第3話

「俺はそんなこと、思って、ない。」

なんだそれ。つまんない。











「あっ」

 その声には、明らかに溜息が混じっている。

「今日は、早いのね。午前授業?」

「ああ。テストだったから。」

「そう、そうよね。うっかりしてた。」

 その女は、色の抜け落ちた後ろ姿で返事をした。

 邪魔で仕方が無いのだろう。俺のことが。息子も、かつて愛した男でさえも、母からすれば重荷なのだろう。めんどくさい。疲れた。と、夕食後の洗い物をしながらこぼすのをよく聞く。なぁ、母さん。あんたは何を思って、どこに向かって生きているんだ?ぼんやりテレビをみて終わるつまらない日々。可哀想な、女。だった人の、姿。

 不満があるくせに、中途半端にいい顔をする。文句も言えず、かと言って愛想がいいわけでもなく、毎日同じ顔をしている。

 少しいらついて、母の横を、いつもより足音を立てて通り、部屋に入った。

 あとから後悔した。息子のこんなに小さな抵抗に首をすくめ、必死に気配を消そうとする母の姿を見て、余計に腹が立っただけだった。

 なんとなくスマートフォンの電源を入れる。

 何もすることがないのに、癖みたいに。

 LINEを開くと、数人からメッセージが届いていた。話の続き。画面の中は時が止まっているので、返信が遅いもの同士だと一つの話題が終わるのに一日かかる。

 どうでもいい内容だった。あの問題が難しかっただの、2組の奴が妊娠したらしいだの。それっぽいリアクションで返信した。

 

ふと、スクロールする手が止まる。

 あの後あいつと連絡先を交換した。変な奴でも、最近の若者らしくLINEはやっているようだ。

 いきなり早朝に「おはよう」とだけ送られてきて、その後返事をよこさないと思えば、「なんで何も話しかけてこないの?」と送られてくることもある。

 誰が、あいつに話しかけたいと思うだろう。

 正直手綱を握られているような気持ちだ。


 あの日、妙な気分になり、授業が終わるとトイレに駆け込んだ。便器を抱え込み、嗚咽を漏らした。吐こうとしたが何も出てこない。

 涎だけがぼたぼたと、だらしなくあいた口からこぼれ出た。

 気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い

 気持ちいい。

 わからなくなった。

 気持ち悪いのが気持ちよくて、気持ちいいと思う自分が気持ち悪い。

 自分の中に入り込んでしまった何かを、必死に出そうとした。異物は外へ。そうすれば元通り。

 こんなの俺じゃない。




「俺ってなんだ?」

 あの日から帰ってきた俺が言う。

 ドアの向こうでは、相変わらずそろそろと蠢く、虫のような母が居た。

 口に出してから、しまった、と思った。

 急に恐ろしくなって、あたりを見渡す。当たり前だが、死んだ鼠も、あいつも居なかった。誰にも聞かれてはいないか、そんなことが気になって落ち着かない。

 落ち着くために音楽でも聞こうと、やっとそんな考えが浮かんだ時だった。

 LINEの通知音が二度鳴った。

 見られていたんだ。聞かれていたんだ。血の気が引いてゆく。ベッドに沈む、使い慣れたはずの自分のスマートフォンが、何故か今は殺気立って見える。一度拳を強く握る。じんわりと汗が滲んでいた。意を決して、勢いよく掴む。そこに表示されていたのは、公式アカウントの宣伝メッセージだった。

 しばらくの間スマートフォンを握りしめていたが、いきなり力が抜けた。肩や首のあたりがつっぱるように痛む。余程力が入っていたのだろう。

 何かに、怯えている自分が、泣きたくなるほど惨めだった。あんなにも感情の中にいたいと望んでいたのに、いざ立ってみると足がすくんで逃げ出したくなっている。

 嫌だ。

 戸惑っているみたいだ。これじゃあ。



 翌朝、家の前で待ち伏せをしてた変人に心配された。

「大丈夫?なんだか疲れているみたい。」

「……お前のせいだって言ったら?」

「嬉しい!」

 そいつは本当に嬉しそうだ。

「それって君が僕のことを考えてくれたってことでしょ?僕、もし性行為の最中にそんなこと言われたらその瞬間に射精してしまいそうだ。」

 頭おかしいんじゃないか。こいつ。心の底から気持ちが悪い。朝からなんで他人の性癖を聞かなくてはならないのだろう。

 そんな俺の気持ちを察したようにそいつは言う。

「こんな言い方だと誤解を生むかもしれないけれど、僕は性に対しての感覚は一般的だよ。今のは例え話。そのくらいゾクゾクするってことさ。男子高校生らしい例えかなと思ったんだけど。」

「みんながお前が思う男子高校生らしい男子高校生なら俺は今頃気が狂ってる。」

 すると、いきなり腕を掴まれ、強い力で引き寄せられた。中学生の少女のような小さな体から、こんな力が出るなんて誰が想像できただろう。

 そいつは耳元で言った。唇が動く音までも聞こえる距離で。

「もう気が狂ってるんじゃないかって、考えたことは無い?」

「……は……っ」

 そんな、馬鹿な話あるか。

 平凡を嘆く男が実は狂ってる、なんて。この間もそうだ。今まで信じてきたものが当たり前じゃなくなる感覚。全てを見透かしたようなその目で見られると、俺は、俺は、僕は

「は…っなせよ!!!!」

 そいつの身体じゃない。まとわりつくような、その声を、何もかもを、乱暴に突き放した。

 小さな身体は、いとも簡単に道路に転がった。少し蹴飛ばしただけで壊れてしまいそうだ。

 そいつは、うぅ、とひとつ唸ると、その奇妙に整った顔を俺に向けた。

 色素の薄い髪が乱れて、何本も、何本も、万年筆で書いた滑らかな線みたいに顔にかかっている。何故だかそれを見ると、鼓動がはやくなる。

「ほらね。」

 そいつは、笑った。突き飛ばされたのに。その小さな体を、傷つけられてしまったのに。

「もう狂ってしまいそうなんて馬鹿みたいなことしないでよ。ほんとうの君が知りたい。そんなのつまらない。」

 知らない。わからない。あれ、なんでこんなに

「雨葵くん。ねぇ、僕を見て。」

 俺は、普通だから大丈夫。だって、子供の頃からずっと。

子供の、頃?

「好きにしていいんだよ。」

 気がつくと、そいつの顔が俺の目の前にあった。違う。俺がそうしたんだ。

 胸ぐらを掴む右手に、学ランのボタンがめり込む。

「大好き。」









 覚えているのは、甘い声と拳の痛み。だけ。


 もうあとになんか戻れやしない。




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愛と呼ぶには 水雲月雲 @pandatomatokuu

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