第30話 推しの前では名もなきモブ
「えいっ!」
ついに月麦は行動を起こした。俺の頬を優しく両手で挟むと、じっと俺の目を見つめた。
「わたしの言うことを聞きなさい」
やばいやばいやばい!
俺は今、完全に月麦に心が
理想の格好、理想の容姿、理想のシチュエーション。
三拍子そろった彼女の前に、俺はなすすべもなく負けて……。
「……あれぇ?」
負け、て……。
「なんともない、だと?」
確かに魅了がかかった感じがして、心がぽかぽかと温かくなっては来るのだが、今までと違って、耐えられなくなるくらいの衝動が心の奥底から広がり、身体が芯から熱くなるようないつもの変化が現れなかった。
「あ、あれ? おかしいわね」
月麦はさらに顔を近づけて、もう一度俺に魅了をかけた。
だが、結果は同じだった。
俺の身体は軽く
「……なんで? 今ものすごくいい感じだったわよね? めちゃくちゃ恥ずかしかったけど、あのメモに書いていた通り手を繋いでくっついたり、甘えたりしてみたのに、どうしてわたしの魅了が効いてないの?」
「……そうだ、考えてみれば当たり前のことだったんだ」
俺はなぜこんな結果になったのか、それを悟った。
俺の心の中は、毎日の
「理想的すぎる推しの相手に対して、そんな
「ええ……そんなのおかしいわよ。シチュエーションだってあんたが喜びそうな状況だったはずだし、この服装も、あんたの理想の女の子に近い格好なんでしょ? だったらそんな子と恋人になれたらとか、え、えっちなことしたいって、普通は思うものでしょう?」
「いいや違う、お前はなにもわかってない」
俺は月麦の肩を優しく掴んで至近距離で見つめ合った。
「ちょっとちょっと!? 顔が近いわよ」
「俺は推しには誓って手を出したりはしない」
「わかったから離れなさいってば!」
「俺は遠くからその子の幸せだけを願うんだ。自分にとって推しの人間って言うのはな、その人がただ生きているだけで自分も幸せを感じるんだよ。自分がその人と結ばれる必要はない。その人が本当に幸せそうに、安心して笑っている姿が見たいんだ」
そこに俺のようなさえない男の姿はいらない。
それは百合に
推しの前では俺は名もなきモブ。
遠くからその子をただ見守っているのが
「だから、お前は絶対に幸せになるんだぞ?」
「どういうこと!? というか、誰目線なのよそれ!? 推しの女の子には手を出せないって、どこまでヘタレたら気が済むのよあんたはぁ……!」
「断じてヘタレではないぞ」
「あんたの気持ちはわかるけどさ……推しのキャラには幸せになってほしいって。でも、現実でそんなことしなくてもいいじゃないの」
月麦はぺたりと床に座り込んだ。
「今回はうまくいったと思ったのに……」
「ああ、すごくかわいかったぞ。できればいつもその姿でいてほしい」
「あんたに初めてかわいいって言われた気がするけど、まったくうれしくないわね……」
月麦は大きなため息をついた。
「あーあ、この服、買うのに勇気がいるくらい高かったのに、今回も負けちゃった。来月はひもじい生活が待っているわね……」
「正直、いいものを見せてもらったから、その洋服代は出してやりたいと思っている」
「いいわよそんなの。あんたってほんとに推しに対して投資を惜しまないタイプよね」
呆れたようにそう言って、月麦はくすりと笑った。
「だがお前、どこで俺の好みを聞いてきたんだ?」
いくら何でもこれはピンポイントで俺の好みを
俺も何度かこいつにそういった類の話はしていたとはいえ、ここまで完璧に、シチュエーションやセリフ回しまで俺の弱点をつくことはできないと思うんだが……。
「そんなことわたしに言われても。ただ、友達に相談しただけよ」
友達になんの相談してるんだこいつ? 友達に男を落とす方法とか聞いてんの?
「その友達の名前は?」
「わたし、その子の本名を知らないもの」
「どういうことだ?」
「その子とはネットで知り合ったの。一緒に遊んだりもするけど、お互いにずっとハンドルネームで呼んでるから、本当の名前は知らない」
「なんか、不思議な関係なんだな?」
彼女は独特の交友関係を持っているらしい。
「ちなみに、そいつのハンドルネームは?」
「みうみうだけど、そんなの聞いても仕方ないんじゃない?」
俺は頭を抱えた。
そいつは俺の妹だ!
あいつ、オンライン対戦ゲームではいつもその名前でキャラクターを制作するから間違いない。
海羽のやつ、いつからこいつと繋がってたんだ? 今までのことも全部あいつの差し金じゃないだろうな?
俺が
「やっぱりわたしに、あんたを魅了することってできないのかな……」
教科書を開き、やってきた課題を俺に手渡しながら月麦はつぶやいた。
宿題をきちんと全部やっているあたり、やっぱりこいつ根は真面目な奴である。
「なあ、なんでそこまで俺を魅了することに一生懸命なんだ?」
「なによ、いまさらね」
「月麦はそこまで勉強したくないのか? お前と一緒に勉強してて思ったんだが、お前はそこまで勉強ができないような奴じゃないだろ?」
こいつは俺が教えたことはちゃんとできるようになるし、ここまで勉強が嫌いになった理由がよくわからない。
「……だって、勉強することに意味が感じられないんだもの。わたし別に将来やりたいこともないし、今勉強していることだって普段の生活で使わないじゃない?」
なるほど、こいつの勉強嫌いは、勉強の
「それに、あんたを魅了するのは別に勉強をしたくないからってだけじゃないわよ」
「ほかにどんな理由があるんだ?」
「わたしにとって、魅了できない男の人がいるってことが不安で、嫌なの」
「それは、なんで?」
今までそんな奴がいなかったから、こいつなりのプライドでもあるのだろうか?
「……怖いから」
月麦はためらいがちに言った。
「怖い?」
「わたし、男の人が怖いから」
「どうして? お前なら、男なんてみんなちょろいくらいに思えるんじゃないか?」
「違うのよ……昔ちょっといろいろとね」
月麦は暗い表情でうつむいた。
なぜ彼女が男を怖いと言ったのか、その理由が気になったが、月麦はそれ以上のことを話す気はないみたいだ。
「はい、この話はおしまい」
月麦は俺に向かって笑って見せた。
「とにかく、そういうわけだから。勉強は嫌いでやる気も出ないし、あんたを魅了するのもやめないからそのつもりでいてね」
月麦はそう言ったが、俺はこいつが勉強嫌いのままでいるはもったいないと思った。
男の人が怖いと言っていたのは、俺にできることがなさそうなのでいったん考えないでおくにしても、教える立場として、彼女にはそれなりに楽しんで勉強に取り組んでほしい。
だから俺は、月麦の勉強のモチベーションを保つためにひとつ提案をすることにした。
「よし、わかった。じゃあ、月麦の学校も来週から中間テストだし、五教科の合計点数がクラスの平均点以上だったらなんでもいうこと聞いてやるよ」
「へ? いきなり何を言いだすのよあんた?」
「少しはお前のモチベーションになればいいかと思ったんだ。ただ、なんでもって言っても家庭教師を辞めろとか、日葵さんに話しかけるなっていうのはなしだけどな」
「それなら意味ないじゃない……」
月麦はあまり乗り気にはならないみたいだ。俺に何かしてもらうよりも、面倒くさいという感情が勝つらしい。
「そういえばお前、ケーキが好きだったよな? 目標達成できたら、あの駅前にある高級洋菓子店のケーキを好きなだけ食べたいとか言ってくれてもいいぞ?」
月麦はぱっと目を輝かせた。ケーキが好きなこいつにとってはなかなかに魅力的な提案だったらしい。
でも、もう一声足りない感じか。悩ましげにしてはいるものの、テスト勉強を頑張るほどではないようだ。
「なんだお前、もしかして平均点すら取る自信がないのか?」
だから、俺は
「まあ、自信がないなら仕方ない。この約束はなかったことにする。テスト勉強をするもしないもお前の自由でいい。だが、俺はこれから先、お前のことを心の中で負け犬ちゃんと呼ぶことにする」
「……だれが負け犬ちゃんですって?」
やはり乗ってきた。こいつは本当に扱いやすくて助かる。
「いいじゃない、やってやろうじゃないの。わたしがクラス平均以上の点を取ったら、本当になんでも言うことを聞くのね?」
「俺のできる範囲ならな」
「言ったわね? 男に二言は許さないわよ」
「ああ、任せておけ」
「あんたとの勝負には、どんなものでも絶対に負けたくないもの。余裕で勝って、あんたにケーキを買いに走らせてやるんだから! いいえ、それだけじゃないわ! もっとすごいことさせてやるんだから、首を洗って待ってなさい!」
最近の月麦の小テストの成績を見ている限り、今からテスト対策を真面目にやって、普段どおりに解ければ平均点を取ることは多分できるだろう。
やれやれ、やる気を出させることには成功したが、もっとすごいことっていったい何をやらされるんだろうと今から心配な俺だった。
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