政略結婚させられるかと思いきや、幼馴染の腹黒イケメンに溺愛されています ~京の老舗・虎月さんちのお家騒動~

秋良知佐

序章

 十歳になったある日、虎月葛葉とらつきくずははそれまで積み上げてきたすべてを失った。



「葛葉。この子はあんたの弟や」


 久しぶりにまともに顔を合わせた祖母に見せられたのは、小さな赤ん坊だった。

 本来なら、弟ができたことを喜ぶべきところなのかもしれない。

 でも、元気な声で泣くその姿を見て、葛葉が一番最初にに思ったのは、「誰これ?」だった。

 なにしろ、母は、葛葉が物心つく前に他界している。新しい母ができた覚えもない。もともと父とはずっと離れて暮らしていたこともあって、葛葉は祖母に育てられた。だから、父とはいえ血を分けた他人のようなものだ。おまけにその父はここ近年、祖母との関係悪化により、まったく姿を見せなくなっている。

 そんな中で、突然現れた赤ん坊を弟だと言われても、正直なところ実感が湧かない。

 自分の知らない間に親せきが一人増えていたらしい、というくらいの感覚だ。

 だけど、葛葉にとって重要なことはそんなことではなかった。



「これからは、この子が虎月堂こげつどうの跡取りや」



 祖母から告げられたその言葉に、葛葉の目の前は真っ暗になった。

 茶舗さほ、そして菓匠かしょうとして、長く続いて来た「虎月堂」は、安政元年あんせいがんねんに京都に創業そうぎょうした。

 祖母の虎月雅世とらつきまさよは現当主として、虎月堂を切り盛りしている社長だ。

 葛葉はその唯一の孫であり、唯一の跡取りだった――はずだった。


「でも、おばあさま。虎月堂は私が継ぐって……虎月堂の皆が笑って暮らせるように、私が頑張らなあかんって、そう言うたのはおばあさまやん。だからずっと、友達と遊ぶのも我慢してきたのに、今までのお稽古や勉強は何やったん? 私は何のために頑張ってきたん?」


 自分を慈しみ、育んできてくれた伝統ある虎月堂。会社を背負い、第一線で働く祖母の姿も尊敬していた。それを受け継ぐということは、葛葉にとっては誇らしいことだった。だから、それがどれだけ厳しくてもつらくても我慢できた。

 ――なのに。

 葛葉は雅世を見上げた。すると、雅世はじっと葛葉を見下ろして、静かに口を開いた。


「別に、今までのお稽古やらが無駄になるわけと違う。形が変わるだけや」

「どういうこと?」

「これからは、虎月家にとって良い縁談に恵まれることも、みんなのためになる」


 葛葉は目を見開いた。祖母の言葉がじわじわと脳を侵食し、ゆるゆると首を横に振った。


「いやや……いやや。知らん人のお嫁さんになんかなりたくない! そんなことのためにお稽古してきたんと違う!」

「決めるのはあんたとちゃう。うちや」


 ぴしゃりと言われ、葛葉は押し黙った。


「今後は花嫁修業を怠らんように」


 淡々と告げられたその言葉に、葛葉は唇をわななかせた。


「おばあさま!」


 弟を抱えて、そのままくるりと背を向けた雅世を追いかけた。

 だけど、無情にも目の前でその扉は閉じられた。

 悔しくて、閉じた扉を叩いた。でも、響くのはむなしい乾いた音だけだった。

「跡継ぎたる者、弱みを見せるな」と教えられてきた。だから、見開かれた眼から落ちる涙はない。ただ歯を食いしばり、祖母の消えた扉に額を付けた。


「葛葉ちゃん」


 微動だにも出来ずにいると、背後から遠慮がちに声がかかった。

 葛葉が生まれた頃からずっと一緒にいる、住み込みの家政婦さんの息子――蔵王ざおうだ。

 三歳年上の蔵王は、葛葉の面倒を見てくれる兄のような存在だ。

 いつも何くれとなく気遣ってくれる蔵王のことが、葛葉はとても好きだった。

 だから、そんな蔵王に心配をかけたくなかった。


「私、どっかの知らん人のお嫁さんになるんやって。明日から、花嫁修業頑張らんとな」


 彼に暗い顔は見せたくない。きゅっと唇を噛み締め、一瞬後ににこりと苦笑しながら振り返った。

 蔵王は少し悲しそうな顔をして、葛葉に歩み寄ってきた。

 そして、ぎゅっと葛葉を抱きしめてくれた。


「葛葉ちゃん。僕の前でまで、そんな顔をしないでいいんだよ」


 柔らかく、落ち着いた声が耳に響く。優しく頭を撫でてくれる、手が温かい。

 蔵王はまだ成長期前で、背丈は葛葉とほとんど変わらない。

 それでも、その存在は大きくて、胸の奥からこみあげる何かを堪えるように、葛葉は蔵王の肩に額を当てて俯いた。


「ざ……おう。私、いらん子やったみたい」

「そんなことないよ。いらない子なんかじゃない」

「でも、おばあさまは、私をよそにやろうとしてる。そんなん、いやや!」


 はじかれたように顔を上げた葛葉の目に飛び込んできたのは、どこか切なそうな蔵王の目だった。


(蔵王を困らせた)


 罪悪感で胸がいっぱいになる。


「ごめん。今のは私の我がままや」


 明日からまた、自由のない生活が始まる。

 これまでは苦しくても、自分なりに誇りを持って歩いてきた道だった。

 でも、この先にあるのは、顔も知らない誰かも分からない未来の結婚相手だ。


「もうちょっと大きなったら、きっとみんなとも、蔵王とも、一緒にいれへんようになるな」


 言葉にすると、余計に胸が苦しくて痛かった。


(蔵王の声が好き。手が好き。全部好き)


 だけど、蔵王は家政婦さんの息子で、葛葉は社長の娘だ。

その関係が雅世の言う良い縁談なわけがないことぐらい、十歳の葛葉でも想像がつく。


(私は蔵王が好き。でも、それが叶わへんことぐらい、わかってる)


 そっと蔵王から離れようとした。

 それなのに――


「葛葉ちゃんは、本当にそれでいいの?」


 舞い落ちてきた蔵王の声に、動きを止めた。

 よくない。

 自分の足で虎月堂の皆と歩いていけないことも。蔵王と一緒にいられなくなることも。すんなり受け入れられるわけがない。


(でも、もう、おばあさまに全部決められてしまった。私には何もできない)


 葛葉は口を引き結んで俯いた。空っぽの手を見て、眉をひそめる。

 これまで、すべて雅世から与えられたもののおかげで生かされてきた。


(私自身には何の力もない。そんな私が、なにか言う権利なんか――)


 そんな葛葉を見つめていた蔵王が、葛葉の手をぎゅっと握りしめてきた。


「ごめん。今の君に、この質問は意地悪だったね。僕だって今、雅世様の言葉をひっくり返す力はない。でも、いつか、君が望むなら、僕は君を迎えに行く。僕が君の夢を潰させない。だから、待ってて」


 悲しそうな苦しそうな、泣いているような笑顔を浮かべて蔵王は言った。

 葛葉はくしゃりと顔を歪めて、こくりと一つ頷いた。

 そして、ゆっくりと顔を上げ、蔵王の目を真正面から見た。


「蔵王……ありがとう。でも、私は待ってるだけのお姫さまなんかにはならへん。自分の力で、私なりの生き方を見つけてみせる」


 自分にも言い聞かせるように、しっかりとはっきりと告げる。


「それでこそ、僕の葛葉ちゃんだ」


 蔵王は破顔して、こつんと額と額を合わせてきた。

 これは誓い。

 新しい未来をつかみ取るためのゴングが鳴った。



 だけど、その数か月後。

 桜の季節が訪れる前に、蔵王とその母は葛葉の元を去った。

 きっと雅世が何か手を回したに違いない。そうわかっていても、葛葉にはどうすることもできなかった。

 葛葉の短い春はその瞬間に、終わりを告げた。

 ただ、蔵王との間に交わした「誓い」だけが、葛葉の胸の奥に残った。 

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