第4話 バイトのお誘い

 海羽がアパートへ来るようになってしばらくした頃、俺は期待に胸をふくらませながらアニメショップに向かっていた。


 なぜなら今日は、待ちに待っていた漫画の発売日だからだ。


 大学生になった今でも俺の趣味は変わらず、アニメや漫画、ゲームといったものが中心だった。


 リアルと違い、二次元は裏切らないとはよく言ったものである。


 目的地にたどり着いた俺は意気揚々と店の中に入っていき、流れるような動作で新刊を買い物かごに入れた。


 やはりショップで付いてくる購入特典はファンとして見逃せない。


 それに加えて俺は、漫画や同人誌は紙のものを買うということにこだわりを持っていた。


 過去に一度だけ、欲しい漫画が売り切れていたときにどうしても待ちきれなくて電子版を購入したことがあったのだが、結局、紙の方も欲しくなって買ってしまったという経験があるくらいには、好きな作品は手元に置いてコレクションがしたい派だった。


 目当てのものも手に入れたし、せっかくだから店の中を見て回ろう。


 そう思って歩き始めた俺の視界に入ってきたのは、一枚の黒い布で隔離かくりされた成人向けのコーナーだった。


 そこはネットの中以外では、今まで一度も足を踏み入れたことのない未知の領域だった。


 だが、高校を卒業した俺はこの場所に入ることが許される年齢になっているのである。


 つい魔が差して、俺はその領域を侵してしまった。


 初めてのことで緊張しながら中に入っていくと、目の前に広がったのは俺の心に秘められた欲望を開放する桃色の世界だった。


 感動を覚えながら奥の方へと足を進めると、そこで真っ先に俺の目に留まったのは、推しのイラストレーターが描いている純愛物の同人誌だった。


 この人は絵柄がとても可愛らしいだけではく、苦難を乗り越えて恋人になった二人が愛し合い、幸せに結ばれるという俺が最も好きなストーリーを詳細にえがいてくれるのだ。


 それはあまりにも尊く、ビッチに弄ばれたことですさんでしまった俺の心を優しく包み込んで癒してくれた。


 用意したティッシュで涙を拭いたことも一度や二度ではない。


 驚くべきことに、ここにはその人の過去作品がすべて並べられていた。


 初めてこの人の作品を知った当時は、すでに過去作の在庫が尽きていて買うことができず、電子版も配信されていなかったから、これらはもう二度とおがめることはないと思っていた代物だった。


 まさか再販されていたなんて、こんなの買うしかないじゃないか!


 俺は持っていなかった過去作品をすべてかごの中に突っ込み、喜びに打ち震えながらレジへ向かった。


 支払いを終え、黒いビニール袋を両手いっぱいに抱えた俺は満足感に浸っていた。


 予定していたよりも予算を大幅に超えてしまったが後悔はしていない。帰ってから読むのが今から楽しみすぎる。


 ただ、現実は厳しかった。俺は軽くなった財布の中を見て苦笑いを浮かべた。


「金がねえ……」


 財布からはお札が消え、銀行口座の中はもう数百円程度しか残っていなかった。


 仕送りは最低限しかなく、こうやって衝動買いをしてしまうと、食費と家賃などの生活費を払うだけで俺のふところ素寒貧すかんぴんである。


「バイト、探すしかないか……」


 今後も買いたいものは数えきれないほどあるし、推しのイラストレーターや作家にはお金を払いたい。


 それに、いつかはやってくるであろう恋人とのデートのときに、手元にお金がなければ男がすたる。


 払ってもらって当然だという態度をとるような女は願い下げだが、最初のデートくらい格好つけて俺がお金を払いたいなんて見栄はあったりする。


 何かいいバイトはないものかと、街角に貼ってある人員募集と書かれている求人票を眺めてみる。


 そこには様々な職種の応募がかけられていたが、その中で俺の目を引いたのは家庭教師のアルバイトだった。


「時給千三百円か……」


 なかなかいい条件である。


 それに、誰かに勉強を教えることには自信があった。


 過去に友達に『大地の教え方はわかりやすいな』なんて言われて、将来は教師になるのもいいかもしれないと考えていたこともあるから、自分にぴったりではないか。


 うん、家庭教師のアルバイトを本線に、帰ったらいくつか候補を見繕って早速バイトの面接に行こう。


「あれ、もしかして入之波しおのはくん?」


 そんなことを考えながら求人票とにらめっこしていたところで、なんと俺の天使である菟田野うたのさんが目の前に現れた。


「菟田野さん!? どうしてここに?」


「バイトの帰りだよ。私、この辺に住んでいるの」


 菟田野さんと大学以外の場所で会えるなんてただならぬ運命を感じてしまうが、この状況は非常にまずかった。


 今の俺はえっちな本を両手いっぱいに抱えながら、家庭教師の求人票を一心不乱に眺めているどう見ても危ない奴だ。


 絶対に菟田野さんにこの袋の中身だけは悟られるわけにはいかない。


「何を見ていたの? ふむふむ……もしかして、アルバイトを探してる感じ?」


「ま、まあそんなところです」


 俺のそばにやってきて優しく笑いかけてくれる姿は本当に愛らしく、女の子特有の甘い香りが鼻腔びこうをくすぐった。


「入之波くんは家庭教師のアルバイトに興味あるんだ?」


「は、はい。勉強はするのも教えるのも嫌いじゃないので」


 ばれてはいけないものを持っている緊張感と、理想の姿をした女の子が近くにいる興奮で心臓が爆発しそう、誰か助けてくれ。

 

 普段は彼女と一秒でも長く話したいと思っているのだが、このときばかりは早く会話を終わらせて、この手に持っている爆弾をさっさと自宅に持って帰って処理したい気持ちでいっぱいだった。


「だったら、もし入之波くんが嫌じゃなければ、私の家で家庭教師をしてみない?」


「はい?」


 俺は彼女の言っている意味が分からず、頓狂とんきょうな声を上げてしまった。


「あ、ごめんね。いきなりこんなこと言われても困っちゃうよね?」


「あ、いや。謝らなくてもいいんですが……どうして俺が菟田野さんの家庭教師を?」


 俺と同じ大学に通っている菟田野さんに学力的な問題があるとは思えない。


「教えるのは私じゃなくて妹だよ。来年は受験生になるのに、成績が良くなくて困ってるの。私が教えようとしても、お姉ちゃんは教えるのが下手だって言われちゃうし……」


 事情を説明しているうちに悲しくなってきたのか、菟田野さんは肩を落としてしょんぼりとしてしまった。


「入之波くんはこの前の講義のとき、私がわからなかったところを質問したら教えるのがすごくうまかったから、ぜひうちの妹にも勉強を教えてあげてほしいなって思ったの。うちの大学に合格してるし、学力も申し分ないよ」


 え、ほんとにいいの? 菟田野さんの妹に勉強を教えるってことは、俺が菟田野さんの家に行くってこと? というか、菟田野さん妹がいたんだ!?


「もちろんお金はちゃんと支払うよ。時給は二千円で時間は三時間。こっちで教材とか用意するから、入之波くんはうちに来て妹に勉強を教えてくれるだけでいいよ。どうかな?」


 破格の条件だった。菟田野さんとお近づきになれる可能性もあるし、お金までもらえるなんて……むしろこちらがお金を払ってでも教えさせてくださいと頼みたいぐらいだ。


「やります!」


 俺は嬉々として返事をした。


「えっ、いいの? いきなりの提案だったし、急いで返事をしてくれなくても大丈夫だよ?」


「もちろん大丈夫です! むしろやりたいので絶対にやらせてください!」


 菟田野さんは俺の必死な姿を見て、おかしそうにくすくすと笑った。


「あ、でも一つだけ条件があるの」


 その言葉にドキリとして思わず身構えてしまった。


 菟田野さんがとんでもない要求をしてくるようなことはないと信じたいが、過去に女に弄ばれていたトラウマが邪魔をする。


「そんなに身構えなくても平気だよ? 私からの条件は、もし妹にちゃんと勉強をさせることができなかったら、申し訳ないけど辞めてもらうよってことだけ」


 俺は拍子抜ひょうしぬけした。でも、そんな当たり前のような条件を付けるということはその妹は問題児で、授業が始まってから家の外まで逃げだしたりするのだろうか?


「とりあえず、来週の金曜日に家まで来てもらってもいいかな? そのときに詳しいことは説明するから」


「は、はい。わかりました」


 なぜ菟田野さんがそんな条件を提示したのかはわからなかったが、とにもかくにも来週は菟田野さんの家にお邪魔できることが決まった。


 これは俺の大学生活が華やかになる可能性が大きく上がったに違いない。


「それじゃあ、これから妹のことよろしくね、入之波くん」


 菟田野さんはそう言って右手を差し出してきた。


 握手だよねこれ? 俺が菟田野さんの手を握ってもいいの!? 手汗すごいからちゃんとかなきゃ!


 ズボンで手汗を拭き、俺はおそるおそる彼女の手を握った。


 小さくて柔らかい。男とはまるで違うその感触に、俺は感動してため息が漏れた。


「ところで、いっぱい荷物を抱えて大変そうだね? いったい何を買ったの?」


 そんな菟田野さんの質問に、俺は一気に現実に引き戻される。


「ななな、なんでもないんです本当に! 来週はよろしくお願いします、それではっ!」


 狼狽ろうばいしまくっている俺を不思議そうに眺めている菟田野さんを置いて、俺はその場から全力で離脱して家に帰ったのだった。


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