金石の交わりではない何か

第9話 邂逅

 燈田との契約成立から約一カ月。あれから燈田は約束を一度たりとも破ることはなかった。平日は弁当を届けてくれるし、休日でも夕食のおすそ分けに来てくれる。栄養価の高い食事のおかげで、僕の顔色が良くなったと友人の厨川やネコからも指摘された。


 だが、精神的に少し参っている部分もある。


 口では簡単に頼んでしまったが、食事の面倒を一部とはいえ、毎日見てもらうというのは想定より罪悪感に苛まれる。燈田の、クオリティが高い料理を口にする度に、『自分はなんておこがましいお願いをしたんだ』と自責の念に駆られる。燈田自身が恩を返すためにやっていると、自覚していてもだ。


 そんな自分が咎人のように思えて、未だに母親に燈田のことを明かせていない。


 夫婦仲の決裂が原因で別れた母親なのだ。ただでさえ男女関係に敏感だと予測されるのに、日々の料理まで作ってもらっていると知られたら、何を言われるかわからない。少なくともトラブルが生じるのは、容易に推測できる。


 何とか残り一カ月を波風立てずに凌ぐのだ。助けてもらっている立場で凌ぐとか意気込んでいる自分にますます罪の意識を芽生えさせるのだから、いよいよ負のスパイラルからは脱せない。


 一方で、燈田との信頼関係は良好になりつつある。


 出会った当初は互いに疑心暗鬼……あるいは探り探りの距離感だった。内心で価値観の線引きをしながら会話を紡ぎだしていた。


 けれど、一カ月も付き合いが続けば、距離感も少しは近づいていた。もちろん価値観の線引きは今も行われているが、そのハードルがずいぶん低くなったのだ。これは言ってもいい、これは言ってはダメの基準が緩くなり、以前に比べたら過剰に気を遣う機会は減っていた。


 燈田に対し、フランクな口調で接するのも板についてきた。


 僕の家のダイニングで、今日も燈田と談笑している。


「今日、国語の先生がダジャレ言って、スベってたのがすごく面白かったの」


「そんなことがあったのか」


 初めはおすそ分けを玄関前で受け渡して、終了だった。でも、日々を重ねていくにつれて、燈田はいつの間にか僕の家に居座っていた。こうしておすそ分けを渡した後は、僕の家のダイニングで『今日は何があった』とか『こんな面白いことがあった』だの、俗にいう雑談を繰り広げるようになったのだ。


 僕としてはそんな何でもない日常を純粋に楽しんでいる。確かに、あの『高嶺の花』の燈田美侑を家に招き、ふたりだけの空間を享受できている状況をレアだと胸中で評した時もあったが、今となっては『高嶺の花』の燈田美侑ではなく、『ひとりの女の子』としての燈田美侑である。遠巻きに観賞しているだけでは絶対に見えなかった彼女の性質は、意外と普通、という点。


 何となく、聴いている音楽はクラシックのような硬派なモノで、休日は優雅に読書でもしているものだと勝手な憶測を抱いていたが、実際はほぼ真逆。


 ――燈田ってやっぱり普段はクラシックとかを聴いてるのか?


 ――ううん。普通に流行りのJ―POPとかを聴いてる――


 のような会話をしたのが、二週間前。


 ――休日は何してるんだ? やっぱ小説でも読んでいるのか?


 ――小説は色んな解釈の余地が含まれてるから、苦手なの。いつもはYOURTUBEで動画見て過ごしてるけど……。


 ――けど?


 ――佐伯って私のこと、お嬢様か何かだと勘違いしてない? 私だってちゃんと今どきの女子高生なんだけど?


 ――とはいっても学校での姿が凛としててカッコいい感じだから、イメージがな……。


 ――ふーん。ま、私ってカッコいいもんね。ジャニ○ズにでも応募してみようかなー。


 ――え?


 ――素で驚かずにツッコんでよ、恥ずかしいなぁ。


 ――あぁ、すまん。燈田が軽口言うのにまだ慣れなくてな。


 ――ほんと、私のこと買い被りすぎ。こう見えても、お笑い好きなんだから。あ、そういえば昨日のテレビに出てきたお笑い芸人が面白くて――


 のような会話をしたのが、一週間前のこと。


 話せば話すほど、燈田美侑という女の子は普通どころか、意外と陽気な性質を持ち合わせていたと知る。


 桜の蕾が小さく開いたような彼女の笑顔が、今も僕の瞳に映っている。


「あーもうこんな時間。じゃ、私は帰るね。佐伯、また明日」


「おう。またな」


 制服姿の燈田は別れを示すよう、ひらひらと手を振り、テキパキと身支度を整えて、ダイニングを後にしようとする。


 が、ちょうどその時、『ガチャリ』と玄関のドアが開く音がした。


「ただいまー。……ん?」


 やばいやばい、母さんだ。でもなんで!? 早く帰ってくるならいつもスマホに連絡が入るんだが。


 あわてて、僕はスマホを確認。時刻は十九時前。通常なら母さんは二十三時過ぎに帰宅するはずだ。いくら何でも早すぎる。


「え、えと……どうしよう佐伯」


 燈田らしくなく、いや、決まった段取りを好み、イレギュラーに弱い燈田らしく右往左往して、僕に詰め寄る。


「や、マジでちょっと待って。何か色々とちょっと待ってほしい……」


 世界水泳よろしく、目を泳がせながら言い淀む。その間にも、母さんの足音はとん、とん、とん、と大きくなっていく。


 玄関とダイニングを繋ぐ扉がガチャっと開かれ、スーツに身を包んだ母さんと燈田が相まみえる。


「あら。お友達が来てたのね。いらっしゃい」


 女性が電話に出る時みたいに声音を和らげて、母さんが応対する。


「あ、どうも。同じ……えっと……修一君と同じ学校の燈田美侑と言います。その……お邪魔してます……」


 燈田はしどろもどろになりながらも、形式に沿った挨拶を無事に完了。


『同じ』で言葉を詰まらせたのは、おそらく僕と燈田の関係性を主張するのが難儀だったのだろう。確かに同じクラスであれば、簡易だっただろうが、生憎僕らの関係は入り組んでいる。一言で説明できないと悟ったがゆえの『同じ学校』という共通点。それを聞いて、僕は改めて、燈田とこうして共に時間を過ごしていることに違和感を覚えた。安々と手放したいと思わなくもなっているが。


 燈田は友達の家に遊びに行った経験は一度もないらしい。だから、現在はまさに借りてきた猫状態。口をあわあわさせながら、焦燥と共に意思を吐き出す。


「あ、あの……私、ちょうど今帰ろうとしていたところだったので、その、本当です。ですので……お、お邪魔しました!」


 母さんが引き留めるよりも先に、燈田は足早に帰っていった。


 彼女のせわしない背中を見届け終わると、母さんは黒のハンドバッグをソファーに置いて、息を吐く。


「修一、彼女いたのね」


「や、燈田は彼女じゃなくて……その、友達だよ」


『友達』と僕の口から出たことに、僕自身が少々驚く。


 そうか。僕は燈田のことを友達だと思えるほどの時間を過ごしてきたんだな。


 失言をしないように、薄氷を踏む思いで、母さんの質疑応答に続く。


「そうなんだ。てっきり晩御飯を作ってくれているから、彼女なのかと思ってたわ」


「は!? え!? なんでそのこと……っ!?」


「だと思った。最近、晩御飯のレパートリーが明らかに増えたんだもの」


「鎌かけたのかよ」


「かけたけど、顔見てればだいたいわかるわ。親なんだもの」


 うんうん、と満足そうに頷く。そして、早く帰ってきた理由を思い出し、母さんは言う。


「あ、そうそう。予定より仕事が早く終わったのだけれど、スマホの電池が切れちゃって、すぐに帰れるって連絡できなかったの。ごめんね」


「そこはもう気にしてないからいいけど」


 今更、早く帰ってきたわけなど後回しだ。まずは燈田関連の話がしたい。


「あのさ――」


「わかってる。さっきの子の話がしたいんでしょ? とりあえず、そういうのは晩御飯食べる時に話してちょうだい」


 母さんの申し出に僕は黙って首肯。


 晩御飯や風呂の準備に取り掛かろうとしたが、「早く帰ってきたし、今日は任せといて」と母さんが代役を買って出た。


 一旦、頭の中を整理したかったので、まさに渡りに船。


 僕は自室のベッドに仰向けでダイビングし、天井を見つめながら、思考の海に沈んだ。

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