第20話 おかしな月麦とみーこちゃん

「と、とにかく仕切り直しよ。さあ、あんたとの勝負を始めるわよ!」


 月麦は気力を振りしぼるようにして立ち上がり、俺の隣にやってきた。


 そして、そこではじけるような明るい笑顔をつくり、ウインクしながらこう言った。


「いらっしゃいませ、ご主人様! 今日はわたしを指名してくれてありがとう!」


「ぶふーっ!?」


 いや、指名なんかしてないが!? 俺にはこいつの思考回路がまるで読めない。


 可愛いけどよくやるよねほんと、恥ずかしくて俺なら絶対に無理だわ。


「ご主人様のご注文はなんですか? 今あるのは冷たーい麦茶と、あまーいクッキー、それとお水がピッチャーに入っていますからいつでもお注ぎいたしますよ?」


 それはさっき日葵さんが持ってきた休憩セットじゃねえか!


「メイドのチェンジで。指名料を払うので日葵さんをお願いします」


「そのサービスは受け付けてないわ! あきらめて何か注文しなさい!」


 だと思ったよ! しかしこいつ、何が目的でこんなことやってるんだ?


「じゃあ、とりあえず水をくれ」


「かしこまりました! いまお注ぎしますから、少々お待ちくださいませ」


 月麦はなぜかご機嫌そうに鼻歌まで歌ってピッチャーを取りに行った。


 背中を向けたので、腰でまかれたエプロンがそのお尻の動きに連動してふりふりと揺れている。


 おそらく無意識にだろうが、水着のお尻への食い込みを指でくいってやって直していた。


 ぐおおお! どうしてこいつは俺のフェチをこう的確についてくるんだよ!


 女の子なんだからもっと男に見られていることを意識して自分の体を大事にしやがれえええ!


 そうやって悶々もんもんとしていると、俺は月麦が何かを飲み物に入れようとしていることに気がついた。


 やっぱり何か企んでやがったなこいつ、油断も隙もあったもんじゃない。


「ふっふっふ。この薬さえお水に混ぜてしまえば、もうこっちのものよ! ちょーっと卑怯かもしれないけど、勝つために今あるものは使うべきよね、そーれさらさらーっと……」


「おい、何してんだ?」


「うひゃああぁ!?」


 俺の声に驚いた月麦の手からピッチャーが投げ飛ばされた。


「うおおおおい!?」


 空中へと舞い上がったそれはひっくり返り、彼女の頭上へと寸分の狂いもなく落下した。


「きゃああああ!」


 ばしゃあああと、水が滝のように流れ出た音がした。


 絨毯じゅうたんと月麦が濡れネズミになっただけで被害が済んだことは不幸中の幸いか。


「うう、冷たいよ……」


「――っ!?」


 月麦の姿に俺の鼓動は早くなった。


 しっとりとぬれた髪がいつもの彼女とは違うどこか妖艶ようえんな雰囲気をかもし出し、水着は濡れたせいで色が濃く変化して、肌にぴったりと張り付き、その引き締まっている身体のラインをより鮮明に映し出している。


 首元から胸元へ、つうと滑り落ちる水滴。


 そこにあるふたつの柔らかそうなふくらみに髪がぺったりとくっついているその光景はとても煽情的せんじょうてきだった。


 俺はぶるぶると頭を振り、必死で煩悩ぼんのうを抑え込んだ。


「まったく、なにやってるんだよお前は……」


 最近はだいぶ暖かくなってきたとはいえ、氷で冷やしてある水を頭からかぶったんだし、さすがに寒いだろう。


 床に座り込んでいる月麦に、今日はまだ使っていないハンドタオルを鞄から取り出して手渡そうとしたときだった。


「ねえ、大地ぃ」


 月麦は甘えたような声を出しながら、タオルを持っている俺の手をがっちりと掴んだ。


「ん? どうしたんだ?」


「身体が熱いの……」


 氷水を被って体が熱いわけないだろ? 俺はそう思って彼女の肩や頬に触れてみたが、確かに熱があるんじゃないかと思うくらいそこは火照ほてっていた。


 それだけでなく、なんだか月麦の様子がおかしい。その肌は赤く上気して、どこかうつろな表情だ。


「おい、まさか体調が悪かったりするんじゃないだろうな?」


 もしそうだとしたら、彼女の体調不良に気づかなかった己の鈍感さを呪いたくなる。


「違うの……そうじゃないの」


 月麦は否定して、俺に熱のこもった視線を向けてきた。


 ほんとうにどうしたんだ今日のこいつは? やっぱり様子がおかしいぞ?


 俺がその様子に困惑していると、月麦は俺の背中に両手を回して抱き着いてきた。


 ええええ、なんで!? どういうこと!?


 今までは誘惑して胸元とかパンツとかは見せて来たけど、こうやって直接触れ合ってきたことは一度もなかっただろ!?


「お、おい。濡れるからいったん離れ……」


「わたしの身体の熱、大地が冷ましてよ」


 ぎゅっと彼女に抱き着かれたまま耳元でささやかれる。


 耳にかかる吐息がくすぐったくて、俺の身体はいやおうにも反応してしまう。


 いやいや、ちょっと待とうよ! ほんとに何言っちゃってるのこいつ!?


 俺は理性をフル動員させて、変なところに触らないように両手を上にあげた。


 明らかに月麦はおかしくなっている。それがわかっていながらこいつに手を出すなんてことは、誇り高き童貞として絶対にあってはならない。


「……なんで、なにもしてくれないの?」


 うるんだ瞳で見つめられて、俺の身体は硬直した。月麦はめちゃくちゃ顔が可愛いから本気で困る。


 それに今日のこいつの格好は俺のフェチをバチバチに刺激してくるし、水着の繊維の感触とか、彼女の体温とか柔らかさとかが触れ合ったところから伝わってくるし、普段は名前で呼んだりしないくせに今日に限って呼びやがるし、いろいろありすぎて俺の処理能力を軽く超えてしまっていた。


「大地がなにもしてくれないなら、わたしにも考えがあるもん。えいっ」


 月麦は俺の頬をむにっと両手で挟んだ。こ、これはまずい!


「わたしの言うことを聞きなさい」


「い、今は駄目だああぁ! ふおおぉっ!?」


 ドクン、と心臓が大きく跳ねる音がした。


 完全に恋に落ちた感覚。彼女のことが愛おしくてたまらない。


 お互いに密着した胸から、俺のドキドキが伝わってしまうんじゃないかと思うほど気持ちがたかぶり、彼女から目が離せなくなる。


 至近距離で見つめる彼女の顔。長いまつ毛にぱっちりとした二重のまぶた。俺を優しく見つめる瞳にふっくらとした唇。


 そこに俺のものをぴったりと合わせることができたら、どれほど気持ちがいいんだろう?


 今すぐにでも、そこにキスがしたい。


「ああああ、もう無理! これ以上は耐えられねえええ!」


 そんな衝動に導かれ、俺は彼女の肩を抱きよせた。そしてそのまま彼女の唇を奪いかけそうになったとき、再び頭の中に聞こえてくる声があった。


(ねえ、大地さん。本当にそれでいいんですか?)


 りんとして透き通った、そんな声が響く。


(だ、誰だ?)


(あなたと共に一夜を過ごしたこともあるのに、わたくしのことをお忘れですか? それはとても寂しいことですね……)


(ま、まさか。君は俺が高校生の頃からずっと推しているみーこちゃん!?)


(はい、そうです。よかった、わたくしのことを覚えていて下さったんですね)


(忘れるわけないじゃないか! 俺は君に何度、つらいときに助けられたことか)


 彼女は俺の愛用している抱き枕にプリントされたキャラクターである御陵琴音みささぎことね、通称みーこちゃんである。


 妖怪から神社を守る巫女さんで、清楚でおしとやかな大和撫子。


 日葵さんが巫女服を着てくれたら、きっとこんな見た目になるんだろうなって思う。


 みーこちゃんは、俺のことをじっと見つめて厳しい口調で言った。


(大地さん。いつかあなたが生涯をともに過ごすパートナーに出会うまで、誇り高き童貞を守るというわたくしの前で立てて下さった誓いは嘘だったのですか? 様子がおかしくなってしまった女の子に手を出してしまうような、そんな最低な男だったのですか?)


(そ、そんなことない! 今でもその俺の誓いは心の中で生き続けているんだ!)


 そうだ、こんなところで俺が自分で立てた誓いを破ってしまうわけにはいかない。それに、俺のことを信頼してくれたみーこちゃんを裏切ることなんかできるはずがない!


(ふふ、そうですよね。大地さんはそんな人じゃないって、わたくしは知っていましたよ)


 みーこちゃんは数年前と全く変わらない美しい姿で微笑んでくれた。いや、絵だから姿が変わらないのは当たり前なんだけどね?


(よかった。もう大丈夫そうですね、わたくしはそろそろ行かなければなりません)


(そんな! 行かないでくれみーこちゃん! せっかくこうして言葉をかわすことができたのに!)


 俺は必死になって引き留めたが、彼女はゆっくりと首を振った。


(いいえ、わたくしの役目はこれで終わりです。あなたはもう、人生を共に歩んでいく人と出会っているんですもの)


(もう出会っている?)


(はい、だから大丈夫です)


 それは日葵さんのことだろうか?


(さようなら、あなたに抱かれながら眠る夜は、悪くなかったですよ)


(嫌だ! 待ってくれ!)


(その誇りを胸に、絶対に幸せになってくださいね)


(みーこちゃーん!)


 声が遠くなる。同時に俺の意識が再び覚醒かくせいする。


 そうだ、俺は誇り高き童貞! 俺の推しキャラクターとの間で交わした誓いを守らずしてどうするんだ!


「うおおおおおお!」


 俺は揺るぎない理性と鍛え上げた肉体、己の誇りをすべて力に変えて、月麦の拘束から逃れた。


 そして急いで一階のリビングに駆け込み、ソファに座っていた日葵さんを呼んだ。


「日葵さん、月麦の様子がおかしいんです! すぐに来てください!」


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