第2話
缶ビールのプルタブを開けると、プシュッと圧縮されたガスが漏れる。
キンキンに冷えたそれを一気に喉に流し込み、葛葉は「ぷはー!」と勢いよく息を吐き出した。
「ああ……至福」
葛葉はふかふかのラグに寝そべり、身を沈める。
仕事用の綺麗目かっちりスタイルから、Tシャツの上にもこもこのビッグサイズパーカーを羽織り、ショートパンツを合わせたお部屋コーデに切り替えて緩く過ごす。
仕事から自宅に帰ってくつろぐこの時間が、一日の中で一番好きだ。
葛葉の自宅は職場から電車で一本の錦糸町駅から北に徒歩十分ほどの場所にある、築十年のマンションの一室だ。
玄関扉を開けると、一つの扉を隔ててリビング兼寝室になる。十一畳の1Kタイプの部屋はモノトーン調で、落ち着いた印象だ。家具と言えば小さなテーブルと椅子、ベッドぐらいなものだ。特徴といえば、カウンターキッチンがあることと、大きな窓があることだろうか。南向きの自然光が入る大きな窓が気に入って、この部屋を見た時に即決し、約五年前から住んでいる。
学生時代はアルバイトをしながら学費と生活費を賄っていた。無駄遣いは出来ず、住んでいたのは古い四畳半の格安アパートだったのだ。そんなこともあって、ここに入居した時は、夢の城を手に入れた気分だった。
とはいえ、仕事に奔走するあまり時間がなくて、ちゃんと整っているとはいいがたい。部屋のあちこちにはまだ引っ越し当初のまま、ダンボールが積まれていたりもする。
それでも、そんな我が城で、疲れた体を癒す一杯が至福と言わずなんと言おう。
このままずぶずぶと沼に沈んでいきたいところだが、それではお誘いを断ってまで帰ってきた意味がない。
「そうよ。ゆっくりしてる場合じゃない」
葛葉はすくりと立ち上がると、冷蔵庫へと向かった。
冷蔵庫を開けるとそこにはプラスチックのパッケージが鎮座していて、葛葉の顔が一気に綻んだ。
「これこれ。今日一日これを楽しみに生きてたのよ!」
取り出したのは、先日、ネットで注文したお取り寄せグルメの海鮮漬だ。イクラとメカブとアワビがたっぷり入っている、ちょっと贅沢なこの一品は葛葉のお気に入りだ。
パッケージを開けて中を見ると、冷凍されていたそれは程よく溶けて食べごろのようだ。
(後輩ちゃんには悪いけど、今朝解凍しちゃったから、どうしても今日中に食べたかったのよね)
こんなものと人間関係を比較するのか!? と、ご批判を受けそうだ。
葛葉がこんな生活を送っているとは、誰も夢にも思わないだろう。
けれども、葛葉にとってご褒美ご飯は人生の色どり。何物にも縛られない至福のひと時。ハッピーお取り寄せ生活なのだ。
(一人きりでわびしいものよと言われようとも、これはこれでおつなものよ)
鼻歌を歌いながら、出かける前にセットした炊飯器をチェックする。十九時に炊ける設定にしていた白米は、ばっちり保温状態だ。
さっそく黒い美濃焼の小皿に海鮮漬を移す。
とろりとメカブの粘りが糸を引き、赤い宝玉のようなイクラがきらきらと照明の光を反射している。最後に大ぶりのアワビをてっぺんに飾ると完成だ。
「うーん。こうなってくると、もう一声欲しい気が……」
少し考え、葛葉は「あっ」と声をあげると、すかさず食品棚に戻り、あるものを取り出した。
「やっぱり、これには日本酒よね」
ビールにも、もちろん合う。でも、少しだけ夜の冷気が気になり始めた今の季節に、燗をしたお酒はもってこいだ。
鍋に湯を沸かし、小皿と揃いの黒い美濃焼の徳利に日本酒を入れてぬる燗にする。
ご飯を盛りつけ、小皿と共にテーブルにセッティングして、ようやく葛葉は席についた。
これにて、準備は万端だ。
「これでよしっと。ご褒美ご飯、いただきまーす!」
うきうきとしながら、燗された日本酒をお猪口に注ごうとした、その瞬間だった。
ピーンポーン! と、インターホンの音が鳴った。
葛葉の手がぴたりと止まる。
(こんなタイミングで誰なの!?)
都会の単身者向けマンションで、夜中に尋ねてくるような知り合いも近所にはいない。
こんな時間に訪れてくる人といえば、しいて言うなら宅配業者の人ぐらいだろうか。
もしくは怪しげな勧誘業者かもしれない。
こういう時は、テレビモニタ付きインターホンがある部屋ならよかったのに、と後悔する。
けれども、それがついている部屋は一万円も家賃が高かったのだ。悩んだ末に、安い方を選択した。
手に持ったお猪口とインターホンを見比べる。
(せっかくのぬる燗が冷めちゃう)
ぐぬぬと口をへの字に曲げながらも、苦渋の決断でお猪口を置く。葛葉はため息交じりで、インターホンに出た。
「はい。どちら様ですか?」
『あ、こんばんは。葛葉ちゃん、お久しぶり』
インターホンを通して響く、少し低いテノール。
この声に聞き覚えはない。
(え? 何? 何なの? いったい誰!?)
予想外に馴れ馴れしい反応に面食らっていると、扉の外の人物は言葉を続けた。
『覚えてないかな? 蔵王です』
ぽんっと耳に飛び込んできたその名前が、胸の奥で波紋を広げた。
(……え?)
この特徴的な名前には、確かに覚えがある。
おまけに、葛葉を「ちゃん」づけで呼ぶその口調。
――いつか、君を迎えに行く。だから、待ってて。
記憶にあるのは、今聞こえてくる声よりもずっと若く、幼い声だ。
だけど、人生が変わってしまったあの日の思い出が、脳裏に鮮明に映し出された。
「ざ……おう? 蔵王って……も、もしかして、昔うちにいた、あの蔵王?」
『うん。随分久しぶりだから、もう忘れられてるかもって思ってたんだけど。覚えてくれてたんだね』
インターホンの向こうの声は少し弾んでいた。
どうやら葛葉の推測は間違いないらしい。
「それは、覚えてるけど……」
蔵王とのことは、今でも忘れることのできない思い出だ。
虎月家の敷地内の離れで暮らしていた蔵王とその母は、仕事で忙しかった祖母の代わりに葛葉と共に時間を過ごしてくれた。
特に、蔵王は優しくて頼れるあこがれのお兄ちゃんであり……初恋の人だった。
(でも、それも一瞬の夢のようなものだったけど)
なにしろ蔵王が中学生になると同時に、二人は虎月家を出て行ってしまったのだ。
それから十八年、消息は分からず、一度も会うことはできなかった。
蔵王に会いたくて、色んな人に消息を聞いた。けれども、みんな一様に硬く口を閉ざして教えてくれなかったのだ。
真相はよくわからない。でも、今思えば、花嫁修業を始めた葛葉から、蔵王を雅世が遠ざけたのだろう。
だけど、そんな蔵王が、どうして今ここにいるのか。
『ちょっと、仕事で東京に来てね。葛葉ちゃんもこっちにいるって聞いたから、ご挨拶にと思って』
「ご挨拶って……わざわざなんで?」
『葛葉ちゃんに会いたかったから。っていう以外に、理由って必要なのかな?』
「っ……」
甘い声に脳を揺さぶられ、葛葉の視界はぐらりと揺れた。
(蔵王って、こういう人だったっけ!?)
危うく高鳴りそうになる胸を抑えて、
「そ、それは、その……会いに来てくれたのは嬉しいけど」
何とかそこまで言ったものの、口籠ってしまった。
十八年ぶりに会う幼馴染と、どんな顔で会えばいいというのだろう。どんな話をすればいいのだろう。
あまりに突然のことで、心の準備が全くできていない。
(って、そもそも私、今、人に会う格好じゃない!)
こんなラフな部屋着姿を、かつての憧れの人にさらしたくなどない。
慌てて周囲を見渡した。
(急いで服だけでも着替える? 仕事着じゃないちょっといけてる服とかあったっけ? っていうか、部屋! こんなダンボールまみれの部屋にあげるの!? 無理無理無理)
受話器を手にしたまま、部屋の中を右往左往する。足は目隠し用のベッドカバーを取りに行こうとし、片手はテーブルの上を片付けようとする。
(どうしよう。どうしよう!?)
結局何もできずにいると、インターホンの向こうから『あ』と声が漏れた。
『誰かこっちに来たみたい。どうしよう?』
「えっ!? 誰かって……」
『多分、ご近所さんかな? ずっとここに立ってるのも変に思われるし、せめてお土産ぐらい渡せたらって思うんだけど』
それに、葛葉は青ざめた。
(ひいいい! ご近所さんに見られて、変な噂とかたったら!)
単身アパートなので、すれ違ったら挨拶するくらいの必要最低限の近所付き合いくらいしかない。それでも、男性と揉めるような女だと思われてしまったら、次に 鉢合わせした時に何ともいたたまれなくなる気がする。
「ああ、もう! わかったわよ。とりあえず、入って!」
迷っている暇はない。葛葉は慌てて玄関へと走ると、勢いよく扉を開けた。
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