第2話
「心ってどこにあると思う?」
そんなの、そりゃあ………
答えられなかった。
優れているか、劣っているか。
幸せであるか、不幸であるか。
自分の人生の主人公になるには、どちらか一方でなければならない。
俺は普通になるまいと必死だった。いつだって、なにかになろうとしていた。けれど、気づいたのだ。俺達は何者にもなれないのだ、と。
主人公は幸せな時も不幸な時も主人公だ。
俺は、天才にもなれず、醜くもなれなかった。
つまらなかった。自分が惨めだった。
クラスの隅で、背を丸めて、ひどい言葉を書かれた机を見つめている奴でさえ羨ましいのだ。俺は。
あいつは悲劇を生きている。自分が主人公。
毎日悲しみの中にいる。感情の中にいる。
なんて人間らしい。
だれか、俺の何かを見つけてくれやしないだろうか。なにかのスイッチを、押してくれないだろうか。ずっと、そう思っていた。
まさかほんとうに、世界が変わるなんて思っていなかったから。
死んだ鼠を綺麗だと言う奴を目の当たりにして、俺は戸惑った。初めて輪郭のはっきりした恐怖を感じた。それは急所ではなく、例えばみぞおちじゃなくて下っ腹を殴られたような鈍い痛み。
これからどうなるのか、迂闊なことをしたと自分の軽率さを後悔し、最悪の事態を考え、この事態をどう切り抜けようかと頭を巡らせる時の、おでこに脂汗が滲みでる感じ。覚悟なんてなかった。
不満はあったけど、心の底から主人公でありたいなんて望んでなかった。普通なら普通でいいと、少しの絶望と諦めしかなかった。
毎日、登校する度に思い出す。
帰り道で思い出す。
あの、恐ろしくも美しい光景。あそこにあった何者かの感情すべてに飲み込まれそうになる感覚。あと、すこしで、元には戻れないと確信していた。だから怖くなって逃げ出した。俺は、あの場で唯一の敗者だった。
このところぼんやりすることが多くなった。
ただでさえ輪郭がぼやけている俺が、自分の中でも意識を見つけられないとなると、とうとう脇役どころか、認識すらしてもらえなくなってしまう。
そんな時ふいに、うつくしきもの、だとかなんだとか
やたらと子供を可愛いという女の長ったらしい随筆を訳せ、と言われる。
「えーーーっと……かしら?は……なに?そぎ……?」
困った。古文は不得意分野だ。
「かしらはあまそぎなるちごの。髪を肩で切りそろえた子供が、って意味だよ。雨葵くん。」
後ろから聞こえる声に従って答える。
「髪を肩で切りそろえた子供が、です。」
正解だった。舌っ足らずなねばっこい、座ってよし、が耳につく。
が、それよりも優先すべきことが今発生した。それは怒りであった。確かにそうだったはずだ。だが俺が振り向いた瞬間に感じたのはやはり恐怖だった。逃れようのない恐怖。
あの鈍い痛みと焦り。
「なんでお前がここにいる。」
「なんでって、そりゃあ僕が僕だからさ。」
あいつだった。
悪夢のようだ。数日前と全く同じ調子で、おかしなことを普通に口にする。
普通に。
「意味がわからない。」
「僕は、ただ自分の本来いるべき場所に来ただけ。前までこんなところに興味はなかったしあまり来たことがなかったけれど。たまに来るといいものだね。授業は退屈だけれど、上部だけの人間関係とその奥底にあるキリキリした空気を見るのが面白い。」
こんな奴、いなかった。しらない。俺の後ろの席は、たしか不登校の……。
「そんなことを聞いているんじゃない。お前の目的はなんだ。」
「……君との話が途中だった。」
「は?」
「君は話の途中で帰ってしまった。まだ僕は自己紹介をしてもらっていない。」
「途中も何も、始まってもいない。俺とお前には何も無い。もう関わるな。」
「どうして?なぜ知らないふりをするの?」
まただ。この顔を、前も見た。俺がおかしいんだと、心底不思議そうな目。
たまらず背を向ける。そうだ。今は授業中なのだ。この随筆によると、うつくしきものを、知らなくてはならないらしいから。
「僕らの時間が動き出したんだ。また始まってしまったんだよ。君は忘れていないはず。忘れられるはずがないさ。その証拠に、ほら。」
次の瞬間、背骨を直接なぞられたかのような、不気味で抗いがたい快感が俺を襲った。
何が、起きた?
「君はこんなにも変だ。」
うつくしきものを、うつくしき、ものを。
ああ、まことにうつくしきは、あのじかんだ。愛おしい、世界中の悲しみを集めた、あのひと粒の涙だけ。
俺は、何を考えている?何が起きている?
何も起きちゃいないんだよ。後ろの席で新しいお友達が君に向かって話しかけているだけ。それだけだよ。
なんだって?
もうすこし、わかりやすく教えてくれよ
だから、君は……とても素敵なのさ
もうすこし、大きな声で喋ってくれよ
わかんねぇよ……
「これで、君の望み通りでしょ?」
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