第二話 〝夜〟の訪れ
太陽が沈むことのない白夜の国にも夜の時間はやってくる。
小さな領土の東西南北と中央に一つずつ教会が建っている。その教会が鳴らす鐘が昼から夜に、夜から昼になったことを知らせる。
高い音の鐘が六つ鳴って、最後にさらに高い音の鐘が鳴ったら昼の始まり。
白夜の国の人たちはベッドから起き上がり、窓を開けて、見慣れた白んだ空を見上げる。
高い音の鐘が六つ鳴って、最後に低い音の鐘が鳴ったら夜の始まり。
窓に木戸や暗幕を下ろして、ランプのあかりをつける。
夜の時間が始まっても空は薄明るいままだ。
ランプをつけなくても寝るときに木戸や暗幕を下ろせばいいのだけど、昔からの名残でそうしている。
ランプの油が買えない家は窓を開けて寝るまでの時間を過ごすようだけど、城では必ず暗幕を下ろす。
だから、今夜は特別だ。
夜の始まりを告げる鐘が鳴ってからずいぶんと経っていた。
開け放った窓の向こうには白んだ空が広がっている。カーテンを揺らす風は昼も夜も、いつだってひんやりと涼しい。
あまり冷たい風にあたっていると風邪をひいてしまうかもしれない。
「お
ジョシュはベッドに横たわる部屋の主に言った。
国王であり、ジョシュの祖父である老人はゆっくりと首を横に振った。何か言ったようだけど、声は小さく、弱々しく、聞き取ることはできなかった。
ジョシュが物心つく頃には祖父の髪もひげも真っ白だった。
けれど背筋を伸ばし、低くよく通る声で大臣たちと意見を交わす姿には威厳があった。
でも今、ベッドに横たわっている祖父は体も声も細く、今にも消えてしまいそうだった。
昔と変わらないのは優しく穏やかな茶色の目だけだ。
祖父が大きく息を吸い込んだ。
ジョシュは祖父の口元に耳を寄せた。
「とっくに見飽きたと思っていた空だが……いざ見られなくなると思うと、ずっと見ていたくなる」
今度はなんとか聞き取れた。
祖父は穏やかな微笑みを口元に浮かべ、力の入っていない声で笑った。
ジョシュは部屋の入口へと目を向けた。そこには温室にジョシュを迎えに来た執事が背筋を伸ばして立っていた。
ジョシュの視線に気が付くと、執事は黙ってうなずいた。
言う通りにしてやれ、という意味だろう。
この部屋にいるのはジョシュと祖父、執事の三人だけだ。
大臣たちは隣の部屋で控えている。
白夜の国の王という立場でありながら、祖父の部屋はせまく、質素だ。
部屋の中央にベッドが、窓のそばに書き物机が、壁際にクローゼットが一つずつあるだけ。どれも古く、使い込まれている。
白夜の国はとても貧しい国だ。
国民が苦労をしていることを白夜の国の歴代の国王たちはよく知っている。城下街の学校に通い、城下街の人たちと子供時代を過ごし、自身の目で国民の生活を見ているからだ。
城下街から国王の妻や夫になった人もたくさんいる。
だから国王も、その家族も質素な生活を心がけてきた。
ジョシュも祖父に言われ、祖父を見習って、質素な生活を心がけてきたつもりだ。
でも、それはただ祖父の言葉を守って、祖父の真似をしてきただけに過ぎない。
ジョシュは祖父とも歴代の国王とも違う。
城下街の学校に通うこともなく、城下街の人たちと子供時代を過ごすこともなく、自身の目で国民の生活を見てもいないのだ。
「僕は……お
ジョシュがうつむいて、ぽつりとこぼした言葉に返事はなかった。
代わりにすーっと、ランプのあかりが吹き消えたかのようにあたりが暗くなった。
ジョシュはゆっくりと顔をあげた。
開け放ったままの窓の向こうには濃く深い紺色の空が広がっていた。
風は凪いでいる。カーテンはぴくりとも動かない。
白夜の空は、もう――窓の外になかった。
「王太子殿下」
ぼんやりと窓の外を眺めていたジョシュは執事の声に慌ててイスから立ち上がった。
〝夜〟がやってきたら何をしなければならないか。
これも祖父から何度も教えられてきた。
祖父のような国王になれるかなんて、まずは国王になってから考えることだ。
「エドを裏門に呼んでおいてください。僕はリアのところに向かいます。大臣たちには、そのあとで向かうと伝えておいてください」
「かしこまりました。……陛下」
執事は胸に手を当てて、うやうやしく一礼した。ジョシュは眉を八の字に下げた困り顔で微笑んだ。
〝王太子殿下〟という呼ばれ方にも慣れることがないまま、また別の呼ばれ方をするようになってしまった。
現実感がないまま。
ジョシュは古いけれど良く手入れされているふかふかの絨毯を踏みしめて部屋を出た。
***
ジョシュと執事が部屋を出て行ってから隣の部屋に控えていた大臣たちが入ってくるまで、時間としては五分にも満たなかっただろう。
どこから入ってきたのか。
静かに目を閉じているジョシュの祖父――前国王の枕元に二十代半ばの女が立っていた。
緩くうねる長い金髪をさらりと揺らして、女は前国王の顔をじっとのぞきこんだ。
白夜の国の人たちのほとんどが見たことのない、青空の中できらきらと輝く太陽のような――美しい金の髪。
女は前国王の頬を白い手の甲でそっとなでた。
ため息を一つ。
女はくるりと前国王に背中を向けるとドアへと向かった。
女がドアノブにふれるよりも先に部屋のドアが開き、大臣たちが次々と入ってきた。
でも、大臣たちが驚いたりすることはなかった。
そのときにはもう、女の姿は霧のように消えていたからだ。
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