第十五話 三人の〝夜〟

 リアが振り返ると満面の笑みを浮かべたエドがそこにいた。

 肩で息をして、アネモネの花を持つジョシュの手をつかんでいた。


 リアは思わず首をすくめた。

 エドがこういう笑顔をしているときは本気で怒っているときだ。


 キャリーカートの前で待っているようにと言われたのにその場を離れてしまった。

 怒られる心当りは十分にあった。


「ごめん、エド。リアのことは怒らないであげて。僕が無理矢理に連れだしたんだ」


 困り顔で微笑むジョシュを見下ろして、エドはますます笑みを深くした。

 怒っているときの笑みを、だ。


「かなり痛いんだけど……そろそろ手を放してくれないかな、エド」


「悪いな、つい力が入っちゃったみたいだ。ちょっと用事を済ませに行ってるあいだに子猿がいなくなってるもんだからびっくりしちまったんだよ。ところで……」


 ようやくジョシュの腕を放したエドの声が、不意に低くなった。


「お前、誰だ?」


 真剣な表情で尋ねるエドにジョシュは目を丸くした。

 かと思うと、すぐに困り顔で微笑んだ。


「誰ってジョシュだよ。どうしたの、エド。幼なじみの顔を忘れちゃった?」


「ちゃんと覚えてるよ。顔はジョシュだ。でも、違う。お前はジョシュじゃない。ジョシュならこいつに赤いアネモネの花を渡したりなんかしないんだよ」


「好きな相手に赤いアネモネの花を贈るのはお祭りのときの風習なんだよね?」


 ジョシュの顔からすっと笑みが消えた。

 あごを引いて、エドを睨み上げる。


「エドが手に持っている花は何? キミ・・は渡して良くて僕が渡しちゃだめなんて、そんなの卑怯でしょ?」


 ジョシュの冷ややかな目を見返して、エドはニヤリと笑った。


「わかってないな、お前。そういうことじゃねえんだよ」


 エドが小馬鹿にしたように鼻を鳴らすのを聞いて、ジョシュは眉間にしわを寄せた。

 苛立ちを隠そうともしないジョシュに外見だけはそっくりなソレ・・をにらみつけて、


「他にもあなたがジョシュじゃないと言い切れる理由があるわ」


 リアは震える声で言った。


 胸の前で握りしめている自分の手が小刻みに震えていることに気が付いて、リアはきゅっと唇をかんだ。

 手が震えるのは怖いからじゃない。怒っているからだ。


 眉間にしわを寄せたり、エドを冷ややかににらみつけたり。

 ジョシュの顔でそんな表情をする相手に無性に腹が立っていた。


「あなた、〝陛下〟としか呼ばれないのはいやだって言ったわよね。名前を呼んでもらえないのはさみしいって。そのとおりよ。名前を呼んでもらえないのはとってもさみしい」


「わかってくれてうれしいよ、リア。それなら、この花を受け取ってくれるよね。キミ・・が僕の妃になってくれるよね」


「あなたの妃になんてならない」


 ぴしゃりと言って、リアはジョシュに似たソレを睨みつけた。


「名前を呼んでもらえないのはさみしい。そのことをジョシュは誰よりも知ってる。だからこそ、ジョシュは私のことを〝キミ〟なんて呼ばない。絶対に〝リア〟って名前で呼ぶのよ!」


 ジョシュに似たソレは黙ったまま、リアをじっと見返した。


「あなたは、誰?」


 ジョシュの優しい茶色の目を使って、じろじろと値踏みするように見てくるところがイヤだ。

 リアは奥歯を噛み締めてソレをにらみ返した。


 と、――。


「子猿みたいに歯を剥き出して怒るな。一応、お姫さまだろ。キミ・・は」


 ソレは不意に唇の両端をあげてにやりと笑った。

 ステップを踏むように一歩、二歩とリアとエドから距離を取ると、くるりとターン。


 振り返ったときにはソレの髪は眩しいほどの金髪に変わっていた。

 姿形はジョシュのまま、髪の色だけが金髪へと変わっていた。


「完璧に化けれていたと思ったんだがな。まさか、そんな理由で見破られるとは……そろって勘の良いことだ」


 ソレは肩をすくめてため息をついているのに、どこか楽し気だ。


 リアは両手をぎゅっと握りしめた。

 今は怖さよりも、怒りよりも不安の方が大きかった。


「ジョシュは? ジョシュは無事なの!?」


 リアが泣きそうな顔で叫ぶのを聞いて、ソレは目を丸くしたあと。すぐさま、けらけらと笑い出した。


「もちろん無事だとも。今頃は神殿で夢でも見ながら眠っているよ」


「神殿? それじゃあ、あなたは……」


「そこそこ楽しめたし、そろそろ起こしてやるとしようか」


 呆然と呟くリアを見返して、ソレはくすりと笑いながら赤いアネモネの花を自身の金髪に挿した。

 かと思うと――。


「確かに、私はジョシュではない。だが、私が言ったこと全てが嘘とも限らない」


 不意にソレの姿が霧のように消えた。

 ただの人ではないとわかっていても、突然、目の前からいなくなればびっくりする。

 リアとエドは凍り付いた。


 二人が事態を飲み込むよりも早く、ソレは再び姿を現した。


「……っ」


「リア!?」


 リアの目の前に――。


 男性にしては細いジョシュの指でリアのあごをつかむと、ソレはにやりと笑った。


「カエルの王子さまはかわいそうだったろう? なぁ、リア」


「それ、は……」


 息が掛かるほどの近さで目をのぞきこまれて、リアは息を飲んだ。


「離せ、クソが!」


 リアから引き離そうとエドがソレの肩へと手を伸ばした。

 しかし、エドの手がふれるよりも早く、ソレの姿はまた消えてしまった。


「汚い言葉を使うな、エド。一応は騎士志望なのだろう、お前は」


 小馬鹿にしたような声に振り向くと、エドの手の届かないところでソレはにたにたと笑っていた。

 舌打ちしてソレを追い掛けようとするエドの腕をつかんで止めて――。


「ジョシュといっしょにいるなら、ジョシュに伝えて! 話して聞かせたいことがたくさんあるから、楽しみに待っていてって!」


 リアは身を乗り出してソレに向かって叫んだ。

 ソレは目を丸くしたあと、つまらなそうに鼻を鳴らした。

 かと思うと、ソレの姿は霧のように消えてしまった。


 また、どこからともなく現れるんじゃないか。

 リアもエドもしばらくあたりを警戒していたけれど、二度とソレが姿を現すことはなかった。


 人形劇をいっしょに見ていた子供たちはいつの間にかいなくなっていた。


 教会の鐘が三つ鳴った。

 鐘の音を合図にしたようにリアはほーっとため息をついた。


 瞬間――。

 カッ! と、目を見開いたエドが勢いよく振り返った。


「この子猿! 五分もしないうちにどっか行きやがって! 待ってろって言ったのを忘れたのか! 三歩、歩いたら忘れるってニワトリか! 子猿じゃなくてニワトリか、お前は!」


 最初は首をすくめて聞いていたリアだったけど、エドの物言いにすぐさま目をつり上げて怒鳴り返した。


「誰がニワトリよ! 子猿よ! そんなにガミガミ言わなくてもいいでしょ!」


「ガミガミ言われるような真似をしたのは誰だよ!」


「仕方ないじゃない! 最初は本物のジョシュだって思ったんだもの!」


「あんなんがジョシュなわけ……!」


 ジョシュなわけないだろ! と、怒鳴ろうとして、エドは口をつぐんだ。

 リアの目にじわっと涙が浮かんだからだ。


 短い前髪をくしゃりとかきあげて、エドはため息をついた。


「悪い、リアを責めるのは筋違いだった。一人で置いて行った俺が悪かった」


 エドは眉間にしわを寄せ、またため息をついた。

 珍しく暗い表情でうつむくのを見て、リアはエドの顔をのぞきこんだ。


「ごめんなさい。心配した?」


「当たり前だろ」


 エド相手だから怒鳴り返してしまったけど、リアも立場はわきまえている。

 もしものことがあったら大問題になることも、責められるのがエドだということもわかっている。


 それにエドがリアのことを心配して探し回ってくれたことも――。

 誰かに責められるからとかじゃなく、ただただリアのことを心配して探し回ってくれたこともわかっていた。


「キャリーカートのそばにもどこにもリアがいなくて、心臓が止まるかと思った」


「ごめんなさい」


 うつむくリアの頭をエドがくしゃりとなでた。

 乱暴だけど嫌だとは思わなかった。

 むしろ、ほっと息がもれて、一度は引っ込んだ涙がじわっと浮かんだ。


「見つけたと思ったらアネモネの花を受け取ろうとしてたし」


「あれがジョシュ……じゃなくて、えっと……む、向こうが勝手に……!」


 手の甲で涙を拭いながら顔をあげたリアは、


「ジョシュからだったとしても、受け取ってほしくなかった」


 エドの真剣な表情に息を飲んだ。


 リアが驚いて固まっているのを見たら、いつものエドなら苦笑いを浮かべるはずだ。

 それか、ふざけたことを言ってリアに蹴飛ばされるか。


 でも、目の前のエドはくすりとも笑わない。

 真剣な表情のまま、リアへと赤いアネモネの花を差し出した。


 ジョシュに似たアレともみあっているあいだ、握りしめていたのだろう。

 茎が途中で折れてしまっていた。

 花びらも少し傷んでいる。


 でも、リアの目の前に差し出されたのは間違いなく赤いアネモネの花で――。


「これ……」


 じっと見つめるばかりで受け取ろうとしないリアに肩をすくめて、エドはもう一方の手を伸ばした。

 緩くうねる亜麻色の髪をなでて、赤いアネモネの花を挿して、


「よく似合ってる」


 エドははにかんで微笑んだ。


 エドが髪をなでるたび、アネモネの花びらがリアの耳のふちにふれる。


 赤いアネモネの花を渡す意味も受け取る意味も教わった。

 他でもない、エドから。

 冗談を言っているわけじゃないこともエドの表情を見ればわかる。


 鈍い、お子ちゃまだと言われているリアでも――だ。


「わ、たし……」


 どう答えたらいいかわからなくて、リアはエドを見つめて黙り込んだ。


「ジョシュみたいな顔になってる」


 今にも泣き出しそうなリアの顔を見て、眉間にできたしわをぐりぐりと指で押したあと。

 エドはようやく苦笑いを浮かべた。

 リアの手を引いて噴水広場へと歩き出す。


「花を贈るのは告白の意味合いもあるけど、ダンスに誘う意味合いもある。今はダンスに誘われたんだと思って受け取っておけ」


 リアに背中を向けて歩きながらエドが言った。


「その花は城に帰るまではつけておけ。またさっきみたいなことがあっても困るからな。そのあと、どうするかは……〝夜〟が明けるまでに聞かせてもらうから」


「どうするかって……?」


「花を贈るのはダンスをに誘う意味合いもあるけど、告白の意味合いもある。贈られた相手は自分も好きなら受け取るもの……って、教えただろ」


 エドは振り向かないまま、やけに明るい声でそう言った。


 エドの背中をリアはじっと見つめた。

 三人でお茶会をしていたときには……〝夜〟が来るまでは、エドとこんな話をする日が来るなんて思いもしなかった。


 エドの想いはリアの前に差し出された。

 〝夜〟が明けたら答えを出さないといけない。


 エドの想いを受け取るか、それとも――。


 リアは黒色の〝夜〟の空と白夜の空のような白い月を見上げた。

 まだ〝夜〟が明ける気配はない。


「ジョシュはどうしているかしら」


 ジョシュに似たアレは多分、太陽の女神との契約に関連する何かだ。

 もしかしたらジョシュに何かあったのかもしれない。


 ざわざわと騒ぐ胸を押さえて、リアはエドに手を引かれるまま〝夜〟の街を歩いた。


「昼の時間が始まるまで、まだ四時間くらいある。ジョシュならきっと大丈夫だよ」


 エドの顔を見上げようとしたら、くしゃくしゃに頭をなでまわされて下を向かされた。


 リアと同じように不安げな表情をしているのか。

 リアを安心させるようにニカッと笑っているのか。


「ほら、行くぞ」


 エドがどんな表情をしているのか、リアは見ることができなかった。

 子供の頃とは違う大きなエドの背中をリアは手を引かれるまま追いかけた。

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