第5話 女の子の家
「ここが
俺は菟田野さんに教えられた住所を頼りに、小さな一軒家の前までやってきていた。
「やべ、めちゃくちゃ緊張してきた」
女の子の家に入るという経験を生まれてこの方、一度もしたことがこなかった俺は、インターホンを目の前にして固まってしまった。
ここに俺がいていいものかという場違い感が半端じゃない。
みんながスーツや制服を着て集まるような場所に、サンダルに短パンで来てしまったときの感覚に似ている。
だってあの菟田野さんだよ? 男の誘いをすべて拒否ってきたあの人の家に今から入るんだよ?
それだけじゃなく、今日はその菟田野さんの妹とも顔合わせをして勉強を教えることになっている。
俺の苦手な、初対面のコミュニケーションが始まるのだ。
菟田野さんの妹ということは、おそらく彼女に似て清楚で、美しくて、かわいらしい見た目をしているに違いない。
そんな美少女と二人きりになっても、今日の俺は先生として心を落ち着かせていなければならないのだ。
「よし……行くか!」
気合を入れて、俺はインターホンを押した。
『はーい?』
「あ、俺、じゃない……わたくし、日葵さんから家庭教師の依頼を受けた
『あはは、すごくかたい挨拶だね? 私が日葵だよ。すぐに玄関開けるね』
中からスリッパのパタパタという音が聞こえてきた。
そして、かちゃりという音と共に開かれた黒い扉の先から、笑顔の菟田野さんが出迎えてくれた。
「こんにちは入之波くん。さ、遠慮せずに入って」
「は、はいっ! 今日はよろしくお願いします」
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ?」
優しい声でそう言ってくれる菟田野さんに先導されながら、俺はリビングに通された。
「今お茶入れるから、座って楽にしててね」
菟田野さんはキッチンにコップを取りに行った。
俺は言われた通りに柔らかいソファーの上に腰かけたが、そわそわしてまったく落ち着けなかった。
「はい、どうぞ。大したもの出せなくてごめんね?」
しばらくすると、俺の目の前に冷えた麦茶がそっと置かれた。
「いえ、そんな。わざわざありがとうございます」
俺は落ち着きを取り戻すために、目の前に置かれたそれを一気に
「そういえば、妹さんはどこにいるんですか?」
勉強を教える予定の菟田野さんの妹の姿が見えなかったので、俺は気になって尋ねた。
「二階にいるはずだよ。授業の時間になるまでは、部屋から出てこないんじゃないかな?」
「そうですか……」
どうやらすぐに顔合わせというわけではなさそうだ。俺は少しだけ緊張をほどいた。
「早くうちの妹に会ってみたい?」
菟田野さんは俺の隣に座って、そんなことを聞いてきた。
「まあ、教える立場としてはどんな子なのかは知りたいですね。ちゃんと勉強させることができなかったら、辞めてもらうっていう条件を出した理由も気になりますし」
「あ、そうだよね……じゃあ、うちの妹について話しておくね」
菟田野さんは俺に身体ごと向き直った。
「名前はつむぎ。お月様の月に小麦の麦で
妹の名前は
「太陽と月から名前をつけたんですね」
俺がそう言うと、菟田野さんは驚いた表情を見せた。
「さすが、気づくのが早いね」
「うちも同じ名前の付け方なんですよ。俺には妹がいまして、名前が海に羽で
「入之波くんにも妹がいたんだ?」
「はい、だから菟田野さんが妹のために何かをしてあげたいって思って家庭教師を探していた気持ちはよくわかります。妹のことが、かわいくて仕方ないんですよね?」
「やだ、なんか恥ずかしいかも」
菟田野さんは顔を手で
「あ、そうだ。うちでは菟田野さんだとややこしいから、
「え、いいんですか?」
「うん。だから私も入之波くんのこと、これからは大地くんって呼ぶことにするね? 入之波くんの妹さんともいつか会うかもしれないし、そのときのために名前呼びは練習しとかなくちゃ」
まじでいいの? 俺が菟田野さんのこと、日葵さんって名前で呼んじゃうよ?
そのうえ俺のことも名前で呼んでくれるとか、俺は夢でも見てるのか?
「ぼーっとしちゃたけど、どうかした?」
俺が幸せすぎてトリップしていると、菟田野さん……いや、日葵さんは俺の顔を不思議そうに覗き込んできた。
「いえ、なんでもないので気にしないでください。ひ、ひ、ひ、日葵しゃん!」
やっぱり緊張して噛んでしまう俺だった。
「うん、改めてよろしくね大地くん」
ありがとう妹よ。今日ほどお前の存在を感謝したことはない。
小さいころ、お前が生まれてから親を取られたと思っていじめていた愚かなお兄ちゃんを許しておくれ。
今度、うちに海羽が来たときには、今回のバイト代で高級和菓子を買っておいてやろう。
「えっと、話が脱線しちゃったから元に戻すけど、月麦は勉強が大っ嫌いなの。中学まではそれなりの成績を残していたから頭が悪いってわけじゃないと思うんだけど……」
困ったように日葵さんは言った。
「最近は勉強なんてしても意味ないとか言うようになっちゃって、今までも何人か家庭教師を雇ったんだけど、そんな妹にまともに勉強させられた人がいなくて……」
なるほど、過去に雇った家庭教師たちは、誰一人として妹をまともに勉強させられなかったと……それを聞くと不安になってきた。
こちらが教えても話を聞いてくれなかったり、携帯電話をいじって遊んでしまうようなタイプだろうか?
そうだとすれば厄介だ。そういうタイプはいくら教えても身につかないから、勉強することに興味や目的を持ってもらうところから始めないといけない。
「だから、すごく手を焼くことになると思うけどよろしくね?」
「はい、がんばります!」
日葵さんの家で一緒にお話しできるという奇跡の境遇を絶対に手放さないためにも、精一杯できることをやろう。
「そろそろ時間だし、月麦の部屋にいこっか?」
そしてついにこのときがやってきた。俺は気を引き締めながら日葵さんの後ろについて階段を上っていった。
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