第4話
慌ててスマホを取り出すと、反射的に通話ボタンを押してしまった。
「はい、もしもし?」
電話の向こうは少しの間があった。
妙な胸騒ぎを覚えて、葛葉は顔をしかめた。
すると、
『京都をしばらく離れてるうちに、えらい東京生活を満喫したはりますなあ』
ピリリとした声音に、葛葉はびくりと震えた。
「お……おばあさま?」
まさかの相手に、一瞬、硬直してしまった。
(な、なんで!? なんで急におばあさまが!?)
『へえ、私の声、覚えてくれてたんかいな。そらおおきに』
久しぶりに聞く祖母の声は、しらじらしいほどに落ち着いている。
昔から機嫌が良くない時は、いつもこんな感じだった。
確かに、最後に連絡したのは、まだ大学生のころだった気がする。
しかも、勉強が忙しいので帰省はしないという、短いメールを入れただけだ。多少嫌味を言われたとしても、それはそれで仕方ないかもしれない。
「長く連絡してなくて悪かったと思ってる。でも、私もそれなりに仕事で忙しかったのよ」
『そうか。そらまあ、結構なこっちゃな。充実した生活で何よりや』
「おかげさまでね」
はたから聞いていると、祖母と孫の会話にしてはそっけなく思えるだろう。
それでも、淡々と話を進めて、さっくりと切り上げたい。そう思っていたのだが、祖母の声音がわずかに低くなった。
『せやけどな、葛葉。あんた、そろそろ、こっち帰っといで』
ぽんと投げられた言葉に、一瞬、思考が停止した。
「……京都に帰る? どうして急に」
思わず、不信感が漏れ出てしまう。
でも、雅世もそんな葛葉の心境ぐらいわかったうえで連絡を付けてきたのだろう。
『虎月家の娘として、あんたにしてもらわなあかんことがあるんや』
何ともあっさりした口調で命令してくるのに、葛葉は呆気にとられた。
「いきなり電話してきて、何を言うかと思えば。さっきも言ったけれども、私は仕事もあるのよ?」
『そんなん、わかってるわ。あんたがどこで何してるかくらい、とっくに調べはついてるんや。その仕事かて、うちがあんたのために小さい頃から色んな事さしたげたから就けたようなもんやろ』
「それはまあ、役に立つことは確かにあるけど、私に選択肢がなかった小さい頃のことなんて、引き合いに出されても困るし。こっちにきてからは、私だって自立して……」
『おなじみさんのところに、取材や言うてお世話になってるんを知らんと思てるんか』
「それは……」
雑誌の編集をする中で、実家はともかく、まったく京都に帰らなかったわけではない。
当然、老舗のつながりで出会った昔馴染みの方に、何度かお世話になったこともある。
けれども、それは仕事の上でやむを得ないものであって、雅世にことわりを入れるようなものではないはずだ。
(それなのに、なんなの? この言い草は)
葛葉はぎりりと唇を噛んだ。
『これまで十分、うちの顔も使わしたげた。こんだけ長いことあんたの好きにさしたげたんや。もうええ加減、こっちに帰ってきてもらうで』
「そんなこと言われて、はいそうですかなんて言えるわけないでしょう」
『これ以上、あんたの勝手を聞くつもりはあらへん。十年前、決まっとった縁談をあんたが断って東京に行ったせいで、こっちはどんだけ大変やったか。忘れたとは言わさへんで』
ぴしゃりとたたきつけられた言葉に、葛葉は顔をしかめた。
『相手さんともよう話をしてええ感じに進んでたのに、あんたはそれを反故にしてしもた。自分がしたことで、どんだけの人間に迷惑かけたんか、ようよう胸に刻んで考えるんやな』
そう言い切られて、そのまま一方的に通話は終了してしまった。
「急に何なのよ……」
スマホを投げつけたくなる気持ちを抑えながら、電話を切った。
(まだやっぱりあの時のことを言われるのね。当然かもしれないけど……)
十年前、まだ高校生だった葛葉は、雅世によって強制的に縁談を組まれた。
跡取りとしての道が断たれてから数年が経っていたとはいえ、それを受け入れることは、葛葉にはまだ出来なかった。
(ああ、思い出すだけでも嫌な気分になる)
はあ、とため息が漏れ出て来る。
あの頃、将来が閉ざされてしまったような気がして、鬱々とした気分で毎日を送っていた。
(でも、なんだかの拍子に雑誌を見て、夢ができたのよね)
国内外の旅行雑誌やグルメ雑誌を読んでいると、まるでそこに旅行したような気分になれた。色んな地域のお土産やお取り寄せグルメの紹介を読んで、その土地や味を想像するのは幸せな時間だった。
そうこうしているうちに、葛葉の中で一つの夢ができた。
『雑誌の編集者になりたい』
色んな地域を巡り、珍しい土産物に出会ってみたかった。さらに自分が感動を覚えたものを色んな人にも知ってもらうことを仕事にできるなら、これほど嬉しいことはない。
けれども、そんな葛葉の希望を、祖母の雅世が許すとは思えなかった。
だから、こっそりと準備を進めて、出版社が多くある東京の大学を受験した。
そして、家出同然で京都を出た。
当然ながら、貯えなどほとんどなく、片道切符を手にしただけのあまりに無謀な家出だった。上京した当初は住み込みでアルバイトをして、学費や生活費は何とか自分で稼いで生活してきた。そして、大学卒業後はそのまま、誰にも相談することなく出版社に就職した。以来、九年間ずっと東京に居る。
一度たりとも実家に帰っていないことに、少し後ろめたさはある。それでも、不思議なほどにこの約十年の間、誰からも音沙汰がなかったことが、いつも頭のどこかで引っかかっていた。
でも、まさか今になって突然連絡してきて、帰ってくるようにと命じられるとは思ってもいなかった。
おまけに目の前には、幼い頃から一緒だった蔵王が偶然にもここに居る。
(……まさか)
さっき感じた違和感の正体。蔵王がなぜ、葛葉の居場所や仕事を知っていたのか。
蔵王がここに居るのは、本当に偶然なのか。
葛葉はゆっくりと蔵王を振り返った。
「蔵王。あなた……もしかして、おばあさまの差し金?」
「今の電話、雅世様から?」
「ええ。そうよ」
蔵王は困ったように苦笑すると、少し天井を見た。
「まいったね」
「どういうこと?」
葛葉は蔵王をじっと見つめた。
すると、蔵王は、わずかに両手を上げた。
「差し金のつもりはないけど、君の意見を聞きに来たのは確かだよ」
胸の奥はひどく冷静だった。
いや、冷静ではなかったのかもしれない。
心の奥底は冷え切っていながらも、氷の芯に火が灯った。
「出てって」
ぽつんと言葉が自然とこぼれ出た。
「葛葉ちゃん?」
蔵王が葛葉へと手を差し伸ばしてきた。けれども、葛葉はその手を払いのけ、思いっきり睨み付けた。
「いい人面して私に近づいて、要するに、私を京都に連れ戻そうとしてたってことでしょ?」
「雅世様に、君を連れ戻すよう頼まれたのは事実だ。だけど、無理矢理どうこうするつもりじゃなかったんだよ」
「御託は結構。おばあさまに頼まれて、あなたはそれに従って動いてる。その事実だけで十分よ。今の私は、昔の私じゃない。自分の意志で努力して、必死にここまでやってきた。もうこれ以上、私の人生を誰にも邪魔させる気はないわ。出てって」
再度口を開こうとした蔵王を、ぐいぐいと部屋の外へと押し出す。
「葛葉ちゃん、僕は」
なおも言いつのろうとする蔵王を一瞥すると、扉を勢いよく閉めた。
そして、がちゃりと鍵を二重にかける。
(……さようなら、蔵王)
彼が葛葉の人生における登場人物になることは、二度とないだろう。
二十年近くも会っていなかった相手なのだ。今更未練もない。
……はずなのに、なぜだろう。
胸の中に大きな空洞ができてしまったような気がして、知らず知らずのうちに、一筋の涙がこぼれ落ちた。
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