第39話
弟との初めての出会いは、自分が九歳の時だった。
突然現れた、生まれたばかりの赤ん坊に、ただひたすら戸惑いしかなかった。
忙しい雅世に代わり、幼い弟は葛葉とは別の棟で教育係の手で育てられることになった。だから、葛葉も元旦やお盆など、虎月堂関係者が一堂に会するような機会でしか、その姿を見ることはなかった。おかげで、教育係が東京出身だったのもあって、一度言葉を交わした時、標準語であったことに驚いた記憶があるくらいのものだ。
その後、葛葉は高校卒業後すぐに家を出てしまった。その時、まだ弟は九歳。
幼さの残る少年の顔は、記憶の中におぼろげにしか残っていない。
(そんな“彼”が、どうして急に、私に会いに来たの?)
気が付けば、二日酔いだったことなど、どこかへ飛んでいってしまっていた。
ざわめく心を落ち着かせる間もなく、エレベーターは地上階についていた。
ごくりと息を飲んで、エントランスへと踏み出す。
すると、ガラス張りの壁面を眺めるようにして立つ、青年の姿が目に入った。
身長は葛葉より少し高いくらいだろうか。細身の黒パンツに白のタートルネック。その上から黒のチェスターコートを羽織っている。
どこか中性的にさえ見える整った顔立ちは、今時の若者に人気の男性アイドルのようにも見える。
自分の中の記憶にある小さな弟の姿とのギャップに、一瞬頭が混乱しそうになる。でも、色素の薄い髪と瞳には、おぼろげながら見覚えがあった。
「……正樹?」
その名を口にしたのは、何年ぶりだろうか。
葛葉の声かけに、青年が驚いたような顔をして、こちらを振り返った。
「葛葉、姉さん?」
弟――虎月正樹。
正樹から発された声は、決して低い声なわけではない。けれども、幼少期と比べるとすっかり声変わりして、大人の男性のものになっていた。
「そうよ。……久しぶりね。大きくなったわね」
ぎこちない笑顔を作って、当たり障りのない台詞を言う。
なにしろ京都にいた時でさえ、こうして向かい合って話す機会など、ほとんどなかったのだ。今はそれくらいしか、言葉が思いつかなかった。
「急に押しかけて、ごめん。仕事中なのに」
「そりゃまあ、吃驚はしたけど……。今日、東京に来たところなの?」
「いや、昨日の夜からこっちに来て、適当なビジネスホテルで一泊して。……姉さんに、会ってみたくて」
何か言いたげな様子だが、言葉を濁して、正樹はわずかにうつむいた。
(このまま帰れっていうわけにもいかないわね)
葛葉はふっと苦笑した。
「大丈夫よ。仕事なら、同僚に手伝ってもらってるから。とりあえず、ちょっと話ができる場所にでも移動しましょう?」
柔らかい口調で声をかける。
それに正樹は少し顔を上げ、どこか安心したように微笑んだ。
ひとまず二階にある社内ラウンジに移動して、壁際のテーブル席を確保した。
自動販売機でカップコーヒーを二杯淹れ、その片方を正樹の前に置いてやる。すると、正樹は「ありがとう」と言ってカップを受け取った。
葛葉もまたカップを手に、向かい側の席に座る。
「あ、そうだ。これ……」
正樹が思い出したように、持っていた紙袋を差し出してきた。
「これは?」
「一応、お土産。仁々木(ににぎ)のフルーツ大福なんだけど」
「えっ! フルーツ大福!?」
思わず前のめりになって、紙袋を受け取る。
覗き込むと、中には白いシンプルな箱が入っていた。
「開けてもいい?」
「あ、うん、どうぞ」
蓋を開けると、シンプルながらも上品な小袋に包装された大福が六つ入っていた。
定番の人気商品「王様いちごの福」に、季節限定の「ぶどうの福」。そして、「大人のくりの福」がそれぞれ二つずつ、綺麗に並んでいる。
葛葉は目をきらきらと輝かせた。
「何これ、すごく美味しそう!」
「他にもブルーベリーとかマンゴーとかもあって、どれにするか迷ったけど」
戸惑いがちな正樹には悪いが、どうにも大福から目が離せない。
「今、一つ貰ってもいい?」
そわそわしながら声をかけると、正樹はふっと顔を綻ばせた。
「もちろん。むしろ賞味期限が今日までだから、早めに食べちゃって」
正樹に促されて、葛葉は顔を輝かせると、箱の中でお行儀よく並ぶ大福とにらめっこを始めた。
小さい頃から、フルーツ大福は大好きだった。
シンプルな大福も、もちろん好きだ。でも、大福の中に大胆にもフルーツを入れるという発想が楽しく、子供心をくすぐった。噛めばその断面は普通の大福にはないカラフルさで、大人になった今でも葛葉をわくわくさせてくれる。
フルーツの酸味と餡子の甘さは驚くほど相性が良くて、飽きがこないのも魅力だ。
そう考えると、王道のイチゴやブドウも心惜しい。しかし、「大人の」などという特別感ある名前まで付けられては、これはもう一度食してみるしかない。
「大人のくりの福」を選び、透明の小袋を開けると、手のひらサイズの白い大福が出てきた。
あーんと大きく口を開けて、勢いよくかぶりつく。
その瞬間。ブランデーの芳醇な香りが、鼻からふわりと抜けた。
「ああ……口の中から幸せがあふれてくる。ブランデーの染み込んだ栗のふくよかな香りに、上品な白餡とホイップクリームの主張しすぎない甘みが絶妙に調和してる。これぞ秋の味覚。晩秋の宵にぴったりの味だわ!」
ぱくりと残りの半分も口に放り込むと、その上品な甘さにうっとりととろけそうになる。
(はー。たまんない!)
ライトアップされた紅葉の庭園散策のお供に、ぜひとも持って行きたいぐらいだ。
思わずにまにまと顔が緩んでしまう。すると、
「姉さんは凄いね」
ぽつりと正樹に呟かれて、葛葉はハッと我に返った。
「そ、そうかしら?」
取り繕うように、にこりと笑って返すと、正樹は眩しそうな目でこちらを見てきた。
「うん。俺だったら、『うん、美味しい』くらいしか感想出ないと思う」
どうやら、脳内で散策に出かけようとしていた葛葉に驚くのではなく、純粋に凄いと思ってくれているようだ。弟に変な目で見られなくて良かったと安堵する。
その反面、葛葉はどこか面映ゆくなって、微苦笑した。
「まあ、昔から感想言ったり書いたりするのだけは得意だったから。そういうのを活かせる仕事に就けたっていうのは、ありがたいことよね」
「うん。自分がやりたいこととか得意なことを仕事に出来るって、本当に凄いよ」
正樹は少し視線を落とした。
「なんか……羨ましいよ」
「え?」
驚いて正樹の方を凝視すると、正樹は目を伏せたまま、呟くように言った。
「俺の記憶の中の姉さんは、おばあさまに似て、自分の意見をはっきり言えて、それでいて想像力も豊かで、人にも慕われて……そんな凄い人だった。東京に来て、自分の選んだ仕事をして、ますます生き生きしてるように見える。きっと俺よりも、虎月堂の跡継ぎとして向いてたんだろうなって、改めて思うよ」
どこか自嘲気味にさえ見える笑みを浮かべた正樹に、葛葉は動揺して腰を浮かせた。
「ちょ、ちょっと正樹? 何を言ってるの?」
正樹の前で雅世に意見を言った覚えなどない。
(っていうか、正樹自身に会ったこともほんの数回しかないし。言葉もほとんどまともにかわしてなかったっていうか)
それなのに、どこでそんなものを見たというのか。
「……ああ、ごめん。姉さんが家を出ていった時に、実は陰から見てたんだ。あの姿を見て、正直、凄いなって思うと同時に、羨ましかった」
ようやく目を合わせた正樹の瞳には、どこか悲し気な色が見えた。
「姉さんは、俺が生まれたせいで虎月堂の跡継ぎになれなかったのに、その俺がこんなこと言うなって感じだろうけどさ。俺……時々、自信が無くなるんだ。俺なんかが虎月堂を盛り上げていけるのかって。おばあさまの期待に沿えるのかって」
「正樹……」
悲しみだけではない。迷いや葛藤、不安。それらの色を、葛葉はかつて、鏡の奥の自身の瞳の中に見たことがあった。
だからこそ、気になった。
「本当に、それだけ?」
「え?」
きょとんとした顔の正樹の目をじっと見据える。
「あなたの目、何かに迷ってるように見えるわよ」
きっぱりと告げると、正樹は一瞬面食らったような顔をした。
けれど、すぐに「ばれちゃったか」と小さく苦笑した。
「……うん。本当は俺、医者になりたいんだ」
「医者?」
突然飛び出したワードに、葛葉は目をぱちくりとさせた。すると、正樹は少しはにかむように笑った。
「うん。今、俺、受験生でさ。一応、私学ならA判定はもらえてる。国立はまあ、これからのラストスパート次第だけど」
「え、すごいじゃない」
「ありがとう。でも、もし受かったとしても、おばあさまには許してもらえないだろうけど」
医学部は六年生で、多くの知識や技術を得ながら国家試験合格を目指す。そのカリキュラムは忙しい。
茶舗の経営者の跡取り息子が、実家の家業と両立しながらできるものではない。
後々、後を継ぐことを念頭に置いているならば、尚更だ。
「わかってるんだ。俺にはそもそも、選択肢がないってことくらい。今与えられている『由緒正しい老舗の後継者』としての立場が、一般的にはとても恵まれたものだってことも知ってる。でも、たまに思うんだ。自分が目指したものに、自分自身の力で近づいていく。そんな生き方を出来たらな……って」
不意打ちのようなその言葉に、胸を突かれた。
(正樹も、同じだったんだ)
悲しみ、迷い、葛藤、不安……そして、諦め。
どれもこれも、葛葉もまた体験してきた感情だ。
それらが入り混じった表情をしたまま、正樹はふっと微笑んだ。
「ごめん。姉さんに、どうにかして欲しいって思ったわけじゃないんだ。ただ、昔俺と似たような立場だった人に、話を聞いて欲しかった。あとは、自分で選んだ道を生きた姉さんが、時が経った今どう過ごしてるのか、見てみたかった。それだけなんだ」
正樹はゆっくりと立ち上がり、椅子を直すと、ぺこりと丁寧に一礼した。
「今日は時間をとってくれてありがとう。もう、押しかけて来たりしないから。じゃあね」
もう一度笑みを浮かべると、正樹はエレベーターの方へと歩いて行った。
その背中は、葛葉の記憶の中の彼からは、随分と大きくなったものだと思う。
けれど今、大きな悩みを抱えた彼の背中が、どこか小さく寂し気に見えた。
「正樹……」
葛葉はそんな正樹の去っていく姿を、ただ見守ることしかできなかった。
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