第55話

 京都市北区にあるビルの五階で、菓匠・龍木の現社長である辰木たつき権蔵ごんぞうは、煙草をふかしながら窓の外を見ていた。

 するとそこへ、ノックの音と共に社長室の扉が開かれた。


「失礼します」


 社員の一人が定例報告に来たのだろう。気だるげに窓の外を眺めたまま「何だ」と返事だけ投げかける。


「虎月堂の方が契約の件でお見えです」

「やっとか」


 目の上のたんこぶだった虎月堂がもうすぐ手中に入る。

 権蔵は口元を緩めた。

 しかし、社員はどこか心配そうな声で言った。


「虎月堂が、合併を取りやめると言ってきたらどうされますか?」


 それに権蔵はふんと鼻を鳴らした。

 ふうっと煙草の煙をいっきに吐き出す。

 その煙で霞んだ窓の外に広がる京都の街並みを一瞥いちべつした。


「別に構わん。このままいけば、数年内に虎月堂は潰れる。そうなればうちの一人勝ちだ。あの強情なばあさんがどんな顔をするのか見物だな」


 権蔵は口角を引き上げ、にやりと笑った。


「引き続き、虎月堂の仕入れ先を押さえていけ。物がなければ商品は作れん。それ以上に出せば、虎月堂は自然に赤字になるか、質を落とさざるを得なくなる。あの婆さんはそれを許さんだろうよ」

「事態が長期化するほど経営が苦しくなる、というわけですね。ただ、我が社もじり貧になりますが」

「吸収合併してしまえば、こっちのものだ。その材料を使って、その分高くで売ればいい」

「さすが社長。しかし、老舗の名は伊達ではないようで、長年の信用や関係もあり、売り渋る会社も結構ありますが」


 おずおずとした声に、権蔵は苛立たし気に食んでいた煙草の火をもみ消した。


「そんなところには社長……いや、下にも金を詰め。何が信用だ。所詮、人間は金で動く」

「わかりました。しかし、このままでは費用がかさみますが」


 権蔵はため息をついた。

 これだから小物は困る。大事だいじの前の小事しょうじという言葉も知らないらしい。


「そんなもの、京都の老舗の看板を得るための必要経費だと思えば安いもんだろう。どんな手であれ、市場を牛耳れた者勝ちだ」

「なるほど。つまり、虎月堂の取引先を横取りすることで、利益が上がらないように画策していたというわけですね」


 それまでの気弱そうな声ではなく、軽やかな声が飛び込んできた。

 突然変化した声に違和感を覚えて、権蔵は振り返った。

 目の前には驚いたように背後を振り返る部下。そして、その奥の開きっぱなしの戸口に立っていたのは、ダークグレーのスーツをスマートに着こなした長身の男だった。

 どう見ても龍木の社員ではない。不審な人物の登場に、権蔵は目を見張った。


「だ、誰だお前は!?」

「ああ、すみません。こちらの扉が開いておりましたので、お邪魔させていただきました。先ほどこちらの方からご紹介のありました、虎月堂の使いの者で、郁島蔵王と申します」


 蔵王はにこやかに微笑んで、「よろしくお願いします」と手を差し出してきた。

 ぎょろりと部下を睨みつけると、部下は必死の形相で首を横に振った。

 扉が開いていたのか開けたのか、真相はわからない。それでも、秘密を聞いておきながら、いけしゃあしゃあと手を差し出してくる青年の意図が読めず、権蔵は顔をひきつらせた。


「虎月堂の者が何の用だ」

「御用があるのはそちらでしょう。本日が契約のお返事の期日だったかと」

「それはそうだが、返事は」

「そうですね。これはそちらからいただいていた契約書なのですが……」


 蔵王は鞄から二通の書類を取り出し、一気に二つに引き裂いた。


「これがお返事ということで、よろしいでしょうか?」


 話を聞かれていた以上、当然そうなることは予想されていた。

 有無を言わせぬ笑みに、権蔵は頷くしかなかった。


「そちらがそうおっしゃるのであれば、残念だが、破談とさせていただこう」

「そうですか。ありがとうございます。では、代わりに、こちらの約定書に一筆いただけるとありがたいのですが」


 蔵王が取り出したのは一通の書類だ。

 権蔵はそれを受け取り、目を通した。


『今後、菓匠・龍木は虎月堂に一切関与しない。また、これまで虎月堂の被った損失について一千万円の賠償金を支払う』


 読んだ瞬間、権蔵はぶるぶると手を震わせて、書類を机にたたきつけた。


「なんだこれは! ふざけるな。さっさと出ていけ! 誰か! 誰かおらんのか! さっさとこいつをつまみ出せ!」


 わめく権蔵に対して、蔵王はやれやれと肩をすくめた。


「あまり、人を呼ばれない方が良いと思いますよ? これからお話する内容を、他の人が聞いてもいいということなら、問題ありませんが」

「どういうことだ?」

「たとえば、龍木の和菓子は国産の抹茶粉を使用しているとうたいながら、実は海外の模倣製品を使用しているとか。うまく立ち回らなくなった工場や店舗はあっさり切り捨てて、従業員をクビにしながらも給料が未払いだとか、はたまた龍木社長が脱税してるんじゃないかっていうリークもあったりなかったり……」


 指折り嘯く蔵王に、権蔵はひきつりかけた口元をすんでのところで誤魔化すと、鼻で笑った。


「馬鹿な。何を言い出すかと思えば。何か証拠でもあるのか? 名誉棄損めいよきそんで訴えるぞ!」

「そんなことをなさって墓穴を掘らなければよいのですが。従業員は大切になさった方がいいと思いますよ。下手したら内部告発なんて言う落とし穴があるかもしれませんから」


 さらりと事務的に告げられ、権蔵は「なっ!?」と絶句し、傍に控える部下を睨みつけた。

 部下はひっと悲鳴を上げて、身体を縮こまらせている。

 権蔵はぎりぎりと歯ぎしりをしながら、蔵王をじろりと睨み付けた。


「貴様。何が望みだ。金か?」

「いいえ? 先程のお金は冗談です。あなたと違って、不正に得たお金など使えたものではありませんから。ですが――」


 からからと笑った蔵王は、一瞬の間を置いて、表情を引き締めた。


「僕はただ警告しにきたんです。老舗の看板と信用は貴方のはした金で買えるようなものではありません。受け継がれた伝統と歴史の重みを理解して、いい加減、他社に対して行っている不当な圧力をやめ、正しく商いをなさるようにと」

「経営が何かも分かっていない若造が、生意気なことを」


 喉の奥から唸る権蔵に、蔵王はおやおやと顔をしかめた。


「地獄を見たいなら止めません。ただ、京都で商いをするという意味を、あなたこそまだお分かりではないようですね」


 ほら、と笑顔で蔵王が促す先には、青ざめた顔で電話の子機を手に駆け込んできた部下の姿があった。


「社長、大変です! 先日、取引をご快諾いただいた真砂屋まさごやさんから、取引をやめさせてもらいたいとのご連絡です!」


 権蔵は聞くや否や、部下から電話をひったくった。


「真砂屋さん。お世話になっております。取引をやめると部下より伺ったのですが」


 腰を低くし、ぺこぺこと頭を下げながら、慌てた口調で言葉を紡ぐ。

 けれども、電話の向こうの相手は非情だった。


『ああ、辰木さん。すんませんなあ。こないだご連絡いただいた、倍の額でうちの商品買うてくれはるいう件ですけど、申し訳ないけど、お断りさしてもらいますわ』

「どういうことですか? あの時は是非にとおっしゃってたではないですか」

『いやあ、さいでん、虎月堂のお孫さんがお見えにならはりましてなあ。なんでも、お孫さんが跡目を継がはる言うお話を伺ったんですわ』

「孫が跡を継ぐ!?」


 まさに瓢箪ひょうたんからこま。そんな話がどこから出て来たのかと、思わず、目の前に立つ蔵王を見た。

 けれども、蔵王はどこ吹く風といったように、顔色一つ変えずに立っている。


『辰木さんのお話では、虎月堂は今代限りで店閉めはる言うお話でしたから、先の卸先おろしさきを考えんとと思てましたし、それが倍額いうなら、うちも商売ですさかい、ぜひにとお返事さしてもろてたんですけどね。せやけど、昔から親しいさせてもろてる葛葉ちゃんが店継がはるなら話は別ですわ。長いお付き合いの虎月堂さんの信用は裏切れません』


 ほな、と言って電話を切られたのちも、今聞いた事実が信じられず、権蔵の手から電話が滑り落ちる。

 けれども、再度電話が鳴る。


「社長。森商店からも取引停止のご連絡が!」

「佐伯堂からもです!」


 次から次へと飛び込んでくる取引停止の報に、権蔵は愕然がくぜんと目を見開いた。


「なぜだ。どういうことなんだ! 金ならいくらでも出すと言っているのに、何故!」


 頭を掻きむしり、権蔵は力のままに机に手をたたきつけた。


「虎月堂の長い歴史の中で、連綿れんめんと受け継がれてきた信用です。色んな店が力や知恵を出し、支え合いながら、難局を乗り越えてきたんです。誰かを潰そうなんて思っていては、商売は成り立ちません」

「そう言いながら、どうせ新しく入ってきたよそ者は追い出しているんだろう」


 権蔵を見ることもなく淡々と語る蔵王を、苦々しい思いで睨みつけた。


温故知新おんこちしん。古いものを大切にしながらも、新しいものを取り入れていく。それが京都です。よそから来たと言って排除されることはありません。そこから一緒に大きくなればいい。ですが――」


 言葉を切り、ゆっくりと振り向いた蔵王を見て、権蔵の背筋が凍った。


「うちの社長も、次期社長も、人同士のつながりを大事にできない方に覆されるような、浅いお付き合いをしてきていないんですよ」


 ぴしゃりと言い放ち、冷ややかで突きさすような視線で蔵王が権蔵を見下ろしてくる。

 ぶるると胃の腑が冷えた。けれども、それに負けじと権蔵は叫んだ。


「ば、ばかばかしい。何が人のつながりだ!」

「そのつながりに、負けたのはどなただったでしょうか」

自惚うぬぼれるな若造が。思い通りになると思うなよ」


 唸る権蔵を、蔵王は憐れみを含んだ目で見てきた。

 その様が更に権蔵を苛立たせた。

 龍木が取引停止になったことで、勝ったような気になっているのかもしれない。


(青二才が。だが、覚えておけ。最後に笑うのは金と権力を持つ者だ)


 取引がなくなったところで、使うはずだった金が浮いただけだ。

 さらに、自分にはその権力という後ろ盾もある。

 そうとも知らず、蔵王はこれですべてが終わったとさぞかし安堵していることだろう。


(これで終わると思うなよ。この俺に恥をかかせたんだ。叩き潰してやる)


 権蔵は内心で陰惨な笑みを浮かべた。


「とりあえず、私の用事は終わりましたので、これで失礼させていただきます」


 ため息交じりに蔵王が抱えた書類を鞄にしまい込もうとする。

 すると、その束から一枚の紙――否、写真がはらりと舞い落ちた。


「おっと。しまった」


 蔵王が拾おうと手を差し伸ばす床に落ちたそれを、権蔵は反射的に見やる。

 そこには――

 ホテルの前で女性の腰に手を回しながら、口づけを交わす権蔵の姿があった。

 一瞬にして顔面が蒼白になった権蔵を尻目に、蔵王は殊更ゆっくりと写真を拾い上げ、クリアファイルの中にしまい込んだ。


「お、おま、お前……」


 震える手で、蔵王を――正確には蔵王の持つクリアファイルの中の写真を指さした。


「おや? どうかなさいましたか?」

「な、なぜお前がそれを」

「なんのことでしょう。これは、とある議員さんの奥様のプライベート写真なのですが、お知り合いでしたか」


 蔵王はにっこりと微笑む。

 身に覚えがありすぎるそれに、権蔵の背筋が震えあがる。

 議員は権蔵の後ろ立てともいえる、政財界の重要なパイプなのだ。議員に多額の寄付をすると同時に、選挙の後援をすることと引き換えに有事には資金を工面してもらったことすらある。今回のことについても、無関係ではない。

 議員夫人とは、ある会合で知り合い、議員とのつなぎになってもらった。それがたまたま、いい感じになり、そういう仲になっただけだ。


(相手から言い寄られただけで、そう。自分は悪くない。悪くないはずだ)


 念仏のように心の中で唱え、権蔵はそっぽを向いた。


「し、知らんぞ。そんなものは!」

「あはは。そうですよね。少し似ていらっしゃるかと思いましたが、人違いですよね。奥様の不貞ふていを黙っているのも心苦しいですから、直接ご主人にお渡ししようかと思っていたんですよ」


 今度こそ権蔵は声にならない悲鳴を上げて、蔵王に縋りついた。


「た、頼む。やめてくれ! やめてくれええ!」


 権蔵はずるずると這いつくばるように、蔵王に土下座した。

 そんな権蔵の耳元に、蔵王は口を寄せて囁いた。


「僕は警告しましたからね? 後はあなた次第です。それでは」


 口をあんぐりと開けたまま呆然としている権蔵を見下ろしながら、蔵王はゆったりとした笑みを浮かべた。

 そして、その場に崩れ落ちる権蔵を背に、そのまま颯爽と去っていった。

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