて言ってくれるんだから、オレも勘違いしていたさ。
友達を作るのが上手いなんて自惚れていた。
「でも、ある日おかんがオレの金遣いの荒さを注意したんだ。『お金は友達を作るためにあるんじゃない』って。そう言われて、腑に落ちたオレはその日から奢ることをやめると宣言したんだ。するとどうなったと思う?」
佐伯のリアクションを待つことなく、オレはニヒルに笑いながら続けた。
「『は? なんだそれ。じゃあお前なんか友達じゃねえよ』って。『奢ってくれないお前なんかに価値なんてない』って。『正直、お前のノリとかきつかったし、でも金出してくれるから仕方なく付き合ってやってただけなのに、調子のんな』って。一瞬で見限られたよ」
ハッと、今でもあの時の自分に嘲笑する。
「そっからは単純だよ。靴や筆箱を隠されるのは日常茶飯事。教室で男十数人に身ぐるみを全部剥がされ、全裸のまま階段から突き落とされたこともあったな。その後、制服は返してくれたが、下着だけは返してくれなくてノーパンで授業受けたっけか。結局、その下着の行方はわからずじまいだったが。あと、『魚釣りに行こう』って誘われたこともあったな。久しぶりに遊びに誘ってくれたから、当時のオレはやっといじめが終わるのかもなんて期待してた。でも、いざ行ってみると、『お前が魚だ』って言われてミミズを食わされたこともあったな。そんで『釣った魚を料理しよう』とか言い出して、ライターで腕を炙られ、『焼き魚の完成だ』って盛り上がってたな、あいつら。そういうのが中学卒業まで続いたな」
あの時のミミズが喉を通る感触が蘇り、吐き気を催すが、それでもオレは会話を続ける。そうすれば佐伯を取り戻せると信じて。
「ぃなにも悪いことをした。オレなんかの幼馴染だから、ぃなもいじめられていた。ふたりしていじめられていたから、高校はどこか遠くに行きたいと意見が一致した。オレはぃなと別々の高校に行きたかったが、ぃなが一緒じゃないと不安だって言い張るから、今の高校に入学した」
懐かしむようにオレは話した。
「最初はめちゃくちゃ怖かった。自分が金持ちであることもバレたくなかった。でも有名な病院だからすぐにバレた。バレた瞬間、終わったと思った。『金持ちがバレる=いじめられる』という方程式がオレの奥深くに染み込んでいたから」
フッと安心したような笑みが零れる。
「ビビッて誰にも声を掛けられなかったオレに真っ先に近づいてきたのが、当時真後ろの席だったお前――佐伯だったんだ」
「……」
「『厨川、だっけ。入学試験全教科満点らしいな。すげえよな。僕、勉強苦手だからさ、たまにでいいから僕に勉強教えてくれないか?』って言ってきたけどさ。警戒心たっぷりなオレは佐伯を一瞥だけして無視したよな? なあ、なんであん時そこで諦めなかったんだよ」
「……」
佐伯は口をつぐんだままだ。
だが、瞳の色が明らかに鮮やかになりつつある。もう少しだ。
「休み時間にさ、トントンってオレの肩を叩いてきて、何事かと振り向いたら、缶ジュースを二本持ったお前がいてさ。『これからお世話になるから、僕の奢りだ』っつって…………くそっ、お前バカかよ。母子家庭で金に余裕ないのに何してんだよ……」
思わず涙ぐんでしまうオレ。
それでも決して涙は流さない。
泣きたいんじゃない。取り戻したいんだ、佐伯を。
「どうしてって訊いたら『厨川と友達になりたいから』って言ったよな。奢ったことは嫌ってほどあったが、奢られたことのなかったオレはまずビックリした。そんでもってすげえ嬉しかった。こいつは金じゃなくてオレという存在自体を見てくれているってな。お前が初めてだったんだよ。初めての心からの友達だったんだ!」
オレは胸倉を掴んだまま、佐伯を激しく揺さぶる。
「オレは! ぃなは! お前に救われたんだ! 心優しいお前に! オレなんかと違って人間として強いお前が、いつまでも殻に閉じこもってんじゃねえ! なあ! お前の名前は何だ! 言ってみろよ!」
呼気を荒げて、肩を上下させるオレ。
言いたいこと、言ってやるべきことはすべて言い切った。
あとは、『佐伯』の言葉を待つだけだ。
すでに叫ぶことを止め、黙ってオレの言葉を受け止めていた佐伯の両の目から、一筋ずつ柔らかい光が頬を撫でた。
「……ぇ……ち」
「ああ? 聞こえねえよ! もっと大きな声で!」
「佐伯! 僕は佐伯修一だあああああ!」
ったく。おせえよ。もう戻ってこねえかと、こっちがどんだけ心配したと思ってんだ。
オレは仰向けの佐伯から下りて、佐伯を立ち上がらせる。
ベッドに腰かけている状態の佐伯に、オレは穏やかに拳を向ける。
「寝すぎだ、親友。もう夜は明けてんぞ」
へッとバカみたいにオレが笑うと、佐伯も真似をするように笑い、拳と拳を合わせた。
眠りたくても、起きたくなくても、夜は無慈悲に明けていくものなのだ。
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