第32話
「これは……」
引き出しの中にあったのは、一つの封書だった。秋らしい柔らかい山吹色の封書は、明らかにビジネス目的のものではない。雅世への私的な手紙であることがわかる。
仕事場にこのようなものを残していることが妙に気になり、蔵王は封書を手に取った。
「差出人は、
すると、封筒の間からはらりと一枚の一筆箋がこぼれ落ちた。
『高く澄みきった空に、心も晴れ晴れとするこの頃、雅世様には笑顔が広がる毎日をお過ごしのことと存じます。先日は当家の長男に素晴らしいご縁をいただきましたこと、心よりお礼申し上げます。両家の絆がこれまで以上に良きものとなりますよう。お会いできるのを楽しみにしております。 十月二十日 鳳条佳苗』
毛筆で書かれた、品のある美しい筆跡だ。
けれども、問題はその内容だ。
「長男に素晴らしいご縁?」
両家の絆というからには、当然それは鳳条家と虎月家のことを指すのだろう。
「……見合い話?」
つまり、雅世は独断で葛葉の見合いの話を進めているということだ。しかも差出日はもう一ヶ月以上前だ。話はもっと進んでいる可能性が高い。
(でも、先週葛葉ちゃんに最後に会った日、彼女はそんなそぶりを見せなかった)
知っていたなら、葛葉はもっと怒り心頭であったに違いない。
蔵王がこちらに来たタイミングを見計らって葛葉に打診したのだろう。
(いや、仕事にかこつけて、あえて僕と葛葉ちゃんを離したのか)
何しろ、蔵王が京都に呼び戻されたのは、稟から忠告された日だ。雅世が蔵王と葛葉の仲を疑っていたとしてもおかしくはないだろう。
「そこから僕をまだ帰していないということは、計画は進行中ということか」
なるほどと、蔵王は肩をすくめた。
(雅世様の中での僕の立場は、まだあの頃のままなんだね)
虎月家を母と共に離れた時、葛葉を置いて行くことが心苦しかった。
でも、母が虎月堂に勤め続けていたこともあって、時折葛葉の情報は入ってきた。だけど、その情報は決して明るいものではなかった。
そんな中で、葛葉の婚約の予定が耳に飛び込んできた。
葛葉のことが心配でいてもたってもいられなくなったある日、虎月家をこっそりのぞきに行った。すると、そこには暗い目をした葛葉が、お稽古から帰ってくる姿があった。
思わず、物陰から飛び出そうとした。
だけど、それを雅世に見とがめられた。
『葛葉に
『少しでも元気づけられればと』
『一時しのぎの元気に何の意味があるんや。あの子には虎月家の娘として背負うてもらわなあかんもんがある。あんたと葛葉は住む世界が違う。力もない子供がどうこうできる世界と違うんや。よう覚えとき』
叱責され、何の反論もすることができなかった。どうしようもできない自分の無力さが身に染みた。
(あの頃は、雅世様の言う通り、僕には何の力もなかった。でも、昔と今とでは状況が違う)
雅世と過ごす時間は、この十年の間、昔に比べて格段に増えた。
側に置いているぐらいだ。力をつけていることを認めてくれているのは蔵王も知っている。
でも、雅世にとって、それはそれ。葛葉に接近されることは、今も困ることなのだろう。
(何しろ、僕は今、雅世様が最も欲している莫大な財産と後ろ盾を持っているわけじゃないからね)
蔵王は一筆箋を封筒に戻すと、ちらりと扉の方に視線を送った。
「だからこそ、こっちで僕が変な動きをしないよう見張るために、君は京都に呼び戻されたのかな? 稟ちゃん」
ゆっくりと扉へと歩を進め、蔵王は社長室の扉を開いた。
すると、そこには直立不動のまま、じっと蔵王の顔を見上げる稟の姿があった。
「蔵王さん。雅世様不在の間に、こそこそと社長室内を漁るのはどうかと思いますが」
「そう思うなら、もっと早くに声を掛けたらよかったんじゃないかな? 雅世様が出て行ってから、ずっとそこにいたでしょう」
「雅世様のお言いつけです。蔵王さんがどんな動きをするか見ておくようにと」
「それで? 雅世様にそれを報告して僕をクビにするのかな?」
「いいえ。何もないならそれでよし。でも、蔵王さんのことだから、どうせ勘付いて動き出すだろうから、その時は疑問に答えてやれと」
「なるほど」
どうやら、雅世も蔵王のことを見くびっているわけではないらしい。蔵王はふっと小さく笑んでから口角を上げた。
「それなら話が早い。葛葉ちゃんのお見合いはいつなのかな?」
「今日の十九時にペニンシュラ東京の最上階のレストラン、ピーターで行われる予定です」
時計はすでに十六時を過ぎている。
大方動き出したものを止めることなどできないだろうと高をくくっているのだろう。
「そう。情報ありがとう。それじゃあね」
蔵王はにこりと微笑むと、ひらひらと手を振り、出口に向かって歩き出した。
その背中に稟が「待ってください」と声をかけてきた。
「お見合いが予定通り行われるということは、すなわち、葛葉様はこの縁談を承諾されたということです。それを今更、
蔵王はくるりと振り向き、「
「僕は葛葉ちゃんが本心からこの話を受けただなんて思っていないし、何より僕以外の人間が僕以上に彼女を幸せにすることなんて出来ないことを知ってるからね」
感情を宿していないようにも見える稟の目が、一瞬、険を帯びた。
「私たちは一従業員です。住む世界が違うとは思わないんですか?」
「住む世界、ね。でも、僕らは同じ地球で同じ時間軸で生きているんだよ。やる気さえあれば、毎日顔を合わせることだってできる。自分自身を高みに持っていって、同じ目線で立つことだって、今の時代は不可能なことじゃない。それなのに、無理だって誰が決めたのかな? 君が同じところでずっと立ち止まっていたいなら、いつまでもそこにいるといいよ。でも、僕はそうしない。それだけのことだよ」
「……その自信は、一体どこから来るのですか」
「さあね」
蔵王は踵を返して、去っていった。
振り返り、すでに小さくなった蔵王を目で追いながら、
「……そんな貴方が、私は羨ましい」
残された稟は、無意識のうちにそう呟いていた。
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