第34話
思わずそちらの方に目をやると、長身の男性がこちらに向かって歩んでくるのが見えた。
店内の薄暗い照明に照らされた、その顔は――
「ざ……蔵王!?」
他でもない。ここ数日間、ずっと葛葉の頭の中の大半を占めていたその人だった。
蔵王は葛葉と陽人の座るテーブルまでやってくると、ぺこりと一礼した。
「お取込み中すみません。鳳条さん。火急の用件がありまして、彼女をお借りしてもよろしいでしょうか」
さすがの陽人も呆気にとられたようで、突然の乱入者に目を丸くして見上げた。
にこりと微笑んだ蔵王はぽかんとしたままの葛葉の手を取った。そして陽人に一礼すると、見合いの席を後にした。
(な、何が起こってるの?)
手を引かれながら、エレベーターに乗り込み、ロビー階へ続く廊下へと降り立つ。
蔵王はそのまま、葛葉を連れてホテルのエントランスがあるロビーへ向かおうとする。それを、葛葉は慌てて引き留めようと、反対の手で袖を引いた。
「ちょっと、蔵王。いきなり何なの? 火急の用件っていったいどういうこと!?」
蔵王は人気がないことを確認するようにあたりを見回すと、足を止めた。
「確認したいことがあったんだ」
くるりと振り返って向き直った蔵王の流し目が、葛葉を射抜いた。
その眼光に思わずひるむ。すると、蔵王はくすりと笑った。
「葛葉ちゃん、このお見合いに乗り気って本当?」
笑顔のはずなのに、視線を逸らすことも許されず、一瞬、口籠った。
もちろん乗り気などではない。けれども、それを素直に伝えれば、また蔵王は自らを犠牲にしても、葛葉を守ろうとするだろう。
(もう、そんなのはいや。蔵王はいつも私を見守っていてくれて、生きる道すら与えてくれた。だから、今度は私が蔵王を守る)
葛葉はぐっとお腹に力を籠め、しっかりと前を見た。
「ええ、もちろん。私が自分で決めたことよ」
きっぱりと言い放った。
(ああ、これで蔵王ともお別れだ)
告げると同時に、たまらないほどの
蔵王はじっと葛葉を見たまま微動だにしない。
(もう、見ないで)
手を振り払って、この場から去りたい。
でも、どうしてだろう。
どうしても、その手を振り払うことができない。
おまけに、こみあげる熱いもののおかげで、目の前がはっきりと見えなくなってきた。
ぼやける視界の中で、ゆっくりと蔵王の顔が近づいてくるのがわかった。そして、蔵王はそっと葛葉の頬に手を添えた。
「そっか。……なら、どうして君は泣いているの?」
息を呑んで、蔵王から離れようとした。けれども、蔵王の手が葛葉を逃がさなかった。
「もう、いいんだよ? 君がすべてを背負わなくてもいい」
甘く優しい言葉。その言葉に身をゆだねてしまいたくなる。
でも、葛葉は頭を横に振った。
「ダメよ。私は虎月家の長女。私が断ればみんなが……」
蔵王が――とは言えない。
けれども、蔵王のすべてを見透かすような目が、葛葉の心の深淵に触れてきた。
「葛葉ちゃんはお利口さんだね。責任感が強くて、頑張りやさん。いつも誰かを守るために、君は自分を犠牲にする。君の行動は尊い。でも、君の心を傷つけていい理由にはならない。もう一度聞くよ? 本当にこの結婚は君の望むものなのかな?」
言葉の一つ一つが、胸の奥にささる。
心が痛い。痛くてたまらない。
だから、悟った。
ああ、もう、逃げられない、と。
とめどなく流れ続ける涙をぬぐうことも出来ず、葛葉は俯いた。
「そんなわけ……そんなわけ、ないじゃない」
あなたと離れたいなんて、願うわけがない。
でも、やっぱりそれは言葉にできず、葛葉は唇をわななかせ、くしゃりと顔を歪める。
今の葛葉の顔は、きっととてつもなく不細工だ。
だけど、堰を切ったかのように流れ出した涙は止まらない。
「そっか。うん。そうだよね」
柔らかく優しく笑った蔵王は、葛葉の頬を包み込み、上を向かせた。そして、涙を優しく拭ってくれた。
「どうして相談してくれなかったのかな?」
「だ、だって、それは」
確かに、蔵王に相談しようと思えばできたことだ。
何度もスマホに手を伸ばしては、やめることを繰り返した。
それでも連絡を取れなかったのは――
「僕はいまだに信用できない相手なのかな?」
「違う! そんなことない!」
はじかれるように顔を上げた。
「蔵王は昔も今もずっと、私にとって大切な人よ。だからこそ……言えなかった。おばあさまは見合いを受けなければあなたをクビにするって。でもそんなことをあなたに言えば、蔵王はまたあっさりと自分の未来を歪めてしまいそうな気がしたから。私のせいで大切な人の将来を変えてしまうなんて、もう、そんなのは嫌なのよ!」
蔵王は一瞬目を丸くして、そして、何とも言えないむず痒いような笑みを浮かべた。
「これは、抱きしめていいっていうサインなのかな?」
「え?」
「ま、もういいや。了解なんていらない」
「ざ、蔵王!?」
突然抱きしめられて、葛葉は完全に固まった。
「ねえ、葛葉ちゃん。もう僕たちは子供のままじゃないんだよ? 虎月堂のことは確かに大事だ。それは君と過ごした場所だからということもあるし、そこで働く大切な人を守りたいという気持ちもある。でも、そのために君が他の誰かに奪われてしまうなら、僕は迷わず君と歩むこれからの時間を選ぶよ」
「それって……」
「うん。僕は君のことが好きだ。小さい頃からずっとね」
耳元で優しく告げられて、一気に心臓の鼓動音が大きくなった。体温が急上昇して、見る見るうちに顔が染まっていくのがわかる。
「葛葉ちゃん、君の答えはどうかな?」
恥ずかしさで、顔から火が出そうだ。
でも、これまでずっと、自分の中で葛藤し躊躇っていた答えを、素直に言える気がした。
「私も……私も蔵王と一緒にいたい。他の誰かと結婚するなんて、嫌」
蔵王がこれまでで一番、嬉しそうに笑った。
「ありがとう。……なら、改めて彼にちゃんとご挨拶をしようか」
「え?」
にこりと微笑んだ蔵王の示す先では、和装の男性が遠慮がちに物陰に隠れるように立っていた。
葛葉はといえば、蔵王に抱きしめられたままだ。
「ざ、蔵王、あなた、まさか、わざと?」
「いやだなぁ。偶然だよ」
嘯く蔵王を見上げると、嘘くさい笑みを返してきた。
じわじわと状況が脳に浸透し、恥ずかしさのあまり大絶叫しそうになるのを、葛葉はすんでのところで堪えた。
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