愛と呼ぶには
水雲月雲
第1話
「好き」
日本語とは厄介だ、と思う。
綺麗だね、と言いながら、
そいつは道路の脇で惨めに死んでいる野鼠に、アスファルトとアスファルトの間に生えている小さな花を手向けた。
可哀想だとは思ったが、俺は正直気持ちが悪かった。鼠は左足が千切れてどこにもなくて、ガリガリにやせ細っていて、何より汚かった。
立ってみているだけで、どろりとした死が、鼻の穴から入ってきて吐き気がしてきそうだ。
「何が、綺麗なんだよ。」
少し震えた声で聞くと、そいつはさも当たり前のように、まるで、俺の方が異常だとも言いたげに鼠を指さした。
「君、見えないのかい?この子は涙を流している。」
そんなわけあるものか。涙を流す動物など、亀くらいしか聞いたことがない。それにあれは出産の痛みで泣いているわけじゃないのだ。感情で涙を流す動物は、人間だけだ。
少し苛立ちながら、横目で屍を見た。
泣いていた。
苦しそうな、悲しそうな眼に、土の混ざった涙を溜めていた。
もしかしたら、もしかしなくても、何かの拍子に水滴が鼠の瞳に入ったのだろう。この辺の道は少し凸凹していて、水溜りもあるのだから、そう考えるしかないのだ。
けれど、それはあまりにも悲しかった。
あまりにも弱かった。
この小さな命の、最後の抵抗のようにしか見えなかった。
けれど、そんなことがあってはいけない。俺の世界が揺らいでしまう。こんな小さなことだって、認めてしまえば今まで目を背けてきたものが俺を蝕んでゆきそうなのだ。
「鼠が、泣くわけねぇ。」
「そっか。君は本当に人間らしい人間だね。」
「なんの事だよ。」
「別に。僕は君と出会って、言葉を交わしてからまだ5分と経っていないからね、君の事は解らないけれど、僕が今思ったことだ。ただ、それだけ……。」
そいつは、鼠の頬を人差し指でそっと撫でた。
「失礼な奴だな。」
「そうかもしれない。じゃあ君の事を教えてくれないかな。その上で言ったんなら文句もないだろう?」
「なんで、知らない奴に自分の身の上を話さなきゃいけないんだよ。俺はただ家に帰ろうとした途中に変な奴に話しかけられた可愛そうな男だ。」
「は、ははっ!面白いね。君は、そうか、可哀想な男だ。でもこれじゃあ性別しかわからないよ。」
そいつは心底可笑しそうに笑った。
なおも、鼠の周りに花を置きながら。
「馬鹿にしやがって。だいたい人の名前聞く時は自分から名乗るもんだろ。」
「君は何を言っている?」
前から目の前の奴が何を言っているかはわからなかったが、ますます訳が分からなくなってきた。お前が、何を言っている?
「僕はね、君のことが知りたんだ。名前なんてどうでもいい。君の奥底が知りたいんだ。自己紹介っていうのは、僕の中ではそういうものだ。」
俺は、こいつが誰なのか知らない。名前も、男か女かも、なにも。ただわかるのは、こいつが同じくらいの歳に見えると言うことだけだ。
そもそも、俺がこいつに関わる理由などない。
「俺は、」
それなのに、こいつの言う自己紹介をしたくなるのは、鼠の亡骸を綺麗と言ったその横顔や、
訳の分からないその言い分が、どうしようもなく俺の興味をそそるからか。
「俺には、ねぇんだ。」
そう言って、ハッとした。
何を言っているんだ、俺は。
「へぇ、何が?」
「もう、いいだろ。関わることもねぇ。」
俺は吐き捨てるように言うと、そいつを押しのけて歩き始めた。
そいつの横を通り過ぎる時、ちらりとその小さな命の残骸を見た。
いつの間にか周りを小さな花で囲まれて、棺桶の中のようだった。
「本当にそうかな。」
花を手折る、音。
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