第5話
翌日、葛葉はいつも通りに起き、電車に乗って出社した。
けれど実のところ、目の下のクマを化粧で隠すのが大変だった。
(昨日いろいろあったから、色々考えすぎて寝られなかったのよね)
だからといって、翌日休めるわけでもない。
とはいえ、昨日はイレギュラーなことばかりだったので、こうしていつも通りの生活を送れることが、ありがたくもある。
「葛葉ー! おはよう」
編集部についてすぐに声をかけてきたのは、同期の
「この間お勧めしてもらったクッキー、さくさくほろほろで美味しかったよ。ありがとう!」
「あ、俺も食べました! 甘じょっぱいチーズ味で、ついビールに伸びる手が止まらなくなるんすよね」
向かい側のデスクから興奮気味にそう言ってきたのは、後輩の
二人とも、「大人の暮らし手帖」における葛葉と同じ部門に所属し、旅行関連の記事を書いている。
「そう、よかったわ。今度またいいものがあったらお勧めするわね」
自分がよいと思ったものを褒めてもらえると、素直に嬉しくて、自然に顔が綻んだ。
次は何を紹介しようかと考えていると、香織がふと思い出したように言った。
「そういえば、今日からしばらく、外部のウェブデザイナーが来るって話、知ってる?」
「ええ、もちろん。確か、ウェブ版情報誌のリリースに向けて、協力してもらうのよね」
確か、幅広い年齢層の興味を引きやすい、旅行関連の記事から掲載していくという話だったはずだ。
「デザインのひな型を作ってもらって、中身は私達の方で定期的に更新していくって聞いてるけど」
「そうそう。で、そのウェブデザイナーてのがさ……噂ではめっちゃイケメンらしいのよ」
香織が声をひそめるようにして言った。
「相変わらずそういう情報は早いわね」
くすくすと笑うと、香織は「もちろん!」と拳を握る。
「しかも業界じゃ名の知れた、敏腕デザイナーらしいし。仕事もできるイケメンとか、最高じゃない? ああ、早くお目にかかりたいわー!」
「いやいや。そんな男普通にいませんて。森井先輩、ドラマの見すぎじゃないっすか?」
「うるさい! 小西、あんたほんと、後輩のくせに生意気なんだから」
「ああっ、お許しをー!」
憲太の頭をげんこつでぐりぐりし始めた香織に、葛葉が再び苦笑いしようとした、その時だった。
突然、編集部の入り口の方が騒がしくなってきた。
中でも女性社員の黄色い声が目立つ。
「噂をすれば、お出ましなんじゃないっすか?」
「えっ、うそ! もう来たの? 化粧直ししてきたらよかった」
香織が慌ててコンパクトの鏡で化粧ノリをチェックしている。
(イケメンだとかはさておき、仕事のしやすい相手だといいけど。どんな人かしら?)
香織を横目に声のする方向を振り向き、その人物を見た瞬間、思わず目を見開いた。
(見間違い?)
いや、そんなことはない。
周囲ににこやかな笑顔を振りまきながら、颯爽と歩いてくる長身男性。
それは、紛れもなく、
「え、え、えええええ!?」
昨晩再会し、そして追い出した幼馴染――蔵王、その人だった。
「虎月先輩、どうしたんすか?」
「え、ああ、いや。ちょ、ちょっと用事を思い出して」
顔を引きつらせ、思わずその場から離れようと試みたのだが、時すでに遅し。
「今日から一緒にウェブ企画を進めることになりました、デザイナーの郁嶋蔵王です。どうぞよろしく」
「私は編集長の稲川利佳子です。こちらこそよろしくね。まさかあなたみたいな人気デザイナーさんに依頼を受けてもらえるとは思っていなかったから、感謝しているわ」
「いえいえ、紫陽社さんの雑誌は記事の内容が濃く、読みごたえがあると感じていました。しかも、レイアウトも秀逸で、見習わせていただくことがたくさんありそうです。今回このように一緒に仕事ができるなんて光栄です」
編集長と蔵王が握手を交わしている。もう、仕事は始まってしまっているのだ。
愕然としたままその様子を見守っていると、不意に蔵王がこちらを見た。
視線が合ってしまい、硬直する葛葉に、蔵王はにっこりと微笑んできた。
その笑みを見て、葛葉は瞬時に理解した。
(こ、こいつ! 私が勤めてるって知っててここに来たのね!)
敏腕デザイナーとして名をはせていたことは予想外だった。しかもまさか、ここまで手をまわしてくるとは思ってもいなかった。
(きっとまた、おばあさまの差し金に違いないわ)
そういえば、祖母は自分の目的のためには手段を選ばない人だった。
葛葉は内心で唇を噛んだ。
何とか距離をとりたいが、相手は仕事の契約者だ。
「それじゃあ、まずは旅行部門との企画から進行してもらうわね。旅行部門の皆、ちょっと来てくれる?」
利佳子からそう呼ばれてしまっては、素直に行くしかない。
「こちら、以前から話していたウェブデザイナーさん。お互いわからないことは教え合いながら、進めていってちょうだいね」
「郁島蔵王です。よろしくおねがいします」
さわやかな笑みに、何ならフレッシュミントの香りまで飛んできそうだ。
香織は頬を染め、同性の憲太まで妙に狼狽えている。
(一体何なの? この状況は)
ひくひくと口元を引きつらせたまま何とか笑みを作る。
口では「よろしく」と言いながらも、
(私、これからどうしたらいいの!?)
心の底で、そう叫ばずにはいられなかった。
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