雨と白濁

四流色夜空

第1話

 薄暗い道を歩いている。なぜ歩いているのか、どこに向かっているのか分からない。忘れた、というより最初からなかったのかもしれない。ただぼんやりと家を出て、気分転換にその辺りをぶらつこうとしただけかもしれない。早朝なのか、黄昏時なのか、道には淡い光がもやのように降りている。近所の見慣れたはずの道が、人っ子一人、車一台なく、やけに空々しく映る。煙草に火をつけようとポケットに手を入れたそのとき、ドサッと重い音がして、ぼくは後ろを振り向いた。

 ――女が倒れている。

 あたかもどこかから落ちてきたみたいに、手足を曲げている。しかし血は流れていない。激しい損傷も見られない。いったいどこから……と頭上を見上げるが、電線が通っているほかは見当たらない。そばの家の窓には雨戸が閉められ、赤く錆びついている。

 ぼくは女に近寄ってみる。身じろぎひとつしない。死んでいるのか? たぶんそうだろう。静かだ。女は花柄のワンピースを着て、爪にはピンクのマニキュアを塗っている。重力から解放された感じでベージュのパンプスが、女の爪先から外れている。近くに落ちているポーチには、化粧品や折りたたみ傘や制汗スプレーやハンカチなどが入っている。そこから財布を取り出して、ひらく。クレジットカードと数枚の一万円札をポケットに入れる。そのほかはレシート、ポイントカード、会社の名刺など、どれも役に立たなそうなものばかりだ。取引先の名刺のなかに、白紙のカードが入っているのが目についた。それは綺麗で真っ白な長方形をしていて、ひっくり返すと、ボールペンの字で十一桁の番号が記されていた。ぼくはそのカードもポケットにしまうことにした。財布を元あった場所に戻すと、ぼくは歩くのを再開した。すくなくともポケットの金でコンビニの弁当くらいは買える。通りの向こうまで歩くと、一度だけ振り返った。女はまだ同じ場所に倒れていた。最初からそこで倒れているような感じで、その死体は道路の付属品みたいに見えた。


 煙草に火をつける。コンビニの弁当は味がしなかった。だが、元々そういう味付けなのかもしれない。外は暗くなっている。と、いうことは夕方だったのか。ぼんやりとそう思っているうちに、土砂降りがベランダを叩く音が聞こえてき、雨雲で暗くなっているのか、夜だから暗いのか判断がつかなくなった。電話に着信があり、最近行っていない職場からだった。相変わらず無視を決め込む。低気圧のせいか、頭が割れるように痛んだ。痛みは次第に激しく、荒々しいほどになった。だれかがぼくの頭の中心を見えないハンマーで打ち鳴らしているみたいだった。殴られるたびに痛み、ゴオンと銅鑼のような音が鳴った。電話に着信があり、最近払ってない年金の催促だった。バックスグループからというだけで、内容が分かる。「お近くに年金手帳はありますでしょうか?」スマホの電源を切る。ほとんど低気圧など関係なく、ぼくの頭は最初から痛みを伴って存在しているかのように、ぼくの頭は痛んだ。しばらく横になっていたが、持続する痛みに耐えているのが苦しく、煩わしくなり、睡眠薬とウイスキーを飲んで眠ることにした。


 白いカードの裏に書かれた十一桁の数字に電話をかけたのは、数日が経ってからのことだった。しっかりした声の男が出て、「ご希望の年齢と性別は?」と訊いてきた。希望など特にないが、ぼくは「27才の女の子」と答えた。

 女の子は、1時間後にやってきた。

「やあ」と手を挙げてきたので、ぼくも座ったまま「やあ」と手を挙げた。女はすぐにシャワーを浴びて、バスタオルでからだを拭くと、ぼくのいるベッドへ潜り込んできた。女は濡れていて、あたたかかった。女はぼくのからだをさわった。親密とも友愛ともいえない手つきだった。ただコツにしたがって、からだをふれ合わせている、という感じがした。

 二回目に電話をするとき、ぼくは「26才の女の子」を頼んだ。そこがどういう機関なのか分からなかった。向こう側の男はぼくに希望を訊ね、返答を受け取ると「かしこまりました」と言って電話を切った。それから1時間後に女の子が来た。26才の女の子は、シワひとつないブラウスとスカート姿で玄関先に現れた。金色の髪を毛先で巻いていて、まだ大学生くらいに見えた。女の子は、部屋にあがると興味のあるそぶりで本棚にある本を物色したりした。いくつか話題があり、それなりの会話をした。例えば、東京オリンピックのボランティアについてとか、Ⅴ6が解散することなどを話した。女の子はベッドに潜り込んできても、しばらく本棚にあった永山則夫の『無知の涙 増補新版』を読んでいたが、やがて飽きたのか、ぼくのからだをさわった。

 三回目の電話でぼくは「25才の女の子」を選んだ。女の子は1時間後にやってきた。花柄のワンピースを着て、ベージュのパンプスを履いていた。どこかで見たような気もしたが、どこで見たのかは思い出せなかった。25才の女の子は、それまでの女の子と同様にベッドに潜り込んできて、ぼくのからだをさわった。親密さも友愛もない、ただコツにしたがうだけの手つき。それまでと違ったのは、ぼくは彼女と交わっているとき、なにか耐えがたいものを感じたことだった。それは胸の奥の深いところで、小さな傷のように疼いた。なんだろう、とぼくは思った。そこに傷のようなものがあって、ぼくに耐えがたさを招いているのは分かった。居心地が悪かった。自分がここにいてはいけないような気がした。だが、その理由はなんだろう? とぼくは思った。悲鳴のような声が聞こえた。聞いたことのあるような声だった。もしかしたら自分の声かもしれない、と思った。だけど結局、その悲鳴に聞こえた声は、ぼくの傷とは関係なく、女が絶頂を迎えたからに過ぎなかった。

 しばらくして女は帰っていった。女のつける香水や、女の放つ甘い体臭が部屋のなかで、塵のように漂っていた。ぼくはゆっくりとシャワーを浴びて、からだについた甘い匂いを落としていった。それから冷蔵庫から金麦を取り出して、ユーチューブを見ながら飲んだ。素人が笑える話を精一杯披露し、お笑い芸人が笑えない話をでっちあげていた。アメトーク芸人を見ていると、ふと以前だれかと一緒にこういった動画を見ていたことがあっただろうか、という感覚に捉われた。だれかがぼくのとなりにいて、笑ったり、相槌を打ったり、なにか動画に対して、言い合ったりしていたことがあっただろうか? そんなときぼくは笑っていただろうか?

「お前のせいだ」

 声が聞こえた。振り返ったが、だれもいない。映画のポスターと、美術館で買ったポスターが貼ってあるだけの白い壁。ぼくは居心地が悪くなって、浴室に行って煙草を吸った。そして戻ると、彼女がいた。花柄のワンピースを着た彼女は壁にもたれて、うつろな視線を漂わせていた。そこに光はなく、ただ陰影の度合があるだけだった。かすかに口をゆがめて、彼女は掠れるような声を出した。

 ――ねえ、どうしてあのとき無視したの?

 ――どうして、電話に出なかったの?

 ぼくは立ち止まって彼女を見下ろしている。彼女はぼくなどいないかのように平板な声で、パソコンの方に向かって感情のない声で問いを発している。

 ――どうして、あんな女に引っかかったのよ。わたし、死んじゃうかもって言ったよね? あなたがいないんなら、こんな世界に意味なんてないって。聞こえてたよね? 知ってたよね? 知ってて無視したんだよね? 知ってて否定したんだよね? わたしなんて最初から要らなかったんだ。どうでもよかったんでしょ? わたし、待ってたのよ。ずっと、ずっと、長いあいだ、待ってたのよ。でも、いつまで経っても、あなた来なかったわよね。あなた、あの女の部屋にいたんだもの。知ってる? あのとき、わたし、あの女のベランダに立って、ふたりのこと見てたのよ。ふたりの愛が本物になるとこ、見てた。わたしへの愛が偽物になるとこ、見てた。自分の存在が否定されるとこ、わたしがわたしとして拒絶されるとこ、わたしが真っ黒な鉛筆でぐしゃぐしゃに塗りつぶされるところ、わたし、見てた。ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ…………。


 まばたきをした。壁があった。白い壁。映画のポスターと、美術館で買ったポスターが貼ってある。ぼくは首をふる。首をふっても、なにかを思い出したり、なにかを忘れられるわけではないことを知りながら。あの女は26才にはならない。永遠に25才のままだ。ぼくと同い年になる前に、この世から消えたから。

 ぼくは軽いめまいを感じ、水を汲もうとキッチンの方へ向かおうとした。

 ――そのとき。

 ベランダの向こうからなにかが落ちる重い音が聞こえてきた。

(了)

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雨と白濁 四流色夜空 @yorui_yozora

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