第29話 理想の女の子

 今日は水曜日。


 家庭教師のバイトのために菟田野家うたのけまで向かうと、日葵ひまりさんがいつものように笑顔で出迎えてくれたので、俺の気分は上々である。


 だが珍しいことに、いつもなら俺と日葵さんが話しているところを見るとすぐに邪魔をしに割り込んでくる月麦つむぎの姿が見当たらなかった。


 日葵さんに月麦はどうしているのかと話を聞くと、今日は俺と会う前に準備が必要なようで、いいっていうまで部屋に入ってきたら駄目だと言われたらしい。


 また何か変なことしているんだろうなと俺は思ったが、着替え中に鉢合わせても気まずいし、俺はその言葉に従うことにした。


 なので、今日は日葵さんと雑談をする時間が十分に取れる。


 正直、こうやって落ち着いて日葵さんと話せるのなら、あいつには常に余計なことをやっておいてもらいたいものだ。


 そんな二人の話題はひょんなことから大学での出来事になった。


「無気力になってしまう、原因不明の病気ですか?」


「私たちの大学でも流行っているみたいなの。それがウイルスによる病気かどうかもわからないから気をつけないといけないなって」


 日葵さんは心配そうに言いながら、俺の前に冷たい麦茶を置いてくれた。


「もしかして、身近な人がその病気にかかったんですか?」


「うん……最近、友達が何人か学校に来てないなって思ってたんだ。それで詳しい子に話を聞いたら、その子たちは無気力になって家に引きこもっちゃったらしいの。みんな毎日楽しそうにしてて、そんなふうになるなんて思ってなかったから驚いちゃって」


「そんなことがあったんですか……」


「大地くんは大丈夫だと思いたいけど、気をつけておいた方がいいかなって。ごめんね、せっかく来てくれたのにこんな暗い話をしちゃって」


「いえ、日葵さんにそうやって心配してもらえたのが嬉しくて元気が出ますよ」


「そう? ふふ、よかった。私の話、つまらなくない?」


 俺は日葵さんと話せているだけで最高だというのに。


 日葵さんが相手なら、たとえどんなにつまらない話だって楽しく相槌あいづちをうって聞くことができるだろう。


「お姉ちゃん、ちょっときて!」


 そのとき、月麦が二階から大きな声を出して日葵さんを呼んだ。


「呼ばれたから、いってくるね?」


 月麦に日葵さんとの会話を邪魔されたが仕方ない。俺はしぶしぶ日葵さんを見送った。


 そうしてしばらくの間、俺が麦茶を飲みながらゆったりと待っていると、日葵さんはすごくニコニコとしながら下に降りてきた。


「大地くん、もう部屋に入ってもいいみたいよ?」


「月麦の準備ができたんですか?」


「そうみたい。大地くん、月麦の姿を見たらびっくりするんじゃないかな?」


 びっくりねえ……。


 もう何が出てきても驚かないくらい色々とあった気がする。


 繊維の縫い目がわかるくらいの距離でパンツを見せられるとか、スク水メイド服とか、あれ以上の驚きとなるともう思いつかない。


 さすがにひどすぎるのはさっき部屋に入って言った日葵さんも止めるだろうから、今日は何が出てくるのやら。


 そんなことを思いながら俺は二階にあがって月麦の部屋の扉をノックした。


「おーい、入るぞ? 準備はできてるのか?」


「い、いいわよ、入っても」


 扉の奥から月麦の声が聞こえてきた。俺はそっと扉を開いた。


「さあ、お勉強の時間だぞっと。さて、今日はどんな格好で……」


 俺はいつもと違う月麦の姿を見て動けなくなった。


「お、お前……月麦か?」


「それ以外に誰がいるのよ……ばか」


 俺は魅入られていた。


 そこにいたのは俺の知っている月麦ではなかった。


 いつものような胸元が開いた服をやめて、白基調のトップス。それはレースやリボン、フリルが袖口や肩口の開いたところにあしらわれており、月麦の愛らしさを際立たせている。


 藍色あいいろのスカートは膝より少し短いくらいで、自分を可愛く見せたいという気持ちと恥じらいが葛藤していることが伝わってくる長さ。


 髪の毛はおさげになり、肩のあたりでふさをつくっている。


 それはもちろんアレンジされており、ふわふわとした柔らかい雰囲気が表現されていた。


 まるで清楚を体現したかのようなその姿。


 未成熟ながらも女性らしさを感じる彼女のスタイルが服装と相まって、決していやらしさなどを感じさせず、ただただ可愛らしい。


「今日はね、あんたの好みにあわせた格好をしてみたのよ」


 照れたように頬を赤く染め、優しく微笑んでくれる姿はまるで、この地上に降り立った妖精のようだった。


「ぐはあああぁ……!」


 俺は過呼吸になり、心臓を抑えてうずくまった。


 かわいい、めちゃくちゃかわいい!


 マジ好き!


 寝ても覚めても好き!


 永遠に推せる!


 なぜなら、今の月麦の見た目は俺の理想そのもの。


 何度も何度も夢に見て、渇望かつぼうしていた女の子の姿がここにあった。


 俺の心に吹き荒れている、愛おしいという感情の最大瞬間風速は、日葵さんを初めて見たときを軽く凌駕りょうがしていた。


 とくにこいつの場合は普段のギャップも相まって、破壊力が凄まじいことになっている。


「か、かわいすぎる……」


 俺は思わず声を出してしまった。月麦にも俺のつぶやきは聞こえてしまったようで、驚いたように目をぱちくりさせていた。


「ほ、ほんとに効いてるわね……えっと、次に何をすればいいって言ってたかしら?」


 月麦は何かをぼそぼそとつぶやきながら背中を向け、なにやらメモ用紙のようなものを見つめている。


 そこには何が書いてあるんだろうか?


 そして一通りそれを確認し終えて、ゆっくりと俺の方に近づいてきた。


 月麦はそれから、普段は見せないような優しい笑顔を浮かべると、俺の左手に自分の右手をそっと重ねてきた。


 白くてすべすべした、俺よりかなり小さい手だった。


「お、おまえいったい何して……」


「ねえ、先輩。わたし、先輩と手を繋ぎたいです」


 先輩だと!? 年下の女の子にのみ許された、男を喜ばせる必殺の呼び方じゃないか!


「ダメ……かな?」


 そして上目遣い。


 重ねた左手から伝わってくる温かさと甘えるようなその声に、俺はもう逆らえなかった。


「あ、ああ。いいぞ……」


「えへ、ありがとう」


 月麦は手を絡ませてきて隣に座った。


 上が月麦の手、下が俺の手。


 伝わるぬくもり恋人繋ぎ。


 俺の夢見たシチュエーション、可愛い彼女の隣に座って恋人繋ぎが実現している。


「ねえ先輩、先輩はやりたいことない?」


「や、やりたいこと?」


「わたし、先輩のやりたいことしてあげたいな?」


 はい、出ましたこの献身的けんしんてきな言葉。


 妄想の中の俺は膝枕とか、ハグとか、キスとかいろいろ好きにやりたいことを口にしてたけど、実際に現実でそんなこと言われても困ってしまう。


 いやだって、やりたいこと正直に言って嫌われたり、拒絶されたりしたら嫌じゃん?


「何もないの? じゃあ、わたしがやりたいことしてもいい?」


 もう俺に抵抗の意志はなかった。


 月麦は俺が肯定したのを確認すると、俺の肩にこてんと頭をのせて、すりすりとくっつけてきた。


 こ、これは、決して自分から触ってきたりしないけど、相手からしてもらえるのを待っているというアピール!?


 男が頭を撫でたくてたまらなくなる、小動物のように甘えてくる大技じゃないか!


「……えへへ。先輩、大好きです」


 いよいよ必殺技の登場である。


 これは男が何度でも言われたい言葉、あなたのことが好きというものだ。


 自分のこと、自分の存在が肯定され、好きだと言ってもらえるこの嬉しさと幸福感は何物にも代えがたいものだと思う。


 俺はくらっときて倒れそうになった。

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