石橋を叩いて渡るのが僕と彼女のスタンス

第2話 出会い

 ――困ったな。今から急いで間に合うかどうか……。


 僕はスマホの液晶画面に映る、『十七時三十分』という文字列を見て、ため息をつく。


「走って行ってもスーパーの特売には間に合わなそうだな」


 液晶画面を暗闇に戻し、スマホをポケットにしまう。気落ちしながら頭に浮かぶのは、仕事で疲れた母親の顔。離婚し母子家庭となったため、帰りの遅い母に代わって、僕が家事の大半を担っている。パートで働く母の稼ぎはお世辞にも潤っているとは言えず、だからこそ生活の隅々に節約の二文字を貼り付けなければならないのだ。そのための特売。


 けれど、今日は運が悪かった。


 一日の授業がすべて終わり、帰路に就こうとした矢先、担任の先生から美化委員の代役を務めてほしいと要請された。本来任されていたクラスメイトは風邪で休んでいたため、僕は仕方ないと思い、今の今まで中庭の清掃に従事していたのだ。すると、あっという間にこんな時間。


「明日はもやしでかさ増しでもするか……」


 脳内で、もやしまみれになっている野菜炒めを思い浮かべて苦笑い。想像とはいえもやしを山盛りにしすぎて、少し可笑しかった。


 笑った顔には特に目立つ箇所はなく、霞む程度の哀愁が垣間見えているぐらい。


 僕――佐伯修一はいわゆる特徴のない高校二年生だ。短い黒髪に大きすぎず小さすぎずの平均的な体格の持ち主。貧乏ではあるが自炊はでき、栄養バランスには気を遣っているからか、わりと健康的な見た目ではある。強いていうなら目にうっすらと隈があるだけ。


 でも、ザ・平凡を体現したような僕の風貌も、今や世の中的にはひとつの個性に数えられる。


 どういうことか。


 僕は廊下の壁に寄りかかりながら、歩みを進める他の生徒を眺める。


 ――赤、茶、緑、黒、金、銀、青。


 右へ左へ、視界で動く髪色を羅列してみた。校則を違反している者は誰ひとりいない。


 以前、こんなことを母から聞いた。


『昔は髪色なんて、黒か茶色がほとんどだったのよ』


 どうやら現代と違い、昔は『多様性』が重視されていなかったらしい。『自由』がなかったなんて、過去の人間はさぞ気の毒だっただろうに。


 やむを得ないとは思っているが、僕も母子家庭のひとり息子という立場上、自分の好きなことができない――いわば『自由』がない息苦しさには共感できる。


 帰宅して、家事をして、勉強して、寝る。高校生になってからはアルバイトにも勤しみ始めたが、基本的に生活ルーティーンは小学五年生の時から固定されている。本当は放課後に友達と遊びたい、ネットに入り浸ってみたい、ゲームだってしてみたい。でも、小学五年生以降、それらを楽しんだことは一度たりともありはしなかった。時間とお金があまりにも足りないのだ。


 だから僕は『自由』に憧れている。いつか自分の好きなことに『自由』の中で向き合っていきたいと常々、思案している。


 そういった生き方が許容されている――『多様性』を重んじた世の中なのだから。


 壁と背中を離別させ、僕は『男女共用のトイレ』に向かい、用を足した。


 これも多様性の一環だ。


 様々なジェンダーに配慮した男女共用トイレが日本で普及し始めたのは、およそ十数年前。もちろん最初は抵抗があったみたいだ。女性の身の危険は大丈夫なのか、プライバシーのトラブルが起こるのではないかなど。それに、排泄時に生じる音をかき消すための音姫なるものが設置されるほど、繊細な性格の国民なのだから。だが、これも人間のさがなのか、徐々に多様性の価値観に慣れ始めた。それこそ、現代において男女共用トイレを始めとした、多様性の価値観を咎める者は、むしろ逆に、世間から糾弾されるほどだ。時代遅れだと。


 僕はハンカチで手を拭きながら、一階の下駄箱へと目的地を定める。


 二階から一階へ階段を下りる、その途中で僕のスマホがブルブルと震えた。階段のちょうど真ん中あたりで立ち止まって、内容を確認。KINEにメッセージが届いたようだ。相手は僕の男友達。


『赤点おつかれぃ。勉強時間ねえんだから、肩を張れっつったろ?』


 どうやらテストの結果が芳しくなかった僕へのお節介メッセージだった。親指のみで器用に画面を次々とタップする。


「山を張るだろ。それじゃあただの肩こりじゃねえか……っと。てかボケとツッコミを文面でやり取りするのってめちゃくちゃシュールだな」


 呟いてから、咄嗟にあたりを警戒。うっかり流れ出た独り言を誰かに聞かれでもしていたら、地味に恥ずかしい。


 そんな人知れない恥辱がフラグとなったのか、現実とは上手くいかないものである。


 ――階段の最下段に、ひとりの少女がいた。


 背丈はおおよそ百六十センチほどだろう。それしか判別できない。なぜなら彼女は顔が覆い隠されるほど積み上げられた資料の山を抱えていたからだ。頭頂部だけがかろうじて、ひょこっと見える。


 一歩、また一歩と、慎重に丁寧におそるおそる階段を踏みしめていた。


 ――手助けしようか。


 善意の言葉は僕の脳を駆け巡りはしたが、駆け巡っているうちに、泡沫のごとく消え失せた。


 気がつけば、手伝わなくていい理由を探していた。


 ――よく見れば余裕そうだぞ――そもそも持てると判断したのは彼女なのだろう――というか僕には関係のないことだ――


 きっと家に帰ってから後悔するのだろう。あの時、手伝っておけばよかったと。まだ十七年の人生だが、このような押し問答は何度も繰り返してきた。大人になれば、たぶん見て見ぬふりと忘れることが上手くなるはず。


 顔も見えない彼女の方向に僕の心が向きつつも、視線だけは逸らそうと尽力した。


 けれど、僕の頑張りは案外あっけなく水の泡となった。


「手伝わなくて結構」


 彼女は思ったより可愛げのある声で、針のような拒絶を披露。


 その際、視界の端に、絹のように綺麗な黒髪がよぎったのだ。


 先ほどの知らんぷりはどこへやら。僕はいつの間にか彼女を目で追っていた。


 一瞬見えた彼女の瞳は夜の黒。人を時に大胆に、ある時は一抹の不安を残してくる妖しげな魅力がある。


 顔の全貌はよく見えなかった。誰なのだろう。純粋な興味が湧き、僕は身体を向けて――止めた。


 冷静になれ、佐伯修一。恋愛なんてトラブルばかりを引っ提げてくる厄介な存在じゃないか。母さんがどうして離婚したか、忘れたわけじゃないだろ。もちろんすべての恋愛が悪いとは思わない。それでも、万にひとつでも母さんのように惨めな経験を負う可能性があるなら、最初から遠ざけておくに越したことはない。


 それに、異性として綺麗だと思うのと恋愛感情がリンクするのかと言われれば、迷いなくノーだ。どうやら僕は青春を謳歌するには臆病すぎるらしい。


 下手に近づくことで、彼女の汚れに気づき、触れようとして僕が傷つくのは勘弁だ。あくまで距離を取って観賞するに限る。


 ――そう思っていたのに、やはり現実と理想には齟齬が付き物。


 あと数段昇れば到着、というところで、彼女が階段を踏み外した。山盛りの資料を桜吹雪のように散らして、彼女の身体が重力に任せて落下。


 その光景が僕にはスローモーションに見えた。まるで、助けろと神様が指令を下したのではないかと疑うほど。


 状況を理解してからの僕の行動は迅速だった。とにかく落下の勢いを止めようと、全身で彼女を受け止める。が、偉大なる地球の引力には逆らえず、僕と彼女は密接したまま階段を転げ落ちる。脊髄反射の一種なのか、考えるよりも先に彼女が怪我をしないよう肩を抱き寄せ、頭を手で守りながら階下へ転がる。僕自身の安全は一切頭になかった。


 ごとんごとん、と音を立て、僕の肩や膝など角ばった部分を無秩序に打ちつけつつ、段の終わりまで転げ落ちた。


 床にぶつかった衝撃で、うぐっ、と頼りない声が僕の口から洩れる。


 よかったぁ。とりあえず死んではないな、僕。


「……んんぅ」


 一旦、己の無事を安堵していると、腕の中に匿われていた少女が控えめに口を開いた。一見、外傷はなさそうだ。これまた一安心。


「あの……えと……」


 突然の出来事に彼女は少々混乱しているらしい。もぞもぞと居心地悪そうに身をよじったり、目をキョロキョロさせたりしていたので、僕は彼女を解放した。


 すると、僕が立ち上がるより先に彼女が腰を上げた。そして、差し出される彼女の氷細工のように綺麗な手。


 僕は一瞬、その手を受け入れようとしたが、僕の手はそれと繋がる直前で反発。自分の足で立ち上がる。


 刹那、右足首に電撃の痛みが走る。


 しまった。転げ落ちている最中に捻ったのかもしれない。


 目の前の彼女に無用な心配をかけないために、苦痛が顔に出ないよう努めた。


 たぶん、気づかれていないはず……。


 ごまかし笑いを浮かべる僕を遮るように、彼女は頭を深く下げた。


「ごめんなさい。さっき素直に君の助けを借りていればこんなことには……」


「いやいや、僕なんかに頭下げなくていいって。とりあえず無事でよかったよ」


 僕は胸の前で両手をひらひらさせる。なにしろ僕は一度彼女の苦労を見て見ぬ振りしたんだ。そんな僕なんかに頭を下げる必要はいよいよありはしない。


 当惑している気持ちを察したのか、彼女は姿勢を直立に戻し、「なら、これだけは言わせて」と一言。


「助けてくれて、ありがとう」


 金鈴を振るような声で謝礼。これほどまでにストレートな感謝を向けられたことに驚愕すると同時に、あぁ……、と彼女の正体に目を奪われた。


 ――燈田美侑とうだみゆ


 黒翡翠のような双眸。淀みのない光沢を持ち合わせたミディアムの黒髪。美しい面差しからはかけ離れた子どもっぽさも微かに感じ取れ、なんだか春の陽気が蘇ってくる気分。


 あの子は可愛いと入学当初からうわさされている彼女は、成績優秀で運動神経も抜群だと聞いている。その上、彼氏ができたことがない純潔っぷりから、数多くの男子から告白されているが、そのすべてをシャットアウト。俗にいう塩対応を周囲に振りまいているがゆえに、高嶺の花、と使い古された言い回しで呼ばれているのは、学生生活に後ろ向きの僕でも認知しているほど。


 つまり何が言いたいのかというと――


 ――僕のような地味な男子高校生が天下無双の美少女とつり合うわけがない……どころかこうやって会話を交わすだけでもおこがましいということ。


 こんなところを他の男子に見られでもしたら、面倒なやっかみを買うかもしれない。


 事態の難解さを顧みた僕はさっさとこの場を離脱しようと腹を決める。


「ありがとうなんてそんな……。でもまあ、今後はこういうことがないようにな?」


「う、うん。わかった。それより君の方は大丈、」


「ああ。僕も特に何ともないから。じゃあこれで」


「あ、ちょ、ちょっと……」


 やや強引すぎる態度にはなったが、これも致し方ない。なぜなら、これ以上長居すると、さっき捻った足首の悲鳴が僕の表情を歪ませかねないからだ。それほどまでに右足首が疼痛に見舞われ、強熱を帯びている。


 これ、まさか骨折してるんじゃないか?


 事故に見合う感情の整理がまだ十分でない彼女――燈田の差し伸べた手は、踵を返した僕の背中にはギリギリ届かなかった。


 これでいい。もう燈田美侑と関わるつもりはない。


 燈田と仲良くなれば、確かに見える景色が変わるだろう。けれど、それは風向きが良い方向に変わると裏付けされるわけではない。証拠はないが、面倒事に巻き込まれる予感がする。


 トラブルの芽は早いうちに摘んでおくべきだ。……にしても痛い、本当に痛い。病院に……いやでも、晩飯作らないと母さんが困るな。どうしようか。


 行く当てに悩む僕は痛みを言い訳に思考を放棄して、闇雲に一階の下駄箱へと向かった。


 燈田が僕の背中に、心配そうな視線を送っているとも知らずに。

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