第50話 大切な選択

 水曜日の夜、今日の家庭教師の授業もつつがなく終了し、俺は菟田野家うたのけのリビングで日葵さんが入れてくれたお茶を飲んでいた。


「大地くん。今日もお疲れさま。いつもありがとね」


「いえ、こちらこそ。バイト代もきちんといただいていますし、今もそうですけど、休憩のときにお茶やお菓子なんかを出してくれてありがとうございました」


「ううん、気にしないで。私たちはふたりとも、よくお世話になってるから」


 日葵さんは飲み終わった俺のコップを下げながらそう言った。


 やはりこの人は天使だ。優しさが染みわたる。


 でも、そろそろ夜も遅くなってきたし、迷惑にならないうちに帰るとしよう。


「では、また日曜日に来ます。お疲れ様でした」


「うん、またね。明日は大学で会おうね?」


 そうして俺が日葵さんと挨拶を終えて玄関へ向かい、帰ろうとしていたところで、自室にいた月麦が慌てたように二階から降りてきた。


「だ、大地!」


 月麦は大きな声で俺を呼んだ。


「お、おう。そんな大きな声を出さなくても聞こえてるぞ。どうした? 今日の授業でわからないとこでもあったか?」


 月麦は首を振り、俺の顔をじっと見つめた。


 そして俺の方に近づいてきて、帰る準備を終えた俺の服のすそをつまんだ。


「あのさ、帰る前にちょっとだけ。わたしと二人で散歩でもしながら話さない?」


「今からか?」


 俺は腕時計に目をやった。もうすぐ二十一時になろうかという頃だった。


「もう結構遅い時間だし、日を改めたらだめなのか?」


 俺はそう提案したのだが、やはり月麦はふるふると首を振った。


「その、できれば今日がいいの」


 なぜ月麦がここまでするのか、その理由が俺にはわからなかった。


 ただ、彼女は裾をつまんだその手を決して離そうとはしなかった。


「ね、大地くん?」


 俺が月麦の様子に戸惑っていると、日葵さんが俺の肩をぽんとたたいてきた。


「うちの妹に、少しだけ付き合ってあげてくれないかな?」


「……日葵さんがそういうなら」


 もう遅いから、俺が月麦を連れ出したら日葵さんも心配するだろうとも考えていたのだが、それは杞憂きゆうだったようだ。


 俺は月麦と一緒に外に出掛けることにした。


 月麦はくつき、そうするのが当たり前のことのように俺の隣にやってきた。


 暗くて静かな夜道だった。


 お互いの手が触れるか触れないかくらいの距離。


 散歩に行きたいと言い出したのは月麦なのに、彼女はいつものように俺の手を引くこともなく、ただ黙って隣を歩いていた。


「……ねえ大地、あっちのほうに行かない?」


 初めて彼女が口を開いたのは五分ほど経ってからだった。


 緊張したような表情で月麦はそう提案してきた。


 彼女が指をさしたのは、住宅街から離れた高台のほうだった。


 俺は頷き、そのまま二人で坂を上った。


 そして俺たちは高台の一番上までやってきた。


 そこからは明かりのついた町が一望でき、街灯の白い光が闇の中にぼんやりと浮かび上がっていた。


「あ、あのさ大地」


 月麦は夜景を眺めていた俺を呼んだ。


「わたし、あんたに聞きたいことがあるんだけど……」


「なんだ、聞きたいことって?」


「もし、もしね……」


 月麦はそこで一度言葉を区切り、胸の前で強く手を握りしめた。


「わたしが……大地のことを好きっていったら、どうする?」


「え……?」


 こいつはいったい何を言い出すんだ? 好きって、こいつが俺のことを?


「……そのとき、あんたはわたしと付き合いたいって思う? わたしは、大地の恋人にはなれないかしら?」


 俺は頭の中が真っ白になった。


 この言葉は本気なのか?


 だとしたら、これってどう考えても、そういうことだよな?


 そりゃ、月麦のことはかわいいと思う。


 ふとした仕草が愛おしいと思う。


 笑ってくれたらうれしいと思う。


 悲しい顔をしていたら助けたいって思う。


 俺の心臓が痛いくらい鼓動を打っている。


 月麦は何を思ってこんなことを聞いてきたのだろう?


 俺がこいつのこと、どう思っているかと言われると……。


(いや、まてよ?)


 俺はそのとき、自分の過去を思い出した。


 好きになった女の子に、自分のことをダシにして遊ばれていたこと。


(そうだ……)


 だからこれも、俺を魅了しようという作戦に違いない。


 こうして俺のような男子をその気にさせて、最後には笑いながら冗談にされて、そのまま振られるに決まってるんだ。


 俺の心の中で渦巻く黒いもやもやとした感情を知らず、月麦は言葉を紡いでいく。


「その……ね。わたし、あんたと話すの楽しかったの。言い争いとか、喧嘩みたいなこともしたのに、気づけばあんたと仲良くなって……」


 だって俺は、そうやって傷ついてきた。


 振られたときは落ち込んで、しばらくは思い出すたびに泣いていた。


「それからあんたと一緒に遊園地で遊んで、それがすっごく楽しくて、その帰り道で優しく頭を撫でてもらったときにね、わたし気づいたの」


 だから俺はもう、二度とそんな思いをしたくないんだ……!


「いつからかは、もうわかんないんだけどさ、わたしずっと……ずっと大地のことが……!」

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