第3話
すると、そこには葛葉より頭一つ分は背の高い、男の姿があった。
「よかった。やっと開けてくれたね」
インターホン越しではない心地よい声音が、葛葉の耳に優しく響く。
一瞬どきりとして、葛葉は改めて目の前の男性を凝視した。
ちょっとカジュアルな紺色のスーツがよく似合っている。
人当たりはとてもよさそうで、爽やかな好青年と言えば聞こえはよい。しかし、柔らかく微笑んでいるはずなのに、どこにも隙がない。
昔の面影を残している部分といえば、心の奥底で何を考えているのか読めない、いたずらっ子のような目だ。
だけど、その目がとても優しく葛葉を見つめてくるのに、思わず葛葉は動きを止めた。
ぼんやりしていると、蔵王の後ろで扉がかちゃりと音を立てて閉まった。
「改めて……葛葉ちゃん、久しぶり」
目の前で名を呼ばれ、葛葉は声が上ずりそうになるのを必死で抑えた。
「ひ、久しぶりね。本当に。随分会ってないから、誰だか一瞬分からなかったわ」
「それはそうだろうね。僕が君に最後に会ったのは、十八年前だからね」
十八年前。葛葉は十歳で、蔵王は十三歳だった。
お互いまだ子供で、少しだけ成長の早かった葛葉の身長は蔵王とほとんど変わらなかった。あの時同じだった目線は、今では見上げなければ合わない。
線が細かった子どもの体形とは違い、明らかに型幅も広く、男らしくなっている。
あまりの変化に、何と言っていいかわからないし、どこを見ていいのかもわからない。
「当然だけど声も変わっちゃったし、こんなに背が高くなっていたなんて、びっくりした」
どこか戸惑いながらそう言うと、蔵王は少し目を細めて、眩し気にこちらを見てきた。
「僕も、またこうして再会できたことが嬉しいよ。どんな子になってるだろうって、会えるのを楽しみにしてたから。昔から可愛かったけど、もっと綺麗で可愛くなったね」
「か、かわ!? ど、どこがよ。恰好だってこんな部屋着だし……」
ごにょごにょと俯きがちに言うと、蔵王はわずかに小首をかしげた。
「部屋着いいじゃない。ばっちりキメてなくても、自然体な方が僕は好きだけどな」
(好き!?)
さらりと投げかけられた言葉に、さらに頭を殴られたような衝撃を受ける。
「ああ、でも女の子だから、色々気にしちゃうよね。急にお邪魔して、むしろ、ごめん」
わずかに申し訳なさそうに謝られて、ますます頭が混乱した。
顔立ちが整っているとか、美人だとか言われることはそれなりにあったが、可愛いと言われたことはほとんどない。
(しかも男性に。な、なんなのこの破壊力は!)
思わず頭を抱えて叫びたくなったが、お世辞ということも大いにある。
ここは冷静にと、心の中で深呼吸する。
顔面を整えて、にこりと作り笑顔を浮かべた。
「社交辞令でも嬉しいわ。とりあえず、玄関で立ち話っていうのもなんだし、上がっていく?」
「ありがとう。じゃあ、少しお邪魔させてもらうよ」
どこか気持ちはざわざわして落ち着かない。けれども、もうお互い大人なのだ。
(こういう機会に旧交を温めるっていうのも、悪くないのかもしれないし)
社会人としておもてなしすることに腹をくくり、リビングの扉を開けた。
しかし、その瞬間、目の前に広がる光景を見て、はたと我に返った。
(し、しまった。すっかり忘れてた!)
リビングの奥には段ボールが積まれ、殺伐としている。一方、手前のダイニングテーブルは、宅飲み感満載なテーブルセッティングだ。
もう、背後には蔵王が迫っている。片付ける余裕はかけらもない。
考えている間に、蔵王がひょいっと部屋を覗き込んできた。
「へえ、ここが葛葉ちゃんの部屋なんだ」
「そ、その、忙しくてなかなか片付けられてなくて」
内心で大量の汗をかきながら顔をひきつらせていると、蔵王はくすりと微笑んだ。
「ああ、そんなこと気にしないでいいよ。僕の部屋も似たようなものだしね」
そう言いながら、蔵王の視線がテーブルの方に移る。
「もしかして夕飯中だった?」
「あ、うん。そうだけど……」
机の上には、今まさに食べようとしたままの状態で置かれた、海の幸と日本酒がある。
これを見せておきながら追い返すのも、なんだかひどいことをしている気がする。
「えっと、良かったら、蔵王も一緒に食べる?」
おずおずと尋ねると、蔵王は少し驚いたように目を丸くした。
「急に押しかけて来たのに、さすがにそこまでは申し訳ないよ」
「構わないわ。おもたせまでいただいてるし、そのお礼ってことで」
席を促すと、蔵王はわずかにためらう様子を見せた。
けれども、少し考えながらも遠慮がちに頷いた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
にっこり笑って席につく蔵王を置いて、キッチンに戻る。
来客用の茶碗に盛り付けたご飯と箸、そしてお猪口をテーブルの向かい側に設置した。
「どうもありがとう。結構ちゃんと生活してるんだね」
「そりゃあまあ、もう一人暮らしして十年ぐらいになるしね」
「もうそんなになるんだね。そういえば、小さい頃は京都弁だったけど、言葉遣いも変わったね」
「そうね。学生同士だけなら京都弁のままだったかもしれないけれども、実家には全く帰らないし、結構バイトもしてたから、自然とね」
「ああ、確かに触れる機会が少なくなったり、社会人になるとそうなるよね」
「そういう蔵王こそ、どうして小さい頃からずっと標準語だったの?」
記憶の中の蔵王は、今と話し方が全く変わらない気がする。今更ながらに理由が気になった。
蔵王はそれに少しだけ虚を突かれたように、目を丸くした。
「確かに母は京都弁だし、不思議に思うよね。でも、僕の父は関東の人だったんだ」
「ふぅん」と聞き流しそうになった。
「ちょっと待って。蔵王がお母さんと一緒に虎月家に来たのって、私が生まれた頃だから、三歳よね?」
「うん。そうだよ。物心つくのが早い方だったし、もうその頃には普通に喋ってたからね。あとはそこから大人が多い環境で育ったせいかな。気が付けばこんな感じだったよ」
葛葉の知らない時間の蔵王の顔は、きっとたくさんあったのだろう。
だけど、にこにこと笑う蔵王に、それ以上のことを聞くことは出来なかった。
「あ。どうぞ食べて。せっかくのご飯とお酒が冷めちゃうわ」
少し落ち着かなくて、慌てて膳を勧めた。
「ああ、そうだったね。それじゃあ遠慮なく、いただきます」
蔵王が両手を合わせ、箸を手に取る。
それを見守って、葛葉もまた箸を持った。
まさかの訪問者のおかげで予定より少し遅くなってしまったが、仕切り直しだ。
二人分に取り分けた海鮮漬に、ゆっくりと箸を運ぶ。
(まずは主役のアワビから!)
めかぶとイクラの上に鎮座したアワビをつまみ、口の中へとダイブさせた。
くにゅりとしながらもしっかりと歯ごたえのある大ぶりのアワビを噛めば、じわりと貝のうま味がしみ出してくる。
そこにくいっと、ほんのり温い日本酒を流し込む。
「ふわっと鼻に抜ける香りが、いい感じに貝のうま味と溶け合ってる。これ以上ない最適解の味ね」
続いて、とろりとしためかぶとイクラを、白米にワンバウンドさせる。うま味をギュッと凝縮した濃厚な醤油出汁がしっかりと沁み込んだ、真っ赤な宝石――イクラが、プチリと口の中で弾ける。
最後に白米を口内に放り込む。
「白米の甘みと、すべてのエキスが溶け込んだ粘り気のあるたっぷりしみしみのお出汁。はああ、最高。北国の海の幸。現地で食べたいなあ」
口内に広がる大海原に、葛葉は恍惚とした表情を浮かべ、思わず吐息を漏らした。
「確かにね。地のものをその土地で食べる。新鮮さとその土地の空気も相まって、よりおいしく感じられるよね」
「そこから持ち帰るお土産もまた格別なのよね。旅の余韻に浸れるし。おもたせを渡せば、渡した人にもその土地の空気のおすそ分けも出来て、二度楽しめる」
「最近は、こうやってちょっと離れたところのものも気軽に取り寄せできるから、便利だよね」
「そう! そうなのよ。一度行ったところのあの味がまた食べたい。でも時間がない! なかなか行けないっていう時に最適なのよ! 家でのんびりじっくりしっとり味わうとか、もうたまらないシチュエーションよね!」
「わかるよ。それにしても、葛葉ちゃんって、随分おもたせとかお取り寄せグルメが好きなんだね」
「ええ。何なら、そのために毎日汗水流してお金を稼いでるって言っても過言じゃないわ!」
思わず身を乗り出して拳を握り、力説している自分に気が付き、葛葉ははっと我に返った。
蔵王が楽しそうにくすくす笑っているのを見て、一瞬にして現実に引き戻される。
(……わ、私、もしかしなくてもやっちゃった!?)
一気に頭に血が昇っていく。
「ち、違う! 普段は違うんだからね! こんな風に人前で語ったりとか……そういうことは全然ないんだから!」
必死に弁明すればするほど、空回っているような気がする。
(ああ、もう、私ったら何やってるのよ!)
頭を抱えて身を縮こまらせていると、蔵王がふわりと微笑んだ。
「ああ、やっぱり葛葉ちゃんのそういうところ好きだな。変わってなくて安心したよ」
「……え?」
「好きな物を熱く語れるのっていいことだと僕は思うよ? 昔から、そうやって色んな所のお土産を食べては細やかな感想を言って、いつかこういうことができたらなぁって思うことを楽しそうに話してくれてたよね」
葛葉は「えっ?」と声を上げた。
(私、そんな、恥ずかしいことしたかしら?)
思い返してみれば、なんとなく思い当たることがあるような気もする。
フランス土産のチョコレートを食べながら、まだ見ぬパリの街に憧れたものだ。
「……言われてみれば、そうだったかも」
とはいえ、幼い頃から成長できていない自分を見るようで、どことなくいたたまれない。
「僕は葛葉ちゃんがそうやって話をしてくれるのを聞くのが、すごく好きだったな」
蔵王が懐かしそうに微笑みながらそう言ってくれるので、ちょっと気持ちが落ち着いた。
「あの頃はおばあさまはお仕事で忙しいし、私はお稽古で忙しいしで、行きたいところがあっても行けなかったのよね。いつか行ってみたくて、色んな事を想像してた気がする」
「でも、それ、今の葛葉ちゃんの仕事の役に立ってるんでしょ?」
「まあ、全く役に立ってないわけでは、ない、かしらね」
「それなら、こんな風に食を楽しめるって、むしろとてもいいことだと僕は思うけどね」
「蔵王……」
ありがとう。と言いかけて、ふと、固まった。
(ん? なんで蔵王は、私の仕事の内容を知ってるの?)
突然ふってわいた疑問に眉をひそめた、その時。突然、仕事用鞄の中に入れっぱなしだったスマホが鳴った。
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