第三話 はじめての〝夜〟

 夜の始まりを告げる鐘が鳴って、ずいぶんと経った頃――。

 部屋のドアをノックする音にリアは顔をあげた。


 夕食も沐浴もくよくも済ませてすでに薄手の部屋着姿だ。羽織るものを探してあたりを見回していると、


「リア。……リア、寝ちゃった?」


 ドアの向こうからジョシュの声が聞こえた。


 夜にジョシュがリアの部屋にやってくるなんて十才の誕生日以来だ。もしかしたら今日のお茶会の埋め合わせをしに来てくれたのかもしれない。

 リアはパッと笑顔になるとドアに駆け寄った。


「起きているわ、ジョシュ! いらっしゃい!」


 リアが勢いよくドアを開けると、ジョシュはほっと息をついた。

 でも、すぐに顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。


「ごめん、もう寝る支度をしている時間だよね」


 ジョシュの顔を見上げ、自分が着ている薄手の部屋着を見下ろして、リアはドアの影にそーっと隠れた。

 確かに薄着だけど、ほんの三年前まではエドと三人でいっしょに寝ていたのだ。ジョシュなら気にしないと思ったのに。


 ちょっとの恥ずかしさを覚えながら、リアはドアから顔だけ出してジョシュを見上げた。


「それで……こんな時間にどうしたの?」


 リアが尋ねるとジョシュはハッと目を見開いて真剣な表情になった。


「リア、これに着替えて。街に出掛ける準備をして」


「今から?」


 ジョシュが差し出したのはミモザの花のような淡い黄色のワンピースだ。

 街の女の子たちが着ているものと形は似ているけれど、こんなに鮮やかな色の生地を使っているのは珍しい。

 国王の孫娘であるリアも二、三着しか持っていないし、他の国から来たお客さまをもてなすときにしか着ない。

 普段、着ているのは虫よけのために申しわけ程度に草木で染めた、薄い色の生地の服だ。


 リアが見上げるとジョシュは黙ってうなずいた。


 もうすぐ寝る時間なのにどうしてこんな時間に街に出掛けようなんて言うのか。

 どうして街に出掛けるのに色鮮やかな服を着るのか。


 理由はわからないし聞きたいこともたくさんあるけど、聞いている時間もなさそうだ。

 街に向かう途中で聞けばいい。


 リアは納得して、大きくうなずいた。


「わかったわ。すぐに着替えるから、ちょっと待ってて!」


 困り顔になり始めているジョシュのほほを両手で包んで、リアはにこりと笑ってみせた。


 ジョシュの手からワンピースを受け取って、部屋のドアをしめると大急ぎで着替え始める。

 貴族だろうと王族だろうと、身分の高い娘だって一人で着替えくらいできる。


 白夜の国はそういう国だ。


 ジョシュが用意してくれたワンピースは少しだけ小さかった。

 ゆったりとした作りだから十分に入るけど、スカートの丈がちょっとだけ短い。足首まで隠れるはずなのに、ふくらはぎが半分ほど見えてしまっている。


「ジョシュは私のことをいくつだと思っているのかしら」


 リアは唇をとがらせたけれど、すぐにほほを緩ませた。


 姿見の前でくるりとまわってみる。

 ミモザの花のような淡い黄色も、リアの動きにあわせてふわりと揺れるスカートもすごくかわいい。

 色もデザインもリアの好みそのものだ。


「さすがはジョシュ!」


 ニコニコ顔でそう言うと、部屋のドアを開けた。


「ジョシュ、お待たせ!」


「ううん、いつもなら寝る時間なのにごめんね。さぁ、急ごう!」


 そう言うなりジョシュはリアの手をつかんで廊下を早足で歩き始めた。


 ジョシュのあとを追い掛けながらリアは目を丸くした。

 いつものジョシュなら着替えたリアを見て、まずはかわいいとか似合っているとか褒めてくれるのに……。


 声だけはいつも通り優しい分、いつもとは違うジョシュの態度にリアの胸はざわざわと騒ぎ出した。


 長い廊下のランプは飛び飛びにあかりがついている。

 城のランプすべてをともすのは、他の国からお客さまが来ているときだけだ。


 一階まで下りたジョシュは執事の事務部屋のドアを開けた。

 部屋の中には執事が一人だけいて、リアとジョシュの姿を見るなり胸に手を当てて一礼した。今日のお茶会のときにジョシュを呼びに来た執事だ。


 リアがにこりと笑い掛けると執事も静かに微笑み返してくれた。

 リアとジョシュが小さい頃からジョシュのお世話をしている執事だ。リアともエドとも顔なじみだ。


「エドは裏門に待機させております」


「ありがとうございます。少し出掛けてきます」


「はい、お気をつけて」


 そう言って執事はななめ後ろに一歩、下がった。

 背の高い執事の影に隠れていたらしい。そこに木でできた扉があるのを見て、リアは目を丸くした。


 この部屋には小さい頃から何度も入っている。エドとジョシュとかくれんぼをしたときだ。

 机の下や本棚のすきま……。

 いろんなところに隠れたし、いろんなところを探したけれど、こんな扉があった記憶はない。


 不思議そうな顔をしているリアに、執事はにこりと微笑んで背の高い本棚を指さした。


「あの本棚……」


 リアの記憶ではもう少し左にあった気がする。

 そう、まさに木のでできた扉がある位置に――。


「ここは白夜の国の国王が住まう城です。この程度の仕掛けはいくらでもございます。例えばキッチンのかまどの奥。例えば南棟一階の廊下のじゅうたんの下。他にも――」


「他にも!?」


「その話は帰ってきてからゆっくりと話してあげてください」


「……失礼しました」


 実はお茶目でおしゃべり好きな執事が頭を下げるのを見て、リアとジョシュは顔を見合わせて微笑んだ。

 もしかしたらジョシュの緊張をやわらげようとしてくれたのかもしれない。


「ありがとう」


 リアが小さな声で言うと、執事はすました顔で片目をつむってみせた。


「さぁ、行こう。リア」


 ジョシュに手を引かれてリアは木でできた扉をくぐった。


 木でできた扉をくぐると、石でできた五段の階段があった。ジョシュに手を引かれてゆっくりと階段を下りていく。

 中はひんやりとしていた。一応、ランプのあかりがついているけれど薄暗い。

 階段を下りきると石でできた廊下があった。横幅はせまいけれど、天井は高い。


 執事は事務部屋で待っているつもりのようだ。

 リアが何度、振り返っても執事が後ろからついてくることはなかった。


 どんどんと歩いて行くジョシュに手を引かれて歩いていたリアはふと足を止めた。

 廊下の先に鉄でできた扉があって、木でできた扉と同じように開け放たれていた。


 扉の先に見えるのは見慣れた花壇と背の低い木々。

 裏庭に続く扉らしい。


 裏庭もエドとジョシュと鬼ごっこしたときにすみずみまで見てまわったはずだ。

 鉄でできた扉があった記憶なんてない。


 でも、リアが足を止めた理由はそんなことじゃない。


「ジョシュ、外が暗い気がする。なんだか……変じゃない?」


 開け放たれた扉の先にあるのは見慣れた裏庭のはずなのに、見覚えがない。


 まるで絵画のようだ。長方形の鉄でできた扉は額縁。

 幻想的で、でもよく見てみると怖いモノが隠れていそうな、近付くのをためらってしまうような絵が収まっている。


 足がすくんで動けないリアの手をジョシュが引いた。


 一度目はそっと。

 リアが小さく首を横に振るのを見て、ジョシュは眉を八の字に下げた困り顔で微笑んだ。


 二度目はリアが予想もしなかったほどに強い力で。

 よろめくようにして扉の外に出たリアは足を止めて、空を見上げて――。


「黒い……空?」


 呆然と呟いた。


 太陽が沈まず、いつでも薄明るく白んだ空が広がっているはずの白夜の国の空が、今は暗幕を下ろしたように暗かった。


 ゆっくりとあたりを見まわす。


 毎日のように歩いている見慣れた裏庭のはずなのに、黒い空の下だとまったく違うものに見えた。

 昼間は開いていた花壇の花は、今はきゅっとちぢこまっている。

 淡い緑色をした木々の葉は、今はただの黒いかたまりになっていた。


 唯一のあかりは夜空にぽっかりと浮かんだ月だけだ。

 暗幕に丸い穴が開いていて、白夜の空がのぞいているんじゃないかと思うような白い満月だ。


 満月の光が地上に薄闇を作り、それ以外の場所はより一層濃い影になる。

 あちこちにできた黒い影から今にも〝良くないモノ〟が飛び出してきそうで、リアは首をすくめた。


 例えば、白夜の国の地中深くに封印されていると言われる〝魔物〟とか――。

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