第3話 恩返し
「痛い。本当に痛い。これ、ヤバイやつだ」
外靴を履き終え、校舎を出る僕。
左手に見えるは、テニスコート。ぱこん、ぱこん、と爽快な打球音を鳴らして、テニス部が汗を流している。
僕は二段だけある段差をそっと下りる。しかし、その努力も虚しく、地に足が着いた時の微細な衝撃が右足首に伝わり、顔をしかめる。
怪我とは程遠い生活を送ってきた僕にとって、今も患部に滞在している電流は未知なる恐怖であった。
――痛い。治るのか。治らなかったらどうしよう。生活できるのか。
中学の頃から帰宅部であるため、怪我なんて包丁で軽く指を切った小学生の時以来だ。
柱や手すりに手をつきつつ、びっこを引きながら校門に辿り着く。
電車通学なので、駅のある方角、つまり校門を出て右折しようとしたその時、背後から金鈴を転がしたような声が耳朶を打った。
「ちょっと待って」
振り返る前にわかっていた。わかっていたからこそ、無視するのが億劫になり、僕はその呼び止めに応えた。
「何?」
我ながら冷徹な反応。申し訳なさもあったが、態度に出した以上、後にも引けずに攻撃的な視線を貫く。
声の主――燈田美侑は怯えた様子どころか、むしろ眉間にしわを寄せていた。
「バレバレだから」
僕の右足首に指を差した。
対する僕は、とぼけた顔で、
「ん? 何のこと?」
燈田はため息をつく。
「私を庇った時に捻っちゃったんでしょ?」
「いーや。そんなことないぞ、ほら」
僕はタンッ、タンッ、とその場でジャンプする。もちろん痛いけど、顔には出ていないはずだ。けれど、燈田は信じようとしない。
「怪我が悪化するからやめて」
「だから怪我なんてしてないって。何を根拠に言ってるんだよ、燈田は」
「遅いんだもの」
「遅い?」
「階段で私と別れてからもう十分は経ってるわ。それなのにまだ校門を出ていないなんて、いくらなんでも歩くのが遅すぎる」
「あぁ……」
納得してしまった。違う、と否定するより早く、諦観の息が漏れ出てしまったのだ。
燈田は能面のような真顔で、
「嘘が下手」
「ほっとけ」
僕は雑に後頭部を掻きながら、質問を投げかける。
「任されていた仕事は終わったのか?」
「うん。職員室に届けるだけだったし、無理してる君が心配、いや気に食わなかったから急いで追いかけてきたの」
「気に食わないって……」
心配の言い換えが気に食わないって、ずいぶん飛躍したな。たぶん、男子に対する日頃の塩対応が尾を引いて、僕との距離感を計りかねているのだろう。
きつい言い方ではあったが、燈田が僕のことを心配してくれているのは、彼女の視線や声音、そして何より急いで追いかけてきたという行動から伝わってくる。
ハハッ、と外向けの微笑を披露しても、燈田はつんけんした様相を崩さなかった。
「だってそうでしょ? 助けてくれた恩人が私のせいで怪我をしたのに頑なにそれを隠そうとする。隠しきれているのならまだいいの。君の場合丸わかりだから、ありがとう、の一言で済ますなんて虫の居所が悪すぎるよ」
「そんなにわかりやすかったか、僕」
「そうね。まあ私の観察眼が優れていた可能性も捨てきれないけど」
大した自信だこと。燈田美侑なら大言壮語に思えないところからも、彼女の優秀さがひしひしと感じられる。
燈田は腰に手を当て、胸を張る。
「だから怪我を隠すなんて妙なマネしないで。私は恩を着せて、見返りをもらおうなんて考えていないから」
「僕だって同じだ。燈田に何かしてほしかったから助けたんじゃない。だからこの怪我も僕が招いた不幸だし、後始末も自分でつけるから」
なかなか自分に厳しい言論だが、僕はとにかく燈田と距離を取りたかった。トラブルは人間関係が構築されるから生じるものだ。だったら最初から作らないに限る。そのためなら、いくらでも自分にストイックになれる。
それでも燈田は一歩も引かなかった。むっとした表情を見せる。
「わからず屋だね。助けてくれた人が怪我をしました。だから今度はこっちが助けます。こんなの、もはやルールみたいに当たり前のことでしょ?」
「ルール」
反射的にオウム返しする僕。なんだか、その言い回しが彼女の性質そのものを表している気がして、その先に続く言葉が気になった。
「私、例外が嫌いなの。ルールのような基準があればそれに乗っかるだけでいい。でも例外が現れたらその度に自分で思考しなきゃいけないし、それに伴う結果や責任も全部背負わないといけないでしょ? それが嫌ってわけ」
絹のように綺麗な黒髪を手で靡かせ、したり顔で言う。
「今、この瞬間は『私が君を助ける』のがルールだから。例外は金輪際持ち込まないこと」
「ものすごく自分勝手な理屈だ」
「ここまで言わないと君、納得しないでしょ?」
「納得してるような顔に見える?」
「見える見える」
そんなわけがない。なにせ、人生でいちばんの苦笑いをお見舞いしているのだから。燈田には適当に流されてしまった。
どうしようか。このままじゃ一時的とはいえ、燈田との縁が生まれてしまう。
顔に貼り付けた苦笑の裏には、焦りと不安が入り混じった。
そんな苦悩もつゆ知らず、燈田は近くにあるベンチを指し示す。
「ほら、そこに座って」
「や、だから、」
「自分の足で歩くか私にお姫様だっこされるか、どっちがご所望?」
「前者で」
不承不承ながらも、僕はベンチの方へ歩を進める。燈田と会話しているだけでもヒヤヒヤしているのに、彼女にお姫様だっこなんてされたら、恥ずかしすぎて、しばらく寝込む自信がある。何でもできるとうわさの彼女だから、冗談とも受け取れなかった。
僕はどしっと腰を下ろし、制服のズボンの裾を軽く折る。お淑やかに姿勢を下げ、慣れた手つきで患部を検査する燈田。
「怪我のこと、わかるのか?」
「昔、勉強したことあるから。簡単な診察と応急処置なら大丈夫」
さすが完璧超人。これじゃあ保健室いらずだ。とはいえ簡単というのはどこまでのことを指すのだろうか。突き指とかがおそらく簡単の部類に入ると予想されるが、果たしてそれよりもっとひどい怪我だったら? 例えば骨折ならこの場でどうこうできるような問題ではないだろう。
嫌だな、骨折嫌だな。でもこの痛さはやばいよな――
「これ捻挫だね」
「捻挫?」
固くて全く回らなかった蛇口が一気に捻れたように、緊張が緩んでいく。
「それも一度――つまりいちばん軽い症状のやつだね」
「マジでか」
「うん、マジで。安静にしていれば明日か明後日には完治してるよ、たぶん」
じゃあ今に至るまで僕は超軽傷の足首を痛ましそうに引きずりながら歩いて、挙句の果てに助けた相手を心配させてしまったってことか? うわっ、はずい。恥ずかしすぎる。めっちゃ情けねえ。運動部に入っていない弊害がまさかこんな形で顕現するなんて。
おそるおそる僕は、丁寧に診察してくれた燈田を見下ろす。彼女は呆れたように嘆息をひとつ。
その後に、彼女は僕と視線を繋ぐと、
「大げさな人。でも大事にならなくてよかった……」
ほんのわずか。掌に降り落ちた雪が溶けてなくなるまでのように、ほんのわずかな時間だけ。溶けた後に残った水のようにささやかに。
燈田の口角が上がった気がした。
『よかったじゃん』とか『よかったね』ではなく、『よかった……』と言ってくれたところに、彼女の溢れんばかりの優しさを感じた。
あぁ、これが彼女のルールなのだろう。ますます僕とは遠い存在に思えてきた。
僕はかぶりを振る。
いつまでも惚けている場合ではない。怪我が大したことないとわかれば、僕のやることはひとつ――食材調達だ。買い物だ。
特売は逃したが、買わないという選択肢はない。
軽い捻挫だと教えてくれた燈田に感謝の意を伝えようとするが、またも彼女は僕の意図をぶった切った。
「私も手伝うから」
「ん? や、僕はまだ何も、」
「スーパーに買い物に行くんでしょ?」
「なんでそのことを、」
「これ、階段で助けてくれた時に落としてったよ」
そう言って、燈田が摘まんでいたモノは、『特売』のタイトルに食材が書かれているメモだった。間違いなく僕の所有物だった。
「そっか。拾ってくれてありがとう」
「どういたしまして。じゃ、行くなら早く行きましょ」
――別に来なくていい。
そう口にすることはできなかった。それはあくまで僕だけの願望であり、発言すれば燈田の気持ちを踏みにじることになる。それにここで別れれば、恩を返しきれない彼女にわだかまりが残るだろう。そうなれば僕も彼女もやるせないし、かえって面倒事が増えるかもしれない。
今日だけの我慢と僕は自分に言い聞かせ、実は帰り道がほとんど一緒だと判明した燈田の同行を許可した。
異性と、それもとびっきりの美少女と肩を並べて帰路に就く珍妙さを噛みしめていると、彼女は唐突にこう訊いてきた。
「ねえ、君の名前は?」
「え、あぁ、佐伯修一だけど」
「佐伯、佐伯ね」
初めて燈田が僕の苗字と存在を認識した。
橙色が鮮やかな夕方に。
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