第54話
「はー。もう止めや止めや。一生懸命やって来たけど、孫にはなじられ、部下にはけなされ。いたいけな年寄りは心も体ボロボロや。なんもええことあらへん」
「おばあさま!?」
声を詰まらせ、着物の袖を目元に宛てる雅世のほうへ、葛葉は一歩踏み出した。すると、
「なーんてな?」
などと、雅世が着物の袖の陰からぺろりと舌を出すのに、葛葉は口端をひくつかせた。
「……蔵王。この人を
祖母を能面で見つめながらそんなことを口走ると、蔵王も温い表情で首を横に振った。
「いやあ、それはお勧めしないなあ。妖怪ばあさんだから、きっと地獄に送ってもしつこくはい出てくるよ?」
こそこそとやり取りしていると、雅世が身を乗り出して机を叩いた。
「こら! あんたら、もっと社長に対して敬意っちゅうもんはないんか?」
「建前でよろしければ、いくらでも」
「いらんわ。そんなもん!」
キラキラとした蔵王の嘘くさい笑顔に、雅世はくわっと目を見開く。
「もう、我儘なんですから」と
「……おばあさまってこんなキャラだったの?」
「うん。ほんとはね」
蔵王はくすりと笑って、片目を
ああ、まだまだ知らないことがたくさんありそうだ。
厳めしい老舗の女社長が、実はとんだ
「そこ。聞こえてるで」
むすっとした声が飛んできて、葛葉は慌てて口に手を当てた。
「はあ。やれやれ。年は取りたないもんやな。年を食えば食うほど、立場も強なってしもて、弱音一つもなかなか吐くことができんようになる。それが経営者や」
「おばあさま……」
数十年にわたり、女手一つで老舗の経営を支えてきた女社長の一言は重い。
その重圧を背負うことができるかと、問われているような気すらした。
けれども、雅世はそんな葛葉の気持ちを
「まあ、あんたなりにやってみい」
「経営は大丈夫なの?」
「それは変わらん。けど、長年の蓄えはまだある。今すぐに潰れるほどやない。うまくやりくりすれば、三年くらい何とかなるやろ」
ちらりと雅世が蔵王を見ると、蔵王は悠然と笑んだ。
「そうですね。それぐらいなら持たせられると思いますよ」
「そんなことより、あんたみたいなひよっこが、使いもんになるかどうかの方が心配やわ」
相変わらずの憎まれ口に、葛葉もまた、ふんっと鼻で笑ってみせた。
「あら。そうかしら? パソコンやスマホもまともに使えないご老体よりは、いい結果を残せると思うけど?」
一瞬雅世は言葉に詰まったように顔をひきつらせた。しかし、こほんと咳払いをして胸を張る。
「小娘が言うやないの。せやけど、そんなもんちょっと触ったらすぐ追いつくわ。そんなことより、あんた、えらい肌が荒れてるやないの。健康管理もできひんような孫に、社長の激務が務まるか、今から心配でしゃあないわ」
「し、失礼ね! そりゃ最近寝不足だったけど、それなりにケアしてるわよ。おばあさまこそ、社長の座を譲る前に、
ぎりぎりと対峙し始めた二人に、蔵王が苦笑しながら「まあまあ」と声をかけてきた。
そんな蔵王を、雅世はきっと睨み上げる。
「だいたい、一番のくせもんはあんたや。蔵王」
「どういうことですか?」
蔵王は、おや? とばかりに、片眉を上げる。
その白々しい様子に、雅世はむっつりと口をへの字に曲げた。
「ふん。わかっとるくせに何を今更。いつからこの計画を立ててたんや」
雅世の様子に苦笑しながらも、蔵王は目を細めて遠くを見た。
「二十年前ですかね」
「二十、年?」
呆気にとられた雅世と葛葉を見て、蔵王は頬を緩ませた。
「あなたが彼女を跡取りから外したあの日、僕の心は決まった。あの日、僕は彼女に誓ったんです」
それは遠い、遠い日の約束。
『いつか、君が望むなら、僕は君を迎えに行く。僕が君の夢を潰させない。だから、待ってて』
あの言葉を、蔵王も覚えていた。
きゅうっと胸が苦しくなって、蔵王を見上げる。すると、蔵王はふんわりと微笑んでくれた。
「でも、彼女が別の生き方を心から望むなら、それはそれでよかったんです。僕は違う形で、僕と母を救ってくれた虎月堂に恩返しするつもりでした。ただ――」
蔵王は少し口をつぐむと、じっと自らの手を見つめた。
「彼女と運命が交錯する日がまた来たなら、力がないことを理由に、あの時と同じ後悔を二度としたくなかった。それだけですよ」
雅世は眉間に皺を寄せ、口をへの字に曲げた。
面白くなさそうにふんと鼻から息を噴き出すと、大きなため息をついた。
「そうやって、あんたは自分の立てた誓い通り、力を得て、うちの優秀な部下になった。おかげで、うちは色んなプランの中に、あんたを組み込まざるを得んようになった。経済状態さえ悪化してへんかったら、あんたを葛葉の婿にすることも含めてな」
「おばあさま、そんなこと考えてたの!?」
目を見開いて雅世を見ると、雅世は苦々しい表情で見返してきた。
「当たり前や。忠実で優秀な人材は、確保するんが大変なんや。経営が
「随分な評価をいただき光栄です」
あははと軽く笑う蔵王を、雅世はちろりと見上げた。
「それぐらいには、あんたを買ってるつもりや。せやけど、あんたが社長になろうとは思わんかったんか?」
すると、蔵王は困ったような表情を浮かべた。
「虎月堂を
蔵王はまっすぐに雅世を見つめた。
「僕はハッピーエンドが好きなんです。誰かが泣くことで得られる幸せは、本当の幸せじゃない。そのためには、どれだけ回り道だろうとも、どんな努力も惜しまないつもりですよ」
そう告げた蔵王の顔は、どこか晴れやかで、とても穏やかだった。
「はあ。もう、どこからどこまでがあんたの計画なんかは知らんけど、えらいもんを育ててしもたみたいやわ」
雅世は額を押さえた。けれども、その口元は笑っていた。
「まあ、そんな僕のことはさておき、
蔵王はにこりと微笑んで、二人に向き直った。
そして、その蔵王から告げられた言葉に、葛葉と雅世は、二人して目を大きく見開いた。
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