第1章 幼なじみが現れた

第1話

 長く続いた猛暑を抜け、十月にもなると少し肌寒くなってくる。

 照り返しの強い季節を少し過ぎた東京では、長袖の服を身に着ける人が少しずつ増えてきていた。

 十月といえばハロウィンシーズンということもあって、お洒落なお店がオレンジや黒といったパンプキンカラーに彩られている。横を通りがかりながらそれらを眺めているだけでも、なんだか気分が楽しくなってくる。

とはいえ、オフィルビル街に足を踏み入れると、一変して季節感は見当たらなくなる。

 飯田橋にある近代的で落ち着いた雰囲気の高層ビルの一室に、虎月葛葉はいた。

 出版社が多く集まるこの一帯で、葛葉もまた雑誌編集者として勤務している。

 葛葉は十年前に大学進学のために東京に出てきた。二十二歳で卒業し、この紫陽社に勤務して今年で六年目だ。

 紫陽社しようしゃの看板雑誌『大人の暮らし手帖』の編集部の旅行部門に所属し、三十歳を目前にして、部門リーダーとして色んな事を任されるようになってきた。


「じゃあ、虎月さん。冬の京都特集の調整をお願いね」


 編集長、稲川利佳子いながわりかこの促しに、葛葉は「わかりました」としっかりと頷く。

 それを見て満足気に頷いた利佳子が、会議の終了を告げて席を立つ。会議室に集まっていたメンバーはばらばらと自らの席へと帰っていった。

 すると、利佳子がふと思い出したように、書類を整えていた葛葉へと顔を向けてきた。


「そういえば、虎月さんって、京都出身だったわよね。菓匠かしょう龍木たつきって知ってる?」


 葛葉は手を止めて、頭の中のお菓子屋さんリストをめくった。


「龍木……確か京都に十五年ほど前にお店ですね。そこが何か?」

「この間そこの営業さんがうちに来て、特集を組んでもらえないかって依頼があったのよ」

「随分と積極的な企業さんですね」


 紫陽社では読者層に合わせ、口コミやネットの検索で上位に上がるお店、SNSで話題になっている店を取り扱うことが多い。

 時折、直接売り込みに来る店もあるが、読者層に合わなければお断りさせてもらうこともある。


「最近色んな新商品を出していて、見た目が可愛いからって、今、若者界隈わかものかいわいではちょっと人気が上がってるらしいのよね。でも、うちって中高年層の美食家な読者さんも多いし、中途半端なものはご紹介できないから。虎月さんなら何か知ってるかなって思って」


「大人の暮らし手帖」はだいたい三十台から六十台までの大人の女性をターゲットにした雑誌だ。女性が憧れるセレブリティなものから、少し手を伸ばせば届くようなプチセレブ感を味わえるものまで、幅広い記事を取り扱っている。

 特にお取り寄せグルメ紹介のコーナーは、食通をも唸らせる上質の味と、もらった人が心ときめくようなお洒落な見た目のものを、値段に糸目をつけずに積極的に紹介している。そのため、他雑誌からも一目置かれているのだ。

 中でも京都関連の記事は需要が高いらしい。だから、京都出身の葛葉は、時折こういった意見を求められることがある。

 葛葉は首を傾げて、龍木について思い出そうとしてみた。けれども、有益の情報は出てきそうにない。せいぜい、北区の方に本社があったかなというぐらいなものだ。


「あまり地元で知られたお店というわけではありませんし、うちの方向性に合うかは、実際食べてみないとわからないですね」

「あ、それだったら、ごあいさつ代わりにって商品を置いて行ってくれたのよ。良かったら食べてみて」


 言うが早いか、利佳子は自分のデスクから龍木のロゴが入った箱を取ってくると、葛葉に渡してきた。


「私が試していいんですか?」

「虎月さんだからいいのよ! あなたの勧めてくれるものは、いつもすごく美味しいし、コメントもいつも的確だもの」


 力説する利佳子に、葛葉は「ありがとうございます」と微笑んだ。

 早速パッケージを開けてみると、ピンクや黄色、水色などで着色された毬のようなレトロポップな印象の小さな飴が出てきた。

 和の雰囲気がありながらも明るいイメージだ。


(確かにこれはSNS映えしそうだし、若者に受けそうね。味はどうかしら)


 その中の一つを取り、ポイッと口に含んだ瞬間、すぐ近くでかしゃりと音が鳴った。

 音のした方向を振り向くと、利佳子がにやりと笑っていた。


「やっぱり、美人が可愛いお菓子を食べてると絵になるわね」

「買いかぶりすぎですよ」


 葛葉は少し困ったように苦笑した。

 そう言ってもらえるのは、とてもありがたいことだと思う。相対する人に悪い印象を与えないよう、身だしなみには気を付けている方だ。

 ただ、自分の容姿は可愛らしい印象はない。気の強そうな目に、鼻筋が通った顔立ちは、むしろ近寄りがたさを覚えるものだと自覚している。

 でも、利佳子は少し目を丸くした。


「あら、そんなことないわよ。細かい所作も綺麗だし、姿勢もいいから、ドレスでも着物でも何でも似合いそう。いっそあなたがうちの雑誌のモデルになってくれてもいいのに」


 覗き込むようにして言われ、葛葉は一瞬言葉に詰まった。

 確かに、立ち居振る舞いは、幼い頃から徹底して叩き込まれてきた。だから、自然と美しい所作ができるようになっていると思う。


(でも、私が虎月堂の関係者だってことは、誰にも伝えてないし)


 京都の有名老舗茶舗の関係者となれば、それだけで伝手が多いという印象を持たれるだろう。

 それがこの仕事をするにあたって、有利な条件であることはわかっている。

 でも、実家の七光りだと思われる気がして、どことなく公言するのは避けていた。

 ところが、利佳子は編集長ということもあってか、勘が鋭い。


(もしかして、ばれた?)


 内心少しひやりとする。けれども、詳しい出自が漏れるような会話はした覚えがない。

 葛葉は作り笑顔を浮かべた。


「編集長お得意のご冗談と思っておきますね」


 それに利佳子は「ざーんねん」と肩をすくめた。


「それより、このお菓子ですけれども、見た目はともかく、砂糖の甘みが強くて味に深みがないので、うちの雑誌を読んでくださる読者さんには物足りなさを感じるかもしれません。意見が偏ってもいけませんし、他にも何人か聞いて見られてはいかがでしょうか」


 そっと箱を返すと、利佳子は「なるほどね」と笑いながら頷いた。


「やっぱりあなたの意見は参考になるわね。広告料弾んでくれるっていうから、上は乗り気だったみたいなんだけど、方向性が違うものを載せるわけにもいかないし。今回はお断りしておくわ」


 利佳子はそのまま自分のデスクへと帰っていった。

 フットワークが軽い利佳子は、こうやって部下の意見を柔軟に取り入れてくれる。

 おかげで気軽に意見を言うことができて、採用されればモチベーションも上がる。とてもありがたい上司だと思う。


(編集長の柔軟さ、見習いたいな)


 そうは思うが、経験値もまだまだ足りず、日々のことで精いっぱいだ。


「はあ……覚えることはいっぱいね。精進しよう」


 葛葉もまた自分のデスクに帰ると、先に戻っていた他部門の同期と後輩の女子たちが話しをしていた。


「今日他社から来てたウェブデザイナーさん、超かっこよかったと思わない?」

「わかります。背も高くてスタイルも良くて、何よりも雰囲気が優しそうですよね」

「あ。そうだ。今日この後のご飯に誘ってみる?」

「あ、いいですね!」


 そんな二人の会話を耳にしながらデスクで書類を片付けていると葛葉に気づいたようで、二人して視線を向けてきた。


「あー! 虎月先輩!」


 後輩の呼び声に、やや面喰いながら「どうしたの?」と首を傾げる。

 すると、後輩はまるで子犬のように目をキラキラさせながら駆け寄ってきた。


「この後、新しく他社から来たウェブデザイナーさんを誘ってご飯に行こうかって思うんですけど、虎月先輩もどうですか?」


 せっかくの誘いだ。同じ社員同士、交流を深めたい気持ちもある。


(うう、でも、今日は帰ってからの『あれ』が……)


 頭の中に思い浮かんだ物体と、職場交流を天秤に乗せる。

 ゆらゆらと動いた天秤は、少し迷うようにして『あれ』に傾いた。


「お誘いありがとう。でも、ちょっと先約があるの。皆さんで楽しんできて」


 申し訳なさそうに手を合わせて告げた。

 後輩は残念そうに「えー」と声を上げる。けれども、めげない彼女はずいと身を乗り出してきた。


「あ。その先約って、もしかして彼氏ですか?」

「こーら。人のプライベートに踏み込むのはセクハラよ」


 やや面喰っていると、そんな後輩を同期がたしなめる。すると、後輩は口を尖らせた。


「えー。女性同士なのにセクハラになっちゃうんですか? 彼氏がいるならやっぱりそっちも大事ですし、私も我慢しようって思っただけですのに」


 本当に純粋な気持ちから聞いているのだろう。


「ご想像にお任せするわ」


 苦笑しながらも答えると、後輩は何を想像したのか興奮気味に色めき立ち始めた。

 そんな光景を、内心何とも言えない面持ちで見つめる。


(彼氏……か。生まれてこのかた二十八年間、いたことないんだけどな)


 かつて、そういう関係を望まれたことは何度かある。

(でも、何故かわからないけれども、踏み出せなかったのよね)


 高望みをしていると言われるかもしれない。それでも、どうしても何かが違うと、頭をよぎる影が、葛葉を前に進ませてはくれなかった。


(もう、ずっと前のことなのにね)


 きゅっと胸の奥が痛くなり、わずかに目を伏せた。

 とはいえ、せっかくの盛り上がりに水を差すほど、葛葉は野暮でもない。

「それじゃあ、お食事楽しんできてね。お先に」と軽く声をかけて、自分の机から鞄を取り出すと葛葉は職場を後にした。

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