第9章 実家の危機
第41話
「来て下さって嬉しいですよ。虎月さん」
にこやかな笑みを浮かべながら、テーブルを挟んで座るスーツ姿のその男性は言った。
「まさか本当に、伝統ある虎月堂さんと手を組むことができるとは、夢にも思っていませんでしたから。我々のような歴史の浅い企業など、歯牙にもかけていただけていないかとばかり」
「ふん。伝統があろうがなかろうが、生き残れへんかったらどうしようもないわ」
吐き捨てるようにそう言ったのは、鋼色の訪問着に身を包んだ老年女性――虎月雅世だ。
「うちには社員を守るゆう責任があるからな」
「ご立派な決断だと思います。跡継ぎもまだまだお若いとのことですしね……」
その言葉に、雅世の表情が僅かに曇る。
「肝心の跡継ぎはなんや覇気がないし、孫娘は結婚を嫌がるし、もう打つ手あらへんわ」
「その孫娘さんと、うちの息子が結婚でもしてくれたら、ちょうど良かったんですがねえ」
「あほなこと言わんとき。あのじゃじゃ馬娘は、並大抵の男には飼いならせへん」
「それは残念です」
男性は大仰に声を出して笑いながら、すっと書類を差し出した。
「こちらが契約書です。ここにサインしていただければ、契約は完了です」
「ふん。なんや、小さい字ばかりで、よう読めへんわ。持ち帰らせてもうて、じっくり読ませてもらうわ」
「是非。こちらも、決して急かすつもりはありませんし。まあ、虎月堂さんにとって悪い内容ではないと思いますよ。契約はあくまで『イーブン』。もちろん、互いの屋号も残すことが条件です」
「ほな、そうさせてもらうわ」
雅世は書類を手提げかばんに仕舞うと、ゆっくりと立ち上がった。
「大切なご決断ですからね。ごゆっくり準備なさってください」
親し気にそう言う男性の眼鏡の奥がわずかに光ったことに、雅世が気付くことはなかった。
十二月も下旬に入り、厚手のコートが手放せなくなりつつある。
けれど、紫陽社内の『大人のくらし手帖』編集部は、そんな寒さも吹き飛ぶほどの熱気に溢れていた。
月末発売の二月号の最終チェックと、その次の三月号に向けての作業とが重なるこの時期は、年末年始の休暇との兼ね合いで、誰しもがいつも以上に大忙しだ。
葛葉もまた、そんな慌ただしさの真っただ中にいた。
毎日毎日遅くまで仕事をして、帰宅したら待っているのは冷え切った自宅。お取り寄せグルメを受け取る時間もないため、コンビニやスーパーで買って来たお弁当を食べ、湯船でゆっくりあたたまる余裕もないまま就寝するのが常だった。
しかも、世間はすでにクリスマスムード満点だ。日に日に近づいてくる「ぼっちクリスマス」に、憂鬱な気持ちになることも多々あった。
でも、今年は違う。
会議室のデスクを挟む相手に、ちらりと目を遣る。
タブレットを片手にプレゼンテーションしているのは、蔵王だ。
蔵王もまた試運転を開始したウェブページの最終調整に入ったこともあり、今日は出社している。虎月堂の仕事も忙しそうだが、京都の家には帰らず、毎日東京に戻ってきている。
おかげでこのところ毎日、どちらかの家で夕飯を共にしている。手際のよい蔵王のおかげで、温かい夕飯を食べられている今の状況には感謝しかない。
(それに、今年はぼっちクリスマスじゃないのよね)
そうだ。今年は人生で初めて、「彼氏がいるクリスマス」なのだ。
雑誌の中で幾度もお洒落なクリスマスディナーを取り上げてきただけに、知識だけは豊富にある。
それらをついに活かす時がきたのだと思うと、忙しい中だというのに何だか心躍ってしまう自分がいた。
「――というわけで、新しい写真を挿入する場合はここのフォルダに画像ファイルを……って、虎月さん。少しお疲れですか? いったん休憩挟みましょうか」
「えっ!?」
蔵王から急に話題を振られて、葛葉はハッと我に返った。
「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事してて」
「どうせ、クリスマスの予定はどうしようかなーとか考えてたんじゃないの?」
隣に座っていた香織からじとりとした目を向けられて、葛葉はぎくりと肩を揺らした。
「べ、別にそんなんじゃないわよ」
「いいっすよねえ……クリスマスに予定がある人は」
今度は斜め向かいの席――蔵王の隣に座っていた憲太が大きなため息をついてきた。
この二人には何だかんだで蔵王との関係はばれてしまっているようなものなので、葛葉としても何とも複雑な心境になる。
「俺と森井先輩なんて、今年も寂しいクリスマス確定っすよ……」
「ちょっと、小西。勝手に一緒にしないでよ。私はまだまだこれから、挽回を狙って婚活頑張ってるんだから」
「まあ、せいぜい頑張ってください。もし結局恋人ができなかったら、俺が一緒に飲みにでも付き合ってあげるっすよ」
「はあ? 笑えない冗談言わないでよね」
悪態をつき始めた二人を止めようと口をはさみかけたところで、蔵王がふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「それじゃあ、気分転換もできましたし、皆が充実したクリスマスを送れるように、一刻も早く仕事を終わらせちゃいましょうか」
「さんせーい。まずはこの修羅場を乗り切ることが先よね」
「了解っす」
葛葉もまた「そうね」と頷いてから、
(気を引き締め直さなくっちゃ)
己の両頬をぱんっと軽く叩いて、スクリーンモニターに映し出された資料に目を向けた。
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