一章

第一話 砂漠のオアシス

 形骸けいがいさらした建造物が軒並み横たわっている一本道。その先を進むと、日の出の差し込む開けた場所に出た。道中行く手を阻むように生い茂る木々をかき分け、腰を丸めながら進んで行く。

 彼女はその先で、子供のように両手を広げて走り回っていた。


「ちょっとウタってば、急に走り出さないでよ……」


 私はチクチクと体に突き刺さる枝やら葉っぱやらを払いながら、一足遅れてウタと合流した。

 ふとチラッと見やった石碑の文字を読み上げる。


「『豊岡公園とよおかこうえん』……」


 随分と広い敷地面積を有するこの場所は、かつては公園として地元の子供たちに遊ばれていたのだろうか。

 今走り回っているのは、受験を控えている高校三年生のはずのウタであるが。


 薄桃色の花々が木の枝を覆い尽くさんが如く満開に咲き誇っており、風がそよぐだけで舞い散る桜花おうかはなびらで、足元にはピンクと緑の美しいコントラストの絨毯が敷かれていた。


 色彩豊かな草花に囲まれた『豊岡公園』は、この頽廃たいはい的な世界に於いてかなりの幻想的な景観だ。

 今までの廃れた街並み広がる終末の旅路を考えると、まるで砂漠に展開された恵みあるオアシスのようである。


 地面に敷かれた花の絨毯を踏みながら、私はまだ冷めない眠気と共に欠伸を噛み殺した。


「凄くない!?」

「眠い……」


 走り疲れたのか息を荒げながら、興奮を抑えきれない様子のウタが同意を求めてきたので、今の気持ちをありのまま伝えてやった。


 この世界に時計はなく、時間なんて概念すらも曖昧なので細かいことを言うのはいささか無粋な気はするが、おそらく今日はこの終末世界に来て一番の早起きだと思う。

 いつもよりも早い起床の原因は、ウタにあった。

 まだ朝靄あさもやしらけるこんな時間に、私は興奮気味なウタの声で叩き起こされた。

 どうやらウタも珍しく早く目が覚めたようで、私が寝ている間に少し探検をしていたらしく、その際にこの『豊岡公園』を見つけたのだという。


 だがそんなことよりも、今は……


「も少しだけ寝かせて……」


 空に上がり始めたての暁光ぎょうこうが、ぽかぽかと私を照らしてくれるのが優しくて、首がウトウト上下する。気を抜くと脱力してその場で寝入ってしまいそうだ。


「よし、奥まで行ってみよう!」


 だがウタは私の眠気を許してはくれない。

 日の光を浴びた植物のように元気げんき溌溂はつらつなウタは、私の願いなど耳に入らないようで、腕を引っ張って強引に連れ回す。

 もう少し寝かせてくれないかな……。

 


 朝靄も明け始め、顔を出していただけの朝日がゆっくりと体も見せ始める。

 靄が晴れて、桜景色はより色彩鮮やかになって幻想的な空間を作り出す。

 既に私は眠気とおさらばしていた。


 グッバイ睡魔、また来て睡魔。


 ポカポカと地球を暖める太陽を見上げながら、私は心の中で睡魔に別れを告げた。

 するとその横で……。


「滑り台だ!」


 何かを見つけたらしい精神年齢十二ほどのウタが幼稚に叫び、その果てまで長く伸びる青い大蛇の尾に向けて一直線に駆け出した。


 因みに青い大蛇というのは、実際に爬虫類がいたのではなく、坂の上から下まで続く長い長い滑り台の先に、怖いとも可愛いとも言い切れないなんとも微妙な表情と瞳をした蛇の顔面が張り付いているのだ。


 この構造だと、滑り台を滑ってくる子供はこの頼りない目の蛇に吐き出されるようなになるけど大丈夫か。


 私が論点のズレた心配をしているのを後目しりめに、鞄を私の足元に預けたウタは坂の上にある滑り台の上り場へと、急な斜面を駆け上がっているところだった。


 ウタのこういう子供っぽい行動にはある程度慣れてはいるが、高校三年生の淑女しゅくじょが意気揚々と滑り台へ向かっているのを見るのはどうしても歯痒はがゆい気持ちになる。

 理性というよりも、常識がストッパーになっているかのような不自由さ。それをどうにも肌で感じてこそばゆい。


 保護者の目で見守りながらウタの行く末を見届けた。


 そうしてぼーっと眺めていると、風が頬を撫でてサラサラと髪をなびかせた。

 その髪を後ろに押し上げると、ふとあることを思った。


 達観した目でぼーっと何かを眺めていると、普段気にしないようなことまで気になるものだ。

 

 そろそろお風呂のお湯を浴びたい——


 極力髪の手入れは欠かさないよう気遣ってはきたが、それでももう一週間以上も風呂に入れてないのでは気分が悪い。

 私はれっきとしたレディなのだ。


 そんなことをぼんやり考えていると、いつの間にか頂上に上り詰めたウタがこちらに向かって盛大に手を振っているのが小さな影となって見えた。

 私も胸の辺りで手を振り返す。


 それが見えたのか、ウタは滑り台に下半身をセットすると、勢いよく滑り落ちてくる……ということはなかった。


「そりゃあびてるだろうから滑りも悪くなるでしょうに」


 ウタは上手く滑れなかったようでぎこちなく、滑るとは言い難い勢いでノロノロ落ちてくる。というより、手摺りを引いて無理矢理体を押し出しているように見える。


 そんなちょっと無様な様子のウタに、呆れよりも面白さの方が勝って、しばらく笑っていた。


 そうこうしていると、流し素麺に水を流さずに走らせた素麺みたいなウタが降りてきた。


「受験生だけに滑らなかったね!」

「その前に滑るなよ」


 やかましいことを言うウタだ。そもそも私たちに受験などもう関係のない話だろう。


 不覚にも上手いと思ってしまった自分がいて、それが少し恥ずかしくて思わず口調が強くなる。


「後、スカートなんだからもう少し気にしなよ」

「関係ないよ。誰も見てないんだから」


 言って、遠慮なしにスカートの裾を埃を落とすようにパンパンやるウタ。


「……そろそろお風呂入りたいよねえ」


 ウタのその動作を眺めていると、さっきまで考えていたことがつい口走ってしまった。


「水浴びならできるんじゃない?春だし」


 ウタは気楽にそう返して、預けていた鞄を引き取り肩に掛ける。

 春と水浴びはあまり因果関係があるようには思えないが……。


「お湯が浴びたいんだよ。もっと言えば湯舟に浸かりたい」


 毎日毎日、登下校以上の距離を歩いてもう足がパンパンに張っている。睡眠時間はアホほど取る余裕があるが、それだけでは足の疲れや浮腫むくみまでは癒せない。どっぷりと肩まで浸かって、温かなお湯に体を沈ませたい。


 ないものを思えば焦がれるというもの。

 私はすっかり妄想という名の湯船に浸かっていた。


 そんな私の隣で、顎に人差し指を当て、暫し黙考するような仕草をとっていたウタは、その後思い出したように言った。


「お湯……ではないけど、水浴びできそうな場所ならさっき高台を登った時に見えたよ」

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