第38話

 翌日。ガンガン鳴り響く頭を押さえて、葛葉は出社した。


「うう。頭痛い」


 昨日は、つい調子に乗って飲み過ぎた。何時に帰ったか、曖昧な記憶しかない。

 お風呂に入って化粧を落とし、思いっきり水を飲んで寝たことだけは覚えている。

 朝起きてみると、蔵王からSNSでメッセージが入っていたが、それすらもまともに見ていない有り様だ。

 ぼんやりする頭を押さえながら、スマホを取り出しSNSをチェックする。


『おはよう。昨日はちゃんと眠れた? シジミ汁を作っておいたから、余裕があったら飲んでね。お水はしっかり飲むんだよ』


 文面を見て、目が点になった。


(シジミ汁? えーっと、どうして蔵王が私の二日酔いの心配を?)


 慌てて、スマホに指を滑らせた。すると、即座に返事が返ってきた。


『鈴音で飲んでるって、葛葉ちゃんが連絡くれたでしょ? だから顔出しに行ってみたら、いつになく出来上がっちゃってたから、そのまま連れて帰ったんだよ。杏那さんも心配してたから、ちゃんとお礼言っておくんだよ?』


 画面に映し出された返答に、目玉が飛び出そうになった。


「な、なな……なんですって?」


 突然横殴りされたような衝撃と共に、葛葉はデスクに突っ伏した。

 なんという失態だ。

 葛葉は比較的お酒には強い方だ。けれども、昨日は確かに浮足立っていたような気がする。

 色々考えすぎる自分を吹き飛ばすように、許容量を超えたお酒を摂取したことは認めよう。

 それにしても、この醜態は何だ。


(あああ、私の馬鹿! いくらなんでも緩み過ぎよ!)


 バンバンと机を叩きたい衝動に駆られるが、今は仕事中だ。あまりの衝撃に、頭の痛みもどこかに飛び去ってしまった。心の中で滂沱の涙を流しながらも、気を取り直して原稿チェックを進めるべく、パソコンに手を伸ばした。

 するとその時、デスクの内線電話が鳴った。

 慌てて心を落ち着かせ、「はい!」と受話器をとった。


「お待たせしました。虎月です」


 電話の相手は、出版社ビルの受付嬢だった。


『虎月さん、お忙しいところすいません。二十歳前後の若者が、虎月さんに会いたいと言っているのですが、アポイトメントはとってらっしゃいますか?』

「……は?」


 思わず変な声が出た。


「えーっと、今日は特に面会の予定とかは入っていませんが」


 片手でスケジュール帳をぱらぱらとめくりながら確認する。今日はひたすらデスクで編集作業を進める予定の日だ。


(もしかして、持ち込み希望の若手ライターさんとか?)


 紫陽社は雑誌業界ではそれなりに大手なので、そういったフリーの作家が面会を希望してくることは少なくはない。よほど暇であれば応対することも出来なくはないが、残念ながら、そんな日は滅多に無い。今日だって、ただでさえ調子が悪い上、積みあがった校正作業で手がいっぱいだ。

 なので、アポなし訪問は基本的にお断りしている。


「特にアポはとっていないので、改めてご連絡いただけるようお伝えください」

『はあ、それが……』


 普段ならばそれで話は終わるはずなのに、今日の受付嬢はどうしてか言葉を濁らせた。


「何か?」

『その、当の男性が「自分は虎月さんの弟だ」と、おっしゃっているのです。このままお帰ししてしまって大丈夫ですか?』

「……え?」


 一瞬、時間が止まった気がした。


(おとうと?)


 息を飲む。


(どういうこと?)


 わずかな思考停止。けれどそれは、葛葉にとってはとても長い時間に思えた。

 隣のデスクの香織が、「はーっ! 何とか午前のノルマ達成!」と大きく伸びを入れる声で、ハッと我に返る。

 間髪入れずに、葛葉は香織の方を振り返った。


「ねえ、香織。私この間、貴女が婚活で出かける時、特集ページの編集を手伝ったわよね」

「え? うん。もちろん覚えてるし、いつか借りを返そうと思ってるわよ」

「そう。なら、今返してもらっていい?」

「へっ?」


 呆けている香織のデスクに、校正原稿をどんっと置いた。

 そして「あとは宜しく」だけ言うと、再び受話器を口元に寄せた


「……わかりました。エントランスで待つように伝えて下さい」


 静かにそう告げてから受話器を置き、葛葉は立ち上がった。


「ちょ、ちょっと葛葉!?」


 香織の戸惑う声が聞こえていたが、今の葛葉には振り返る余裕はなかった。

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