第33話
どんよりとした気持ちを抱えたまま迎えた日曜日。
葛葉は雅世に指定された見合いの席――ペニンシュラ東京の二十四階にある、レストラン「ピーター」にいた。
窓際に準備された席からは、漆黒の闇に煌く高層ビルの光が瞬く星のように輝いて見える。なんでもない日に来たならば、この景色を楽しみながら、ワインとフルコースを堪能できただろう。
けれども、残念ながら今は、お見合い相手の男性と二人きり。何とも気乗りしない状況だ。
「葛葉さん、お久しぶりです。言うても、覚えたはらへんかもしれませんけど」
約束通りの時間に現れた鳳条陽人は、三十七歳という年齢以上に落ち着きのある男性だった。
(さすが、茶道の
写真で見た時とはまた違う、
都内で暮らしていて、和装の男性を見る機会は少ない。それでも違和感をまったく覚えることが無いほどに、和装がよく体に馴染んでいる。
穏やかな微笑みを向けてくる陽人に、葛葉も緩く微笑もうとした。
「その節はお世話になりました。最後にお会いして、もう二十年以上になりますでしょうか」
正直なところ、陽人と交流があったのは、幼少期にせいぜい一、二度だ。記憶をひっくり返したところで、今の彼と合致する面影など思い出せるわけもない。
(まあ、ご両親のことならよく覚えてるんだけどね)
父親の
(まあでも今思えば、家元直々に教えていただけるなんて、破格の扱いだったわね)
贅沢な体験だとは思うけれども、そこはそれ。
目の前の見合い相手に対しては、申し訳ないが何の思い入れもない。
それどころか、にこやかに歓談している自分を想像するだけで、気持ちが沈んでいく。
「お会いしたのは葛葉さんが五歳で、私が十四歳の頃でしたか。まだ幼稚園やのに、受け答えのしっかりできはる随分利発なお子さんやなと驚いたんを、今でも覚えてます」
「利発だなんて、お恥ずかしい限りです」
「身のこなしからご挨拶まで、下手な大人よりよほどしっかりされてたと思います。別荘からの帰りは、葛葉さんの話でもちきりでした」
「そうでしたか。なんだか恐縮してしまいます」
よくよく考えてみれば、あの別荘に行った後から、鳳条家に茶道を習いに行くことになった気がする。
(あれも、おばあさまの計算の内だったのかしら……って、深読みしちゃうわね)
そういえば、別荘に行く時も茶道のお稽古に通う時も、いつも蔵王が一緒だった。
近い年頃の人間が近くにいなかったからなのかもしれない。でも、それ以上に、蔵王をつけておけば安心だという思いがあったのだろう。
葛葉は蔵王の言うことは、愚痴を吐きながらも聞き入れていた。そんな二人の関係性を、雅世は十分理解していたのだろう。
そして、その関係性が今にいたっても崩れることがなかったことを雅世は確信して、蔵王を盾に使った。
(結局、私はまたそれを覆せるだけの力を持たなかった)
すべてが雅世の手のひらの上で動いているような錯覚さえ覚えてしまう。
「葛葉さんは、どうして東京に出て来はったんですか?」
陽人にそう話しかけられて、葛葉は慌てて顔を上げた。
「小さい頃から旅行雑誌とか、グルメ雑誌などといったものが好きだったので、編集に携わるお仕事がしたいと思ったんです」
「そういえば、出版社でお勤めやて、釣書にも書いてありましたね。立派なお仕事や思います。これからも続けていかはるおつもりなんですか?」
「え? あ……まあ、そうですね」
「なるほど」
陽人は古い家柄の男性だ。「結婚したら家庭に入って欲しい」などと言われるかもしれないと、少し身構える。
すると陽人はスープを口にすると、言葉を続けた。
「葛葉さんは、どうして旅行雑誌やグルメ雑誌に、興味をもたはったんですか?」
「え?」
予想外の質問が飛んできて、思わず面食らった。
「興味をもったきっかけ……ですか?」
「はい。私も小さい頃から、
問われて、葛葉は内心で首を傾げた。
(そもそも、いつぐらいから雑誌とか読むようになったんだっけ?)
元々祖母の監視下で、俗っぽい本や雑誌は、極力読まないように育てられて来た。
(でも、高校の頃にはもう編集者になるんだって思ってたから、中学?)
中学と言えば、目標を失い、蔵王とも引き離されてしまった葛葉にとっての暗黒時代だ。
正直なところ、何をしていたのか自分でもよく思い出せないほど、記憶があいまいだ。
(ああ、でも、あの時……)
ふと、頭によぎったのは一通の手紙だ。
葛葉の婚約が予定されていると雅世に聞かされた、中学三年生の三月だっただろうか。
葛葉は従業員の一人から一通の手紙を渡された。
『心が疲れた時こそ外を見て。世界は広い。想像は自由だ。形にとらわれず、どうか君らしさを失わないで』
封筒には、そう書かれた一筆箋と共に、色鮮やかな雑誌の切り抜きが何枚か同封されていた。だけど、その手紙に差出人は書かれていなかった。
名前がない理由。それはきっと名前を書いてしまうと、誰かに邪魔されて届かなくなるかもしれないから。
そんな可能性がある人を、葛葉は一人しか知らない。
(そうだ。あれは、蔵王が人伝てに届けてくれた手紙だったんだ)
蔵王の心が詰まった手紙を、あの時、葛葉は何度も何度も読み返した。
たった一行の文章が、葛葉の世界を変えた。
モノクロームだった世界に、突如飛び込んできた色。それはとても鮮烈で、美しかった。
暗闇にいた葛葉に新しい道を示してくれたのは、蔵王だった。
あの時の手紙があったから、今の葛葉がある。
(どうして今まで忘れてたんだろう)
何だかじんわりと、目頭が熱くなってきた。
でも、今はお見合い中だ。
別の人のことを考えているなど、陽人に気付かれるわけにはいかない。
こみ上げる思いを押し込めて、誤魔化すように目の前に出てきたスープをかき混ぜた。
すると、こちらをじっと見守っていた陽人が、少し困ったように笑った。
「葛葉さん。今回のお見合い、あまり気乗りしはりませんか?」
「えっ? あ……い、いえ、そんなことは……」
はっと顔を上げて、慌てて頭を横に振ろうとした。
……けれど、出来なかった。
(鳳条さん、ごめんなさい)
わずかに胸の奥が痛む。陽人には何の落ち度もない。むしろ気を遣ってくれていることは、ひしひしと伝わってくる。
たとえ乗り気ではないにしても、社会人として、この場を務めることができるよう受け答えぐらいはしたほうがいい。
それなのに、どうして――
他の男性を目の前にしているのに、浮かんでくるのは蔵王の顔ばかりだ。
「無理しはらんでもええんですよ。自然に気持ちを任せてみはったらどうですか」
「無理なんて……」
言いかけて、葛葉は俯いた。
(してない、とは言えない)
陽人の言う通り、好き好んで臨んだ見合いではない。とはいえ、この見合いは個人のものではなく、家のためのものだ。それはきっと、茶道の家元の名を背負う陽人も同様で、承知のことだろう。
だから、形式上の見合いとして割り切って、葛葉の心など気遣わなくてもいいはずだ。それなのに、陽人は葛葉の気持ちを
(陽人さんは、とてもいい人ね)
まだ一時間ほどしか、時間を共にしていない。けれども、陽人が懐が広く、落ち着いた人柄であることは、雰囲気で分かる。穏やかに優しくこちらを見守り、ありのままの葛葉を受け入れてくれるかもしれない。
まさに以前、香織と話をした時に出ていた、葛葉の理想の男性像に近い人物だ。
欠点などなく、断る隙すら与えない。雅世の作戦勝ちともいえる結果だ。
きっと、このままこの縁談は進むだろう。ここに来た以上、腹はくくっている。
(でも――)
胸の奥に波紋が広がる。
表面的には、何事もないかのように「無理などしてない」と告げることはできるだろう。
だけど、共に手を取り、共に歩み、支えてきてくれた大切な存在を、心から消すことなどできそうもない。
かといって、そんな想いを心に秘めたまま、陽人と新しい関係を作ることは、あまりにも不誠実な気がした。
(もう、自分に嘘はつけない)
意を決して、口を開こうと顔を上げたその時だった。
「お客様そちらは!」という店のスタッフの声と同時に、店の入り口付近がざわつき始めた。
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