第10話 不仲

 気がつくと、僕はマンションの一室にいた。今のアパートに引っ越す前の居住地。僕自身の身体もかなり幼くなっている。幼稚園児ぐらいだろうか。


 辺りを見回すと、キッチンやらダイニングやらを右往左往する母親の姿。


「こらっ、修一。水筒忘れてるわよ」


 そう言って、母さんは五〇〇ミリリットル容量の水筒を僕に持たせる。


 なるほど、僕は幼稚園の頃の記憶を夢に見ているのか。リアリティがありすぎて、途中まで僕や母さんが若返ったのかと勘違いしていた。


 そういえば幼稚園に通っていた時の僕はいつも母さんを困らせていたな。


 幼稚園で友達とケンカして怪我をさせる度に、母さんは相手の親に頭を下げていたし、ほぼ毎日身体に傷をつけ、絆創膏まみれになっていた僕を看病してくれてもいた。




 けれど、父親に迷惑をかけた覚えは一度たりともない。




 閑話休題、楽しかった思い出もある。


 運動会なんかは毎回、母さんが写真を撮ってくれて、それを家で振り返った。授業参観では、カッコつけたくて、わからない問題の時に挙手し、先生に指名され、「わかりません」と答えたことで、現場にいた母さんが赤っ恥をかいたのも今となっては笑い話だ。




 けれど、父親に恥をかかせた覚えは一度たりともない。




 僕にとって父親とは何か、と聞かれれば、逆に「父親ってどんな存在?」と聞き返したくなる。あるいは、二十時ぐらいに帰ってきて飯食って、ひとりでゲームしてる犬以上家族未満の他人、といったところだろうか。訂正。愛くるしくない点を鑑みれば、犬の方が断然、愛着がわく。


 正直、僕は両親が仲良さそうにしている姿を本当に見たことがない。なぜ結婚したのかわからないぐらい、毎日、口喧嘩または無視。でも、「なんで結婚したの?」なんて訊く気が起きなかった。そのぐらい剣呑な雰囲気が食卓を統べていたのだ。


 だが、僕の父親の生活態度はいうほど悪くはないのだろう。ギャンブル、タバコはしない。(タバコに関しては、僕が赤ん坊だった頃、不注意で父親がタバコを僕に押し付け、火傷を負わせてしまった際、母さんが禁止令を出したため)


 ニートってわけでもなく、一応、働いてはいたようだ。作業着姿で風呂場に駆け込むのを何度も見たことがある。


 僕は特に直接的な被害を受けた記憶はない。父親にはまるで息子である僕の姿が見えていない。まさしく透明人間の気分だった。


「今日の星占い、いて座が一位でおうし座が八位だって」


「あ、そう」


 朝。通勤通学の時間帯。朝食をとりながら、僕がどうでもいい会話を投げかけた時の父親のそっけない返しだ。まあ、後にどうでもよくない『いじめ』の相談にも父親は見向きもしなかったのだが。


 ちなみに母さんは「んー微妙よねー。修一はどうだったの?」と返答し、「うお座は四位だった。勝った」と胸を張ると、「負けちゃった~」とわざわざ付き合ってくれた。


 言い忘れていたが、僕は父親が嫌いだ。母さんを困らせてばかりだからだ。


 ――俺はお前らの分まで稼いでやってるんだ。家にいる時ぐらいゆっくりさせろ!


 ――そういうのはもっと稼いでから言ってちょうだい。


 母さんが父親に家事の手伝いを頼んだら、確実に発生する口喧嘩イベント。もう何百回も耳朶を打ってきた。


 ついでながら、このイベントは母さんが体調を崩している時にも適用される。慈悲も情けもない父親に代わって、僕が微力ながら家事を手伝っていた。


 そんな空中分解したままの家族生活に終止符を打ったトリガーは『カードゲーム』だ。


 当時、小学五年生だった僕は『遊戯帝』というカードゲームにハマっていた。よく学校の友達とも遊んでいた。


 そして、どういう風の吹き回しか、父親が一緒にやろうと声を掛けてきたのだ。驚いた僕は、訝しげに首を縦に振った。カードゲームに用いるデッキを僕は二つほど所持していたので、その片方を父親に貸した。


 このゲームが父親との最初で最後の交流だった。


 ブチギレたのだ。


 大の大人が自分の息子にブチギレたのだった。


 勝勢の僕が「次、父さんの番だよ」と教えてあげたのを、煽られたと捉えたのか、


「てめぇ、いい加減にしろよ!」


 と怒鳴り散らし、持っていたカードを強く床に叩きつけた。


 何が起きたのか、理解できなかった。


 カードゲームは同級生ともやるし、時には下級生と一戦交えたこともあった。それでも、対戦相手にブチギレられたのが初めてで、どうしようもない恐怖感に駆られ、泣いた。


 父親は怒りの矛先を近くで見ていた母さんに向け直し、そのまま揉めだした。


 その日からあからさまに父親が荒れた。


 弱いくせに酒を飲んでは、僕や母への侮辱。通りすがりに肩をぶつけてくることもあった。


 それに比例して、母さんが僕に愚痴る数も多くなった。


 聞いていてちっとも楽しくない話を毎晩毎晩聞かされた僕の精神は病みに病んだ。僕が生まれたのがいけなかったのかと悩んだ夜も数知れず。


 そうしてついに、父親は暴力を解禁した。


 僕は殴られなかったが、母さんが殴られ始めた。だが、椅子やら食器やらを投げ散らかし、その被害に巻き込まれる形となった。


 耐えられなくなった母さんが、離婚を切り出し、父親はそれにあっさり応じる。


 僕は今でも覚えている。


 親権をどっちが握るのかを決めるのに、僕の意思を確認する必要があったのだろう。


 父親が僕にかけた言葉はこうだ。


「お前はお父さんとお母さんのどっちについていきたい?」


 子どもながら、僕は気を遣って、たくさんの言葉を労し、悩んだふりをして、「母さんがいい」と結論付けた。


 すると、父親は、


「そうか。わかった」


 とだけ無感情に呟き、どこかへ行った。


 その時の父親の顔を見て悟った。


 あぁ、やっぱどうでもよかったんだなって。


 晴れて母子家庭となった僕と母さんは居住地を今のアパートへと移し、新生活をスタート。


「今日の星占い、おうし座が一位だって」


「あら、本当ね。修一はどうだったのよ」


「うお座は五位だって。ラッキーアイテムは豚の生姜焼きかぁ。じゃあ今日の晩御飯は豚の生姜焼き作って待っとくから」


「晩御飯に作っても遅くない?」


 フフッ、と目を細める母さん。


「じゃあ、仕事いってくるから。修一も時間になったら学校に行くのよ」


「わかってるって。いってらっしゃい」


「いってきます」

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