第17話
デスクに戻ると、憲太はパソコンとにらめっこし、香織は電話にかじりついていた。
「虎月先輩、おかえりなさいー! 編集長、何の話でしたか?」
葛葉に気づいて顔を上げた憲太に、事の次第を説明するべく口を開きかけたその時、
「えっ!? 本当ですか!? でも? あー……わ、わかりました。はい。でもぜひ取材させていただきたいので、その日程でお願いします」
電話をしていた香織が上げた声に、葛葉は思わずぎょっとして言葉を止めた。
ガチャリと受話器を置くと、香織は大きなため息を共に机の上に顔を突っ伏した。
「あああー……厄介なことになった」
「香織、どうしたの?」
香織を伺うと、香織がゆっくりと顔を上げた。
「取材依頼してた神社から許可もらえたんだけど、それが結構中途半端な日程で、飛び石になってるのよね。でも、県内何か所か回るから、到底一日じゃ終わらなくて」
「えええ?」
「おまけに、それだとお願いしてたカメラマンの方がしばらく海外行きで予定が合わない上に、他のカメラマンも予定が詰まってるって、今の所全滅なのよ。こうなったら仕方がないけど、私が現地に飛んでくるわ」
「え? どこに?」
「新潟と秋田」
「それは……大変ね」
「あー、もうっ! 今のところ他に納期が迫ってる仕事がないのだけは救いだけど、せっかくの婚活の予定も組み直しよ。やってらんない!」
香織は口をへの字に曲げたまま立ち上がり、「色々手続きする前に、ちょっと気分転換してくる」と、去っていった。
「森井先輩、大変っすね……」
「え、ええ。そうね……」
その背中を見守る憲太が心配そうに言うのに、葛葉もまた頷いた。
だがその次の瞬間、憲太が打って変わって「あっ!」と明るい声を上げた。ぎょっとして葛葉は再びそちらを見た。
「そういえば、虎月先輩! 聞いてください!」
「ど、どうしたの?」
「実は、フランスの有名ショコラティエのティグ・ロッソが、来週来日するっていう話をキャッチしましたよ!」
「え?」
「なんでも、来年東京に一号店を作るらしいっすよ。俺の友人が不動産関連の会社で働いてるんすけど、そこからの情報っす」
意気揚々と語る憲太の突然の情報に面食らったが、その名前には葛葉も聞き覚えがあった。
「ティグ・ロッソって、確かちょうどバレンタイン特集でも新作ショコラを取り上げようとしてたショコラティエじゃない」
「そうなんすよ! これはチャンスだと思いませんか!?」
憲太は立ち上がり、身を乗り出してガッツポーズを見せてきた。
「俺、何とか直接インタビューできないか、友人に話を付けてこようと思ってるっす! もしうまくいけば、かなりの注目を集めること間違いなしっすよ」
「え、ええ。確かにそうね」
「よーし! やる気出てきたぞー! ちょっとページ調整お願いすることになると思うんですけど、絶対いい記事にしますんで、期待しててください!」
やる気を見出せずにぐだぐだと燻っていた、さっきまでの憲太はどこへやら。
自分自身で掴むチャンスというものは大事だ。それが成功すれば、大きな自信にもつながる。
ぜひとも、憲太にはそのチャンスをものにして欲しい。先輩として、心からそう思う。
(思う……んだけど……どうしよう)
葛葉はデスクの上に置いたばかりの、資料に目を落とした。
先程、利佳子と話し合って来た案件だ。
(香織はイレギュラーな事態でそれどころじゃないだろうし、小西君もせっかくやる気を出しているんだから、満足がいくまで今の記事に専念させてあげたいし……)
となると……
(とりあえず、私だけでやってみるしかない……か)
周りのスケジュールをある程度把握して判断したつもりだった。とはいえ、利佳子からのヘルプを引き受けたのは葛葉の独断だ。
こういうケースを全く想定していなかったわけではない。
(とりあえず、自分一人でやるだけのことをやってみよう)
もともと、旅行関連やおもたせ関連の企画を考えるのは、葛葉の得意分野であり、好きな作業でもある。
(自由時間をある程度返上すれば、何とかなるはず)
何とか己を奮い立たせるべく、大きく深呼吸した。
それから幾日間、息をつく暇さえなかった。
増刊号の企画自体はこれまでこつこつと貯めてきたストックから引き出し、スムーズに提出でき、通すことができた。
しかし、穴が大きかっただけに、ページ数がページ数だ。
それに増刊号となると注目度が高く、また質も高い記事が求められる。
急遽空いた穴を埋めるための突貫工事的な記事とはいえ、手を抜くことは決して許されない。取材先へのアポ取り、カメラマンやライターへの依頼……すべてを迅速かつ注意深く進める必要があった。
(これは思いの外、大変かもしれないわね)
唯一の救いは、こういった葛葉の業務は、必ずしも出勤中でないと出来ないということばかりではないということだ。
根を詰め過ぎると煮詰まりそうになることがある。だから、無理に社内で全てをこなそうとはせず、適度な所で切り上げて自宅で業務の続きをする。そんな毎日を送っていた。
とはいえ、家での作業は時間の区切りがつけにくくもある。食事や睡眠の時間を、ついうっかり削ってしまうということもしばしばだ。
何よりの憩いの時間でもある大好きな家飲みタイムをとれないというのは、葛葉的には死活問題だ。
(まあでも、とりあえずこのペースで進めていけば、納期に間に合うし)
やるべきことを早くやり遂げて、思う存分ストレスを発散しよう。
そう心に決めて、今日もまた帰宅ラッシュを避けた遅めの電車を降りた。足早に改札を通り過ぎ、そのまま自宅マンションへと急ぐ。
徒歩十分という距離でさえ、今は惜しい気がした。
間も無く夜空を背景にそびえ立つ、自宅マンションの灯りが見えてきた。――その時。
「葛葉ちゃん」
突然、背後から呼び止められた。
ぼんやりとした思考のままで振り返ると、そこには蔵王がいた。
どうやら、蔵王もちょうど帰宅途中だったらしい。
もしかすると、駅で葛葉を見かけて小走りに追いかけてきたのかもしれない。
でも今は、蔵王を相手にしている余裕はない。
一刻も早く家に帰って、仕事を進めたい。あれやこれや頭の中で整理しまとめてきたことが、蔵王と会話することで抜け出ていってしまう気がした。
「ごめんなさい。今ちょっと考えごとしてるから、一人にしてくれる?」
それだけ言って踵を返して立ち去ろうとしたところ、後ろから蔵王に腕を掴まれた。
「そうしたいのは山々なんだけどさ。葛葉ちゃん……さっきから歩き方おかしいよ? 疲れてるんじゃない?」
「え?」
咄嗟に振り返って顔を上げると、蔵王と目が合った。
いつもの穏やかな表情は、そこにはなかった。こちらをじっと見据えてくる蔵王の目が、真剣そのものだ。
「暗くて顔色はよく見えないけど、なんか表情も覇気が無いし。ちゃんと休めてる?」
どこか詰問するような声音と、こちらの体調を見極めようとする真っ直ぐなまなざし。
(そういえば、私が無理をし過ぎた時は、いつも決まってこんな風に、私のことを心配してくれていたわよね)
幼い頃は、あの優しさがとてもありがたかった。でも、今はその優しさに甘えている場合ではない。仕事に対して全力で踏み込んでいるアクセルを、一秒たりとも緩めるわけにはいかないのだ。
「ちょっと寝不足なだけよ」
葛葉は蔵王からすっと目を逸らし、反射的に蔵王の手を払いのけてしまった。
(あ。しまった)
心配してくれた相手に対する行為として、さすがに失礼な態度だろう。
そう思って振り返り、「ごめん。本当に大丈夫だから」と言おうとした。
けれど、それは言葉にならなかった。
(あれ?)
目の前が一瞬チカチカとフラッシュアウトしたかと思うと、その後――ぐらりと、視界が大きく揺れた。
倒れる――!
次の瞬間にはもう、葛葉は意識を手放していた。
「葛葉ちゃん!」
蔵王が叫ぶ声。珍しく取り乱したようなその声だけが、わずかに耳に残った。
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