第53話

「何を、急に……」

「決して急じゃないでしょう? 私は小さい頃は、跡継ぎとして育てられていたんだし。それに、おばあさまだって仕方のない状況だったとはいえ、女手ひとつで虎月堂を大きくしてきたじゃない。私にだってやれないことはないはずよ」

「せやけど、跡継ぎは正樹で……」

「正樹には正樹の夢がある。そのことに、おばあさまももう気付いてるんでしょう?」


 図星だったのだろう。雅世はますます、大きく目を見開いた。


「私は正樹に、その夢を追わせてやりたい。その代わり、虎月堂は私が絶対に守る」


 きっぱりと言い切ると、雅世は少し黙し、やがて静かに言った。


「今の仕事はどうするつもりなんや。今の仕事がやりとうて、東京まで行ったんちゃうんか」

「そうよ」


 葛葉は頷くと、ふっと笑みを浮かべた。


「ねえ、おばあさま。私が虎月の家を飛び出して東京へ出て行ったときに最後に伝えた言葉を覚えてる?」


 伺うように、雅世の顔を覗き見る。すると、雅世は渋面じゅうめんを作りながらも、口を開いた。


「うちの商品のええとこをもっと色んな人に知ってもらえたら、経営難なんかならへんはずや。そのために自分は編集者になるんやゆうんが、あの時のあんたの言い訳やったな」


 憎まれ口ながら、まさにその通りの内容を答えた雅世に、葛葉は目を見張った。


「覚えてたのね」


 むっつりと答えない雅世に、葛葉はくすりと笑う。


「私は忘れてたけどね」


 けろりとした顔で言うと、雅世は「は?」と、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

 それに葛葉は伏目がちになって、肩をすくめた。


「だって、どれだけ言っても伝わらなくて否定され続ける言葉を、引きずってもつらいだけだったから。あの時、何もかも忘れて、ただ目的のためだけに走ることに決めたの」


 虎月堂の思い出も、蔵王のことも、雅世のことも、その時にすべて心の奥に封印した。

 考えれば、自分の足で走れなくなる。そんな自分にだけはなりたくなかった。


「虎月堂のことは、ずっととても大事だった。それでも、知らない誰かとの結婚は受け入れられなかった。私には、どんなに離れても忘れられないほどに、大好きな人がいたから。例えその想いはかなわなくても、自分にも相手にも嘘をつくことなんて出来なかった」


 ちらりと蔵王を見る。すると、蔵王はこちらを見守りながら、小さく頷きを返してくれた。

 それに葛葉は笑むと、胸の前で両手を組み合わせた。


「だから、もがき続けて、迷う中で巡り合ったのが雑誌だった。雑誌を見た瞬間、『自分ならどうやって虎月堂のお店やお菓子を紹介するだろう』って考えた。その思いが、私を編集者にさせたのよ」


 それが、モノクロームな中で、色鮮やかに見えた世界の奥に潜んだ原点だった。

 けれど、葛葉は会社に自分の出身は伏せた。あえて避けて通り、京都特集の時ですら、葛葉自身は虎月堂を紹介することをしなかった。それもこれも、少しでも触れてしまえば、満たされなかった様々な想いが蘇ってしまうことが怖かったからだと、今となっては思う。


「結婚を断ったのは、確かに私の我儘だった。でも、おばあさまには、決まった形にとらわれず、私の可能性を信じて応援してほしかった」


 そうすれば、今ほどこじれることもなく、十年の溝も存在しなかっただろう。

 雅世は眼もとに深い皺を刻み、重いため息をついた。


「あの時は、もう縁談も決まってしもてた。世間体もある。あんたの我儘やと思て、うちも頑なになりすぎたんかもしれん」


 沈鬱ちんうつな表情を浮かべる雅世に、葛葉はゆるゆると首を横に振った。


「過ぎたことよ。でも、私だって何の考えもなくこの道を歩んできたわけじゃない。いかにその店や物の魅力をうまく伝えるかを学んできたつもりよ。この知識と経験は、今後、虎月堂の広報としても活用できるはず」


 自信をもって胸を張り、雅世を見た。

 雅世はそんな葛葉に目を合わせ、小さく笑みをこぼした。


「そうか……。虎月堂のことを思てるんは、うちだけと違たんやな」


 雅世は大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。そして、


「すまんかった」


 吐息のように漏らされた一言で、二人の間にあった永久凍土に、一輪の花が咲いた。

 心の奥に潜んでいたわだかまりが、徐々に溶けていく。

 生まれて初めて、雅世の目をまともに見ることができた気がした。


「私は一編集者として、まだやるべきことが残ってる。だから、今すぐにとは言えない。でも、あと五年……いえ、三年でもいいから、待ってほしい。それまでに私は、『大人のくらし手帖』の編集者としての仕事を完遂かんすいする。同時に、跡継ぎとしての修業も精一杯頑張るつもりよ」


 真剣な目で雅世と向き合う。すると、雅世も今度は経営者の目となって、葛葉を見上げてきた。


「その三年だか五年だかの間に、虎月堂が経営破綻したらどうするんや?」

「もちろん、何もせずに待っていてもらうつもりは毛頭ないわ」


 葛葉は肩から下げていた鞄を降ろすと、中から書類の束を取り出した。

 それを眼前に突き付けられた雅世は、訝し気な顔をした。


「これは?」

「私なりに考えた、今後の虎月堂の経営に関する企画書よ」


 雅世はゆっくりと手を伸ばし、その書類を受け取った。

 そして懐から老眼鏡を取り出すと、書面に目を通す。


「……時代にあわせた新商品の開発。手軽に購入できる金額設定、斬新なパッケージを取り入れた若者向けの商品。および、贈答用またはフォーマルな場でのニーズに合わせた高級志向の商品の開発……」

「伝統的な味を大切にするのももちろん大切だけど、それを守りながらも、もっと広範囲の客層とニーズに合わせた商品を打ち出していくべきだと思って」

「ウェブサイトの強化。オンライン販売の導入。SNSを利用した広報活動……」

「今の時代は、やっぱりオンラインをもっと活用すべきよ。虎月堂って、長年勤めてる人が多いでしょ? だから、もっとネットに強い若い社員も取り入れていくべきだと思う」

「……なるほど」


 ざっと目を通したのか、雅世は書類を降ろして顔を上げた。


「この企画書、蔵王も手伝ったやろ?」

「え? そ、それはまあ、ちょっとくらいは……」


 ちろりと含みのある視線を向けられ、葛葉はぎくりとわずかに視線をそらす。

 そんな葛葉の肩に、隣に立つ蔵王がそっと手を置いた。


「確かに僕も手伝いました。ですが、それは、虎月堂に所属している者の意見をちゃんと取り入れて考えたいという、彼女の意向があって協力したものです」

「蔵王……」


 心強い助け船が嬉しくて、蔵王を見る。すると、蔵王もまた葛葉の方を見て、二人の視線が絡まり合った。

 その様子を伺っていた雅世が、はあ、とため息をついた。


「……葛葉には蔵王がいる。それもまた、あんたの強みなんかもしれんな」

「え?」


 雅世は目を伏せ、しばらくの間黙り込んでいた。

 けれどやがて、天を仰ぐように見上げた。

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