逆撫で石を詠う

第33話 狂

 恋人が石になった。もう治らないそうだ。


 八月の夜。


 ずぶ濡れになっている僕は、ベッドで眠る――いや、石のように固い美侑の横でただ項垂れている。


 美侑の手を握ろうとした時、ようやく自分が傘もささずにここまで飛んできたことを思い出した。


 とりあえずポケットに入っていたハンカチで驚くほど冷静に水滴を拭きとった。


 それでもまだ僕の髪は湿っているし、衣服と素肌がぐっしょり、と張り付いている。


 僕を濡れ鼠にしているすべての水分が僕の涙だとしても、美侑を失った悲しみを表現するには、まったくもって足りない。


 病室の冷房までもが僕の体温を奪う。


 震える指先を美侑の方へ近づけ、そして手を握る。


 彼女の手は僕よりも冷たかった。


 そのことに僕はうかがい知れない恐怖を抱く。


 人間とは思えないほど固くて冷たいその感触は、病熱にやられながら見る悪夢のように不気味だった。


 しばらく僕は手を握り続け、消えてしまった美侑の温もりを探し回っていた。


 けれど、いつまでたっても行方不明なまま帰っては来ない。


 その内、捜索者である僕の方が袋小路に迷い、左右上下がわからない心地になった。


「……美侑」


 僕の名前は返ってこない。


 代わりに、今まで美侑と過ごした時間が脳内に蘇った。


「僕は美侑がいつも人のために頑張るところが好きだった。そのために自分を抑え込むところは心配だったけど、そこも含めて好きだった」


 身体から雨漏りのように雫を落とす僕。


「甘いモノには目がない美侑が好きだった。桜のように笑う美侑が好きだった。時々からかってきて、でも僕にやり返されるとすぐに負ける美侑が好きだった」


 僕は彼女の手を強く握り直した。


 出会った時とは違う意味で無表情な彼女を見ていると、胸が締め付けられる。


「なあ。美侑は僕のどこが好きだったんだ?」


 当然、返答はなし。


 深海の底に光が届かないのと同じで、すでにどうしようもない状況に絶望を味わう。


 それでも。


 この期に及んで、ふと美侑が起き上がって、


『そういうところ』


 なんて、金鈴が泣くように笑ってくれるんじゃないかと。


 万にひとつもありえない返答を期待して。


 そうして、やっぱそんなわけないよな、って落胆。


 懲りない僕は輪廻をグルグル巡るように、再び期待するんだ。


 美侑がふとした瞬間に目を覚ますと。


 ずっとずっとずっと。


 繰り返せば繰り返すほど、虚しさだけが育っていく。


 聞いておけばよかった。


 昨晩、思い出話をしたくせに、どうして僕は……。


 巨大な後悔が心臓を鷲掴みにしてきた。


 美侑は僕のどこを好きだと言ってくれるのだろう。


 昨日の僕はこう考えたのだ。


 今、それを聞いてしまったら、明日、美侑が消えてしまうんじゃないかって。


 冗談じゃない。


 僕は憤慨した。


 大切な言葉は思いついたらすぐに届けるべきだ。


 そんな小学生でもわかりそうなことを今更肝に銘じたところで、すべて後の祭り。


 もう届ける相手がいないのだから。


 果てしない喪失感は僕の理性さえも枯れさせた。


 涙なんてとうに流れなくなっている。


 能面のように静かな心は、まるで嵐の前の静けさを予感させる。


 胸中に狂騒の芽がくすぶる。


 この世を構成するすべての存在が鬱陶しい。はらわたが煮えくり返る感覚。


 美侑を担当していた主治医の「症状が早すぎる」という怨恨。


 美侑の両親が崩れ落ちた、その姿。


 そして、何もできず、ただ周囲に当たり散らす愚鈍で愚劣で滑稽な僕。


 理不尽だ。僕の抱くこの憤怒は手の付けられない、荒唐無稽な理不尽でしかない。


 呼吸の仕方を忘れ、僕は心臓のあたりを手で押さえつける。


 苦しみから解放されたいのと同時に、苦しみを逃がしたくない一心で。


 ――グシャッ、と心が潰れる音を聞いた。











 死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ。


 獣のような叫び声が病室に響く。







「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」







 続けて、狂気に満ちた笑いがこの場を支配した。







「アッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハァ!」







 何事かと病院関係者があわてて病室へ駆けこむと、そこでは床で大の字になっている、人間に似た生き物が張り裂けた口で笑っていた。

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