第40話

 その日の夜。

 葛葉は自室のテーブルの上に置かれた、白い箱をじっと見つめていた。

 今日正樹に渡された、仁々木のフルーツ大福だ。

 結局あの後職場では手をつけず、そのまま持って帰ってきた。

 キッチンでは、夕飯の片付けを終えた蔵王が、デザートの大福を共に食べるべくお茶の準備をしてくれている。

 今日の夕飯は、以前杏那が持ってきてくれた一の傳の西京焼きに、蔵王が作り置きしてくれたお惣菜を添えた和食膳だった。


「仁々木のフルーツ大福か。僕もこれ好きなんだよね」


 蔵王はほうじ茶が入った湯呑を二つ置いて、葛葉の隣に座った。

 その距離感がこれまでより近い気がして、何だか妙に意識してしまう。


「あ、ありがとう」


 少しぎこちない感謝の言葉をを誤魔化すように、葛葉は大福をそれぞれの皿に取り分けた。

 小袋から出し、白いいちご大福を手に取る。


「……フルーツ大福って、不思議よね」


 形の良い柔らかな大福を見つめていると、ふと、そんなことが口から零れ落ちた。


「うん?」


 同じく袋からぶどう大福を取り出そうとしていた蔵王の手が止まった。


「こうやって見ると、中に餡子が入ってるオーソドックスな大福とそう変わらないじゃない? でも、中には苺がそのまま入っていたり、新鮮な旬の果物が入っていたり。そのフルーツに合わせて、餡だけじゃなくクリームが入っていたりするでしょ。昔の人からすれば驚くし、受け入れられない面があったかもしれない。でも、食べてみると、意外にしっくりきて美味しくて、気が付いたら自然に定着してる」

「確かにね」

「古き良きものを守るのも勿論大事だけど、でも、どんなものにも色んな形とか、時代の流れと共に変化していく在り方があっていいと思うのよね」

「そうだね」


 顔を上げて蔵王の方を見ると、目が合った。

 その目があまりに優しくて、包み込んでくれるような視線がくすぐったい。わずかに目をそらすと、手にした大福を一口齧った。

 すると、苺の甘酸っぱい香りが口の中に広がり、きゅんとした。

 ほうじ茶を手に取ると、じんわりと手が温まる。口に含めば、心の芯からほっこりとした感覚を覚える。

 とても穏やかで、心が安らぐ。でも――


『このままでいいの?』


 胸の奥底から聞こえてくる、小さな小さな声が心を揺らした。


「ねえ、蔵王。もしあなたが、やらなければならないことと、やりたいことが別で、どちらかを選ぶとどちらかを切り捨てることになるなら、どうする?」


 湯呑を手にしたまま、ぽつりとつぶやく。

 蔵王はお茶を飲む手を止めて、ふっと口元を緩めた。


「ふむ。その質問には、葛葉ちゃんの方が上手く答えられそうだけどね」


 葛葉はゆっくりと頷いた。


「私は、小さい頃から虎月堂の跡継ぎとして育てられてきた。それは大きなプレッシャーだったし、重荷だったことは確かだった。……けど、それ以上に誇らしいことでもあったわ」


 尊敬する祖母。あたたかな家族のような従業員たち。そんな彼らの居場所を守れることを、嬉しく思っていた。

 だからこそ、自分なりに努力してきたつもりだった。


「正直、正樹が生まれた時、その重圧は消えたけど複雑だった。ああ、もうお稽古をしなくていいんだっていう解放感はあった。でも、これまでやってきたことは何だったんだろう。こんなにも簡単に、自分じゃない誰かに人生を変えられてしまうのかっていう悔しさで、ごちゃまぜだったわ」


 自分とは何なのだろうと、自らの存在する意味が見えなくなった。

 普通の小学生なら、きっと考えないようなことだろう。けれども、それが許されない道を歩んできた。だから、走ってきた道が突然消えた瞬間、後に残ったのは、混乱の二文字だった。


「でも結果的に私は、やりたいことを見つけた。そしてそれを達成するために、新しく与えられた『虎月のための政略結婚をする』という役割から逃げた。その選択は、間違っていないと今も思ってる。でも、もしこれが、どうしても逃げられない立場のままだったなら、どう気持ちに落としどころを付けていたんだろうって、考えちゃうのよね」


 宙の一点をじっと見て、葛葉は大きくため息をついた。

 そんな葛葉の言葉に耳を傾けていた蔵王は「なるほどね」と、小さく微笑んだ。


「もしかして、正樹くんが東京に来てた?」


 軽い口調で問う蔵王に、葛葉はうっと言葉を詰まらせた。


「なんであっさりばれるのよ」

「いやあ、以前、京都で正樹くんにばったり会った時、『大人のくらし手帖』を持ってたからさ。本来なら、彼ぐらいの年代の男の子が好んで読む雑誌じゃないでしょ」


 なぜ正樹が葛葉の職場を知り、突然現れたのか、蔵王の弁でやっと合点がいった。

 葛葉が担当している本だということは、雅世も調べがついているはずだ。雅世が内容を知るために購入したものが、京都の実家に置いてあったのかもしれない。

 蔵王は手にした湯呑を机の上にゆっくりと置きながら、しっとりとした声音で言った。


「人生はその人自身のものだよ。やりたいようにやるべきだ。でも、そのために『捨てなければならないもの』も出てしまうことがあるからこそ、悩むんだよね」


 葛葉は目を伏せ、「そうね」と一つ頷いた。


「僕みたいに、フリーのウェブデザイナーをやりながら、それを虎月堂の仕事にも活かす……みたいな両立できる在り方が、理想的なんだろうけどね」

「両立できる在り方、か」


 蔵王はやっぱり器用だと思う。上手に必要なものを見つけて、マッチングする力がある。

 それどころか、随分前から必要性を考えて準備をして、今に至っているのだろう。


(それに比べて私は……)


 無意識のうちに、眉根に皺が寄っていた。


「ちなみに葛葉ちゃんは、どうしてこの業界に入ったんだっけ?」


 不意に尋ねられて、葛葉は「え?」と蔵王を見た。


「うーん。実は、きっかけはあなたからもらった雑誌の切り抜きなのよ」


 なんだか蔵王におんぶにだっこであることを告白するようで気恥ずかしい。

 蔵王もわずかに目を丸くした。でも、すぐに破顔して「そっか。ちゃんと届いてたんだ」と微笑んでくれた。

 その顔を見るだけで、何故か葛葉の心も弾んだ。


「もらった切り抜きから雑誌に興味が湧いて、実際に自分の書いた文章や撮った写真で、自分が良いと思ったものを人に伝えることができる。そういう仕事ができればって思ったのよね。結果的に紫陽社に拾ってもらえて、今に繋がってるわけだけど。でも……」


 そこまで言って、はたと言葉を切った。


(私がやりたいことって、本当にそれだけだった?)


 確かに、きっかけは蔵王がくれた雑誌の切り抜きだったかもしれない。でも、どうしてそれだけが輝いて見えたのだろう。


(蔵王がくれたから?)


 違う。あの時には、そんなことを考えてなどいなかった。


(大事な何かを忘れている気がする)


 あの雑誌の切り抜きを手にした時、自分は何を考えたのだろう。

 もう少しで何かが出てきそうな気がするのに、それに手が届かない。

 答えを求めるように、手にした大福を見つめた。

「葛葉ちゃん?」と、蔵王がうかがうように声をかけてきて、葛葉は振り向いた。


「蔵王。私……京都に行ってみようかと思う。今すぐにじゃないけど、近いうちに」

「京都に?」

「うん。色々と、見てみたいものがあって。もちろん、まだしばらくは納期とかもあるし、色々落ち着いてから改めてって感じだけどね」


 それはただの旅ではない。故郷に置いてきてしまった何かを見つけるための旅だ。

 そこにきっと、答えがある気がした。

 蔵王はふっと微笑んで、葛葉の手をとった。


「どこまでもお供しますよ。お姫様」


 その手はとてもあたたかく、力強く感じた――。

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