第30話
手にした釣書を見ることができず、しばらくは放っていた。
でも、結局は落ち着かなくて、封筒を開いた。
「優しそうな人ね」
写真に写った顔は、とても落ち着いていて穏やかそうな男性だ。
年齢は葛葉よりも八つ年上だ。
(まあ、おばあさまにとっては、相手の年齢なんてどうでもいいんでしょうけどね)
結婚する本人同士の意思など存在しない。家ないしは個人が何らかの利益を得るために行われる。それが政略結婚というものだ。
その点、茶道の次期家元としての陽人は、茶舗である虎月堂にとって申し分ない相手だ。
さらに、葛葉や蔵王は昔、鳳条流の家元に茶道を習っていたこともあり、まったく知らない家でもない。
そこまで計算しておそらく雅世はこの相手を選んだのだろう。
だけど、見合いを受け入れた場合、よほど相手に落ち度がない限りは、結婚まで一直線だ。
もちろん、そもそも受けずに断るということも出来るだろう。
政略結婚とはいえ、戦国時代などのように、それによって生死が関わるわけでもないのだから。
けれども、断れば蔵王が虎月堂をクビになってしまうかもしれない。
おまけに、虎月堂で勤めるたくさんの従業員たちが路頭に迷うかもしれない。
そう思うと、計り知れないほどの罪悪感がのしかかってくるのを感じた。
見合いを受ければ、どうなるのだろう。
今後の結婚生活についての相手側の要求を聞いていない以上、仕事がどうなるかはまだ未知数だ。
だけど、少なくとも、蔵王と送ってきたこれまでのような日々は確実に消えてしまう。
それを考えるだけでも、胸が張り裂けそうになってしまう。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
心の中で叫ぶ。
自分がどんな答えを選びたいかなんて、とっくにわかっている。
そんな自分は、なんて勝手なんだと、自己嫌悪に陥る。
だからこそ、認めるしかない。
(ああ、そうか。私は蔵王が好きなんだ)
蔵王と一緒にご飯を食べる、ほんの
彼の姿を見かけるたびに心臓が
他の誰よりも葛葉のことを見守って来てくれた、誰よりもかけがえのない存在。
(でも、蔵王にとって、この気持ちは迷惑なだけなのかもしれない)
先程、稟に聞かされた音声が思い出される。
あの時の蔵王の声は、葛葉が聞いたこともないような、どこか冷ややかなものだった。
蔵王は葛葉に優しい。小さい頃から、いつだって優しく、葛葉のすべてを受け入れてくれていた。
時には励まし、思わず勘違いしそうな甘い言葉さえも与えてくれてきた。
でも、蔵王から直接、気持ちを聞いたことはない。
もしかするとそこに特別な感情などなく、あくまで葛葉が雇用主の孫娘で、幼馴染だから優しくしてくれたという可能性は十分にある。
なら、自分の蔵王へのこの気持ちは、蔵王にとって迷惑でしかないのかもしれない。
そう思うと、胸が締め付けられるように痛んだ。でも――
(だから何だって言うの? 私が蔵王のことを好きだっていう気持ちは変わらない)
そうだ。蔵王の本心がどのようなものであろうとも、これまで蔵王に多くのものを与えてもらって来たことも事実なのだ。
(なのに私は、蔵王のために何かしてあげれたことがあった? 一方的に与えてもらってばかりだったんじゃない?)
むしろ、小さい頃に葛葉が蔵王に語った愚痴のせいで、蔵王に迷惑をかけたことすらあった。
(今の私が、蔵王にしてあげれることって何だろう)
そう思った時に、一つの答えが見えてきた気がした。
虎月堂を大事だと語っていた蔵王の未来を、潰すわけにはいかない。
もう二度と、自分のせいで蔵王の将来を歪めたくない。
(今度は私が蔵王を守る)
この決断はとても身勝手な理由だと思う。
たくさんの人を守りたいためなんて、偽善的な理由じゃない。
大切な人を守りたい。ただそれだけ。
でも、だからこそ――
葛葉はそっと机に投げ出したままになっていたスマホを手に取った。
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