政略結婚させられるかと思いきや、幼馴染の腹黒イケメンに溺愛されています ~京の老舗・虎月さんちのお家騒動~
秋良知佐
序章
十歳になったある日、
「葛葉。この子はあんたの弟や」
久しぶりにまともに顔を合わせた祖母に見せられたのは、小さな赤ん坊だった。
本来なら、弟ができたことを喜ぶべきところなのかもしれない。
でも、元気な声で泣くその姿を見て、葛葉が一番最初にに思ったのは、「誰これ?」だった。
なにしろ、母は、葛葉が物心つく前に他界している。新しい母ができた覚えもない。もともと父とはずっと離れて暮らしていたこともあって、葛葉は祖母に育てられた。だから、父とはいえ血を分けた他人のようなものだ。おまけにその父はここ近年、祖母との関係悪化により、まったく姿を見せなくなっている。
そんな中で、突然現れた赤ん坊を弟だと言われても、正直なところ実感が湧かない。
自分の知らない間に親せきが一人増えていたらしい、というくらいの感覚だ。
だけど、葛葉にとって重要なことはそんなことではなかった。
「これからは、この子が
祖母から告げられたその言葉に、葛葉の目の前は真っ暗になった。
祖母の
葛葉はその唯一の孫であり、唯一の跡取りだった――はずだった。
「でも、おばあさま。虎月堂は私が継ぐって……虎月堂の皆が笑って暮らせるように、私が頑張らなあかんって、そう言うたのはおばあさまやん。だからずっと、友達と遊ぶのも我慢してきたのに、今までのお稽古や勉強は何やったん? 私は何のために頑張ってきたん?」
自分を慈しみ、育んできてくれた伝統ある虎月堂。会社を背負い、第一線で働く祖母の姿も尊敬していた。それを受け継ぐということは、葛葉にとっては誇らしいことだった。だから、それがどれだけ厳しくてもつらくても我慢できた。
――なのに。
葛葉は雅世を見上げた。すると、雅世はじっと葛葉を見下ろして、静かに口を開いた。
「別に、今までのお稽古やらが無駄になるわけと違う。形が変わるだけや」
「どういうこと?」
「これからは、虎月家にとって良い縁談に恵まれることも、みんなのためになる」
葛葉は目を見開いた。祖母の言葉がじわじわと脳を侵食し、ゆるゆると首を横に振った。
「いやや……いやや。知らん人のお嫁さんになんかなりたくない! そんなことのためにお稽古してきたんと違う!」
「決めるのはあんたとちゃう。うちや」
ぴしゃりと言われ、葛葉は押し黙った。
「今後は花嫁修業を怠らんように」
淡々と告げられたその言葉に、葛葉は唇をわななかせた。
「おばあさま!」
弟を抱えて、そのままくるりと背を向けた雅世を追いかけた。
だけど、無情にも目の前でその扉は閉じられた。
悔しくて、閉じた扉を叩いた。でも、響くのはむなしい乾いた音だけだった。
「跡継ぎたる者、弱みを見せるな」と教えられてきた。だから、見開かれた眼から落ちる涙はない。ただ歯を食いしばり、祖母の消えた扉に額を付けた。
「葛葉ちゃん」
微動だにも出来ずにいると、背後から遠慮がちに声がかかった。
葛葉が生まれた頃からずっと一緒にいる、住み込みの家政婦さんの息子――
三歳年上の蔵王は、葛葉の面倒を見てくれる兄のような存在だ。
いつも何くれとなく気遣ってくれる蔵王のことが、葛葉はとても好きだった。
だから、そんな蔵王に心配をかけたくなかった。
「私、どっかの知らん人のお嫁さんになるんやって。明日から、花嫁修業頑張らんとな」
彼に暗い顔は見せたくない。きゅっと唇を噛み締め、一瞬後ににこりと苦笑しながら振り返った。
蔵王は少し悲しそうな顔をして、葛葉に歩み寄ってきた。
そして、ぎゅっと葛葉を抱きしめてくれた。
「葛葉ちゃん。僕の前でまで、そんな顔をしないでいいんだよ」
柔らかく、落ち着いた声が耳に響く。優しく頭を撫でてくれる、手が温かい。
蔵王はまだ成長期前で、背丈は葛葉とほとんど変わらない。
それでも、その存在は大きくて、胸の奥からこみあげる何かを堪えるように、葛葉は蔵王の肩に額を当てて俯いた。
「ざ……おう。私、いらん子やったみたい」
「そんなことないよ。いらない子なんかじゃない」
「でも、おばあさまは、私をよそにやろうとしてる。そんなん、いやや!」
はじかれたように顔を上げた葛葉の目に飛び込んできたのは、どこか切なそうな蔵王の目だった。
(蔵王を困らせた)
罪悪感で胸がいっぱいになる。
「ごめん。今のは私の我がままや」
明日からまた、自由のない生活が始まる。
これまでは苦しくても、自分なりに誇りを持って歩いてきた道だった。
でも、この先にあるのは、顔も知らない誰かも分からない未来の結婚相手だ。
「もうちょっと大きなったら、きっとみんなとも、蔵王とも、一緒にいれへんようになるな」
言葉にすると、余計に胸が苦しくて痛かった。
(蔵王の声が好き。手が好き。全部好き)
だけど、蔵王は家政婦さんの息子で、葛葉は社長の娘だ。
その関係が雅世の言う良い縁談なわけがないことぐらい、十歳の葛葉でも想像がつく。
(私は蔵王が好き。でも、それが叶わへんことぐらい、わかってる)
そっと蔵王から離れようとした。
それなのに――
「葛葉ちゃんは、本当にそれでいいの?」
舞い落ちてきた蔵王の声に、動きを止めた。
よくない。
自分の足で虎月堂の皆と歩いていけないことも。蔵王と一緒にいられなくなることも。すんなり受け入れられるわけがない。
(でも、もう、おばあさまに全部決められてしまった。私には何もできない)
葛葉は口を引き結んで俯いた。空っぽの手を見て、眉をひそめる。
これまで、すべて雅世から与えられたもののおかげで生かされてきた。
(私自身には何の力もない。そんな私が、なにか言う権利なんか――)
そんな葛葉を見つめていた蔵王が、葛葉の手をぎゅっと握りしめてきた。
「ごめん。今の君に、この質問は意地悪だったね。僕だって今、雅世様の言葉をひっくり返す力はない。でも、いつか、君が望むなら、僕は君を迎えに行く。僕が君の夢を潰させない。だから、待ってて」
悲しそうな苦しそうな、泣いているような笑顔を浮かべて蔵王は言った。
葛葉はくしゃりと顔を歪めて、こくりと一つ頷いた。
そして、ゆっくりと顔を上げ、蔵王の目を真正面から見た。
「蔵王……ありがとう。でも、私は待ってるだけのお姫さまなんかにはならへん。自分の力で、私なりの生き方を見つけてみせる」
自分にも言い聞かせるように、しっかりとはっきりと告げる。
「それでこそ、僕の葛葉ちゃんだ」
蔵王は破顔して、こつんと額と額を合わせてきた。
これは誓い。
新しい未来をつかみ取るためのゴングが鳴った。
だけど、その数か月後。
桜の季節が訪れる前に、蔵王とその母は葛葉の元を去った。
きっと雅世が何か手を回したに違いない。そうわかっていても、葛葉にはどうすることもできなかった。
葛葉の短い春はその瞬間に、終わりを告げた。
ただ、蔵王との間に交わした「誓い」だけが、葛葉の胸の奥に残った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます