第8話 石硬症
ダイニングにて、向かい合って腰を落ち着けた僕と燈田。何となくつけたテレビには、夕方のニュースが淡々と流れていた。内容はあまり耳に入ってこない。それよりも燈田の容体の方が気になるからだ。
僕が提供した水に、燈田は口をつける。
ちゃんとコップの取っ手を持てているし、問題なく喉は水を受け入れている。
まるでさっきの出来事が夢の中だったみたいに、苦しんでいた面影がない。僕が知り得る、高嶺の花の燈田美侑だ。
飲み干してから、コトンッ、とコップをテーブルに置く。そしてカミングアウト。
「私、『
「石硬症?」
聞き慣れない言葉……いや、でもどこかで聞いたことがある気もする。
脳内で、思い当たる節を片っ端からサーチしていくが、一向にヒットしない。そんな僕の苦労を察した燈田は、先回りして説明する。
「石硬症っていうのは急に身体が石のように固まって、言うことを聞かなくなる病気のこと。詳しいことは世界的な名医でもわからないらしくて、唯一判明してるのは、『自由への恐怖』が原因なのではないか、と推測されているということだけ」
「自由への恐怖?」
「そう。世間で多様化が進んだことで、昔より人生における選択肢が莫大に増えたのは、佐伯も聞いた話でしょ?」
「そうだな」
学校では制服と私服の選択制であったり、髪色だって自由にセットできたりする。一昔前はキラキラネームなんて呼び方でこき下ろされていた名前も、今やひとつの選択肢として大いに受け入れられている。
また、将来の夢――進路に関しても、選択は全面的に子どもに委ねられている。親や教員はアドバイスこそすれ、『こっちの方がいい』と強い意見を述べることはない。むしろ述べてはいけないとされている。
――選択する権利はすべての人間に、平等に。
それを侵す者は激しく糾弾される。世間に広まる暗黙の了解。
世の中、それも周囲の顔色を窺うのが大好きな日本では、子どもの選択肢を奪う者は悪だという空気がいとも簡単に形成され、現代では当たり前の常識として知れ渡っている。
だから、今更その風潮を咎めようとする人間なんて、少なくとも日本にはほとんどいない。
僕が考えをまとめている間も、燈田は言葉を続ける。
「選択の自由があるのは確かに良いことだと思うよ。自由が一切なく、人形のように好き勝手操られるよりかは、何百倍もまし。それでも、今の世の中では選択を委ねられすぎて、それに伴う責任の重圧に耐えられない人もいるの」
「どんな思想にもマイノリティは存在するからな。責任の重圧ってのも、わからんでもない」
「ここまで話せば、佐伯ももう理解してるかもだけど、要は、私も自由が怖いの。石硬症は、当人が自由を強く拒絶した結果、その反動として自らの身体の自由を奪う――つまりは身体を動けなくするという手段で、強制的に自由を奪ってるんじゃないかって、私が以前診てもらったお医者さんはおっしゃってくれたの」
「なるほど、正しい言い方かわからないが、最近生まれた精神病の類ってことか?」
「そういう認識で問題ないと思う」
燈田が大変な思いをしているのは十二分に伝わった。いつ起こるかわからない身体の硬直に怯えながら、日々を過ごしているのだ。そのくせ、病気の詳細はわからず、その病因も自由を推奨する世間的に見れば、共感されにくいときた。いわゆる八方ふさがり。
燈田に強く同情はするが、同時にすっきりと消化できないしこりのようなモノが僕の胸の内にこびりついている事実を否むこともできない。
なにせ、僕自身は『自由』に憧れているのだから。
母子家庭で、小五の頃から好きなことができていない。ゲームがしたい。好きに読書したい。どこか遠くに遊びに行ってもみたい。
先刻、責任の重圧について『わからんでもない』と言った。そのセリフに嘘は決してありえないのだが、僕の場合、その重圧すら憧れの対象なのだ。
今まで生きてきた中で、自分の行動に責任なんて感じたことがない。それが当たり前だからやってきただけ。仕事でへとへとな母親の代わりに家事を担うのはただの義務だから。換言すれば、常識なのだから。
僕が好んで自由を奪われているわけではない。環境が環境だから仕方がないのだ。仕方がないなんてメンタルなんだから、そこに責任が介在する余地なんてあるわけがなかろう。
だからこそ、燈田の言う責任の重圧に同情はするが、共感はできない。
ただ、それを彼女に伝えるべきではないのは、いくら社会経験が少ない僕でも知覚できるため、そっと心の内に潜めておく。
彼女に対していささか非情かもしれないと思った僕は、小さな罪滅ぼしのつもりで、こう尋ねた。
「石硬症についてあまりわかってないとは言っていたが、治療法もまったくわからないのか?」
その質問に対し、燈田は目を伏せた。
「完治させる方法は相変わらず……。でも緩和させるなら、何らかの手段で自由を縛るのが効果的らしいの」
「例えば――」と燈田がいくつかの例を示そうとしたその時、テレビのニュースが適時適切な話題を映し出した。
『――石硬症とはどういった病気なのか。石硬症と三年間闘っている中学三年生の
インタビュアーの懸命そうな音声が響き、映像はふたりの夫婦にアップされる。
もう何度もインタビューを受けているのか、慣れた様子で淡々と話している。内容としては、直近で燈田が言及してくれたのと類似していた。
しかし、ただ一点だけ、見過ごせない真実がテレビの画面に映った。暗闇で後ろから獣にでも追いかけられているかのように、僕の心臓が早鐘を打ちだした。
――目戸千草さんは手以外がほぼ動いていなかった。
意識はあるようだ。意思疎通もできるらしい。ただし、口語によるものではなく、五十音が表記された板を使った、簡単なやり取りだけ。
彼女は腕の上げ伸ばし以外の動作を石硬症により封じられていたのだ。
僕は唖然としていた。開いた口が塞がらなかった。怖くて燈田の方を見られなかった。皮肉にも石のように僕も動けなくなった。
燈田も何も言わない。たぶん、テレビにくぎ付けになっているのだろうが、それも僕の推測にすぎない。
何を考えているのかわからないし、人間関係のトラブルに臆病すぎる僕は、怖くて燈田の思考を知りたくもなかった。
そんな中、報道は予定通り進行し、目戸千草さんの両親が発言を加える。
『娘の病状は特別ひどいだけで、ほとんどの石硬症患者は問題なく社会生活を営めるそうです。寝たきりになっているのは国内では娘が初めてのケースだそうで――』
それを聞いて、僕は九割の安堵と一割の不安を獲得した。脊髄反射で、燈田の方に顔を向けていた。
燈田は案外、余裕そうに前髪を弄りながら、言葉を紡いだ。
「治療法がないとはいえ、ほとんどは日常生活に些細な支障をきたすだけ。唐突に動けなくなるだけで、死に直結する病気でもないし。車の免許が取れないとか、所詮その程度なの」
「まあ…………そういうものか」
つい、一割の不安を零してしまいそうになったが、寸前でストップ。
――でも目戸千草さんのようになる可能性もゼロではない――なんて僕から言う必要ないし、十中八九、賢い燈田ならそのことも認識しているだろう。不必要な不安をこれ以上共有するべきではない。
僕は気休めにもならないため息をホッと吐く。画面はすでに報道スタジオへと戻っていた。
テレビの向こう側で、正装した大人たちが、毒にも薬にもならない言葉の玩具で遊んでいた。
「親御さんは石硬症のことをどれだけ……って部外者の僕がこれ以上詮索するのも忍びないな。悪い、忘れてくれ」
「大丈夫。あんな情けない姿を晒したのは私だし、助けてくれた佐伯を部外者扱いなんてしないって」
燈田は瞳に自嘲の色を混じらせて、苦笑する。
「親はもちろん心配してくれているよ。お医者さんに診てもらった時だって、同伴してくれてたわけだし。ただ、やっぱり世間的な常識として、石硬病はほとんどが軽症、例えばペットボトルの蓋が一時的に開けられないとかその程度で収まるのが『普通』なの。だから、親も私の意見を尊重して、それほど事態を重く見ていない」
「そうか……」
燈田の主張から、僕が思っているほど石硬症の症状は深刻ではないことが脳内にインプットされた。
けれど、深刻ではないと、過剰にアピールしすぎていないか?
それがかえって、燈田が己に言い聞かせているように思えて、身勝手な憂慮を抱く。
仮に、僕と燈田がこうして家で談話する契機となった出来事――すなわち彼女が階段から落ちたのも、この石硬症の発作が原因だとしたら……。
僕には何ができる。何をすべき。そもそもできることはあるのか。
燈田は重く受け止めないでいいと言った。確かに、石硬症の症状のほとんどが蚊に刺されるぐらいの些末なアクシデントなのだろう。しかし、燈田が無理して強がっているのだとしたらどうだ。
現に、話せなくなり、身動きが取れない状況に陥っていた場面を僕は見てしまった。先ほどは近くに僕がいたから安全を確保できたにすぎない。でも、そうでない時、彼女の身に危険が迫らないと誰が断言できるだろうか。とても放っておいていい形勢とは思えない。
それに、燈田は親も石硬症のことを知っていると証言したが、本当に知っているのか?
知っているのは最初期の――つまり医者に診てもらった時点の症状だけで、時間が経って、石硬症の症状が悪化していたとしたら? それを燈田が隠しているとすれば?
これらは余すところなく僕の憶測にすぎない。杞憂で済めば万々歳。
それでも、僕はそういった最悪の可能性に少しでも触れてしまったのだ。暗い、暗い洞窟の入り口に顔を突っ込んでおいて、見て見ぬふりができるほど僕は大人ではないようだ。
頭を雑に掻き、んんっ、と咳払い。
「そういや、さっき中断された話題に戻るけど、症状を緩和させるなら、何らかの手段で自由を縛るのがいいって言ってたよな?」
「うん。学校の時間割なんかはいい例で、ああいう風に制約があれば、その分自分の行動にのしかかる責任が減るから、たぶんマシになるんだと思う」
「了解した。なら、七月末までだ」
「ん? 何が?」
燈田はきょとんと小首を傾げた。黒翡翠の双眸が見据えてくる。
「燈田が僕に恩を返すために、弁当作ったり晩飯のおかずをおすそ分けに来たりするのは七月末までにしよう。八月からは母親の帰りが少し早くなるらしいから、僕の負担もそれほど多くなくなる」
今は五月末。約二か月の契約と、僕が決めたにしては長めの設定だが、短すぎるのもあまり芳しくないだろう。
「佐伯はそれでいいの?」
「逆にダメな理由なんてどこにあるんだよ。こっちからすれば、無償で手間が省けるんだぞ。僕の方こそ要求しすぎかと思ったんだが、燈田こそいいのか?」
燈田は無感情の声音で返答。
「私はただ恩を返すだけだし。むしろ明確な『ルール』を設けてくれたわけだし、私としてはすごくやりやすい」
「じゃあ決まりだな」
「うん。決まり」
そう言うと、燈田がスッと、氷細工のように華奢な手を差し出してきた。
「え? 握手?」
「よろしくねって意味の握手だけど……嫌ならいい」
「あ、いや、こちらこそよろしく……お願いします」
「敬語はヤダな。これからも仲良くするんだし」
「そ、そうか。じゃあ……よろしく」
ギュッと固く握手を交わす。
階段から転げ落ちた後、立ち上がる時に差し出された彼女の手は握れなかったが、今回はなぜか迷わず握り返せた。理由は上手く説明できる気がしない。
だが、僕が燈田の助けになってあげたい――なんて殊勝な思惑の元、手を握ったのではないとは言いきれる。
なにせ、僕は燈田の裏事情を垣間見た上で、関係を拒絶する勇気がなかったにすぎないのだから。断れなかったという、ただの怠慢が引き起こした偽りの提携。
けれど、偽りがいずれ本物になっていくことを、この時の僕はまだ知らない。
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