第35話 割れないさ、しばらくは

【佐伯視点】


 美侑が石になってから一週間だろうか。


 心が潰れる音を聞いてから、僕は――僕の身体は得体の知れない何かに乗っ取られていたかのようだった。


 まるで、運転席に座ってハンドルを握っているのは自分なのに、思う通りに車が動かず、フロントガラス越しに人を撥ねていくのを見せつけられていくかのようだった。


 過ちには気づいているのに、即座に訂正できない感覚はもう十分だ。あんなの二度と味わいたくない。


 とはいえ僕に責任がないとも思わない。


 ここ最近、周りの人に迷惑をかけすぎたのは事実。


 とにかくまずは近くの人間、厨川とネコと、そして母さんに頭を下げた。


「ごめんなさい。本当にごめんなさい」


 厨川とネコは「元に戻ってよかった」と祝福。


 母さんは泣きながら抱きしめてきた。「よかった、よかった」とだけ繰り返して。


 母さんには特に迷惑かけっぱなしだったから、僕も「ごめん。本当にごめん」と心を込めて繰り返した。


「気ぃ済んだか?」


 厨川の気遣いに、僕は無言で首肯。


「なら本題に入るが――」


 そう言って厨川は僕の肩にトンッ、と手を置く。


「今日の目的は佐伯の目を覚まさせるだけじゃない」


 そのことはネコも初耳だったのか、驚いた様子を見せていた。


「どういうことだよ、厨川」


 僕の問いかけに厨川は怪しげに笑う。




「燈田さんを元に戻す」




「……………………は?」


 ――燈田さんを元に戻す――って、燈田って燈田美侑のことか?


 そんなバカな。


 もう戻らないから僕はあれだけ絶望して、絶望して、そして狂ったんだ。


 今更、そんな夢物語みたいな話、にわかに信じられない。


 厨川はいたって真剣な眼差しで続ける。


「気休めでも冷やかしでもない。オレは本気だ、佐伯」


「でも……、美侑はもう……」


「なあに、燈田さんは石になったが死んだわけじゃないんだ。そうだろ?」


 確かに厨川の言う通り、美侑は『死んだ』とは言えない。


 すべての細胞が機能しなくなったくせに、身体が腐らないのだ。


 すなわち、『時が止まっている』と表現した方がこの場合は適切なのかもしれない。


 けれど、美侑の今の状態を『時が止まっている』とみなしたところで、再びその歯車を動かす手段を持ち合わせていないのだから、それを現代の医学は『死んだ』のとほぼ同じだと言及しているのではないか。


 一向に厨川の真意が見えず、狼狽えていると、厨川は言った。


「心配すんな。ちゃんと手は考えてある。超絶確率が低い賭けだけどな」


 確率の低い賭け。


 その言葉を聞いた僕は、身体の芯から熱が煮えたぎってきた。熱い。


 もう無理だと。すべて手遅れだと。何もできないと。


 そう思っていた矢先、僕にまだ運命に抗う方法をくれたのだ。


 上等だ。賭けられるだけ百万倍ましだ。


 美侑が息を吹き返すことが確定したわけではないのに、それでもこの腹の底から湧いてくる嬉しさを忍ばせるには、あまりにも人間の身体は小さすぎる。


 でもわかっている。


 まだ詳しい説明は厨川から聞いてはいないが、成功する確率なんてほぼないことは何となく察している。


 けれど、やっぱり嬉しいのだ。


 やれることがまだ残っているのだから。


 僕にはまだ生きる意味が消えていなかったのだから。


 固唾を呑み、僕は厨川の説明に耳を傾けた。


 ――そして、すべての説明が終わった後。


「佐伯。この作戦を実行するなら、今から言う三つのことは守ってくれ」


 厨川は指を順番に折って、条件を提示。


「ひとつは学校に通え。ふたつは受験勉強を疎かにするな。三つめは佐伯の母ちゃんに負担をかけるな。賭けとは言ったが、お前の人生を棒に振らせるわけにはいかねえ。わかってくれるか?」


「わかった。約束する」


「男に二言はねえぞ、佐伯」


 僕と厨川は再び拳と拳を合わせた。


 呆れたように僕は笑って、厨川に問いかける。


「にしてもよくこんなことを思いつくよな。何か参考になるものでもあったのか?」


「ねえよ、そんなもん。ったく、このオレが誰だか忘れたか?」


 厨川はドヤ顔で、描写を省きたくなるような中二病のポーズを決めた。


 こいつが何を言うのかわかってしまった僕の口元はちょっとだけ綻んでしまう。


「なぜなら厨川だからな」


「マジでそれ、ずるいわ」


 のそのそ、と寄ってきたネコは「佐伯、応援してるし、困ったことがあったら頼ってきて」と申し出て、ポケットからチューイングガムをひとつ分けてくれた。


「ネコ、ありがとうな」


 ありがたくガムをいただき、口に含む。


 何となくガムを膨らまそうとはしなかった。割れるのが必然だとわかっているなら、いつまでもその味を噛みしめていたいと思ったから。


 ここから僕たちの戦いは始まった。

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