第五話 可愛い?

 気がつくと、そこは電車の中だった。洗顔剤や保険会社のキャッチコピーの載った宣伝広告が、有名タレントの営業スマイルと一緒に大っきく張り出されている。部活の大会の帰りに度々見たような代わり映えしない景色だった。

 

 だけど、微妙に違和感を感じる。

 何が違うのだろうと考えて、二つほど奇妙なことがあるのに気がついた。

 

 まず一つに、私の視点があやふやなのだ。

 電車の座席に座っているのか、立っているのか、はたまた寝転んでいるのか分からない曖昧あいまいな視点をしている。どうやら私の意思で動かせるわけではないらしく、首を回そうとしても視点は固定されたままで動くことがない。


 次に二つ目。

 それは、私の視点を含めても二人しか座っていないことだ。空いている時間なのだとしても、この広い車内にここまで誰も乗っていないというのはどうにも不自然。

 私以外のもう一人の乗客は、対面座席に腰を下ろした少女で、赤いランドセルを膝の上にマナーよくちょこんと置き抱えて座っている。

 小学校低学年くらいだろう。


 私は特に気にしないことにした。よくわからないことは、考えたところで仕方がないのだ。少なくとも夢なのだから好きにしよう、と今の私の脳みそはそう告げている。


 程なくして電車の扉が開くと、一人のお婆さんが乗ってきた。腰のよく曲がった、杖をつかなければバランスも取れなさそうなよぼよぼのご老体だ。

 お婆さんは座席を一瞥いちべつすると、空いている座席のどこにも座ることなく手摺てすりにつかまった。杖を持っていない方の手が、小刻みに痙攣けいれんしながら銀の握り棒を力無く握っている。


 すると座っていた少女が立ち上がり、

「お席どうぞ」と声をかけた。

 座れる席はいくらでも空いているのに……と不自然に感じつつも、私はそれを黙って眺めることにした。

 体、動かないし。

 動いたところですることもないけど。


「ご親切にどうもありがとうね」


 お婆さんは、そう言って少女にほがらかに笑みを返すと、ゆずってもらった席にゆっくりと腰を下ろした。その口調に、嫌味のようなものは一切感じられない。


 そんなやり取りを眺めていると、扉がプシューという蒸気音を立てて閉まった。


 そうして広い車内に私と二人だけを乗せて電車が走り出す。少女はお婆さんと入れ違いに握り棒に掴まったが、まだ足元が覚束おぼつかないのか少し揺れる度におっとと……といった感じで蹌踉よろめく。


 と、そこで視点は切り替わった。さっきまでは少女が座っていたのとは反対の座席からの視点だったのが、今度はお婆さんの席の隣へと移り変わる。お婆さんの顔と、少女の表情がよく見えた。


 少女の表情はどこか暗く、何かに絶望しているように見えた。およそ齢十五よわいじゅうごもいっていないような少女のする顔ではない。

 その様子に、お婆さんも不思議に思ったのか少女に訊ねかけた。


「どうしたんだい?」


 その問いに、少女は「なんでも」と、短く淡白に返して目を逸らすと、そこで会話は途切れてしまった。


 それからしばらくタタンタタン……という電車の軽快なステップと共に、無言の空間に揺られていると、突然、うつむいていた少女がぽつりぽつりとし目のまま独り言のように小さく語り始めた。私とお婆さんは静かに少女のその独白どくはくを聞いている。


「友達とケンカしちゃったの。『今日のわたし、かわいい?』って聞かれて、本当は『かわいいね』って言いたかったのに、それをうまく言えなくて、ウソついちゃった。『本当にかわいいと思ってるの?』って」


 少女の口から出てくる言葉は、年相応の辿々たどたどしさはあるものの、言いたいことは伝わってきた。

 要するに、可愛いかと聞かれて可愛いと答えたかったのに、その本心とは全く別の、それこそ正反対のような言葉が出てきてしまい、喧嘩をしているということなのだろう。


 お婆さんはそれを静かに聞き、少女が話し終わると、優しい口調でたしなめた。


「それはダメだね。お友達はあなたがきっと『可愛い』って言ってくれるって信じて、『可愛い』って言って欲しくてそうやって聞いたのに、素直に言えずに傷つけちゃったんだね」


 少女は暗い表情のまま、こくんと首を上下させる。


はどうしたいんだい?」


「……また……、……」


 言いかけてよどんだが、しばしの空白をおいて、少女は答えを続けた。


「……また、いっしょに遊べるようになりたい。ごめんねってちゃんとあやまって、『かわいいよ』ってちゃんと言いたい」


 少女の口からつむがれる懺悔ざんげの言葉たちは、徐々に彼女の胸に吸い込まれていっているように見えた。


「ちゃんと素直に言えたじゃないか。大丈夫。ちゃんと謝れるよ。あなたは悪い子なんかじゃない。とってもいい子だ」


 お婆さんが、まるで孫の頭に手を当てて撫でているかのように言うのと同時に、電車が停止し、扉が開いた。少女は開かれた扉の外へと出ていく。


 お婆さんに『ありがとう』とぎこちなく笑って言いながら。


 すると、また今度は電車の外の視点に切り替わった。どうやら、この視点は少女を追いかけているらしい。


 少女が電車から出ると、そこには少女と同じ年をしていそうな赤いランドセルを背負った女の子が、ねたような表情を作りながら待っていた。


「みいちゃ……」


 少女が、嬉しいと後ろめたいの入り混じったような声で、おそらくその友達の名前だと思われる”みいちゃん”に声を掛けようとしたが、みいちゃんがそれをさえぎるようにして言った。


「今日は!?今日はかわいい?かわいくない?」


 みいちゃんがつまんで見せているのは洋服だ。可愛らしく猫のイラストがプリントされている。

 それを見て少女は、目尻にうるうるとしずくを潤ませて、こう答えた。


「かわいいよ!本当は、きのうもかわいいって言いたかったのに、ウソついちゃったの。みいちゃんはかわいいよ!ウソついて、キズつけちゃってごめんなさい!」


 その彼女の謝罪と真意を聞いて、満足そうにみいちゃんはにこりと笑うと


「いいよ。そのかわり、今度からはちゃんとかわいいって言ってね!」


 と、満面の笑みをたたえて返した。


 それを見届けると、電車は発車し動き出す。

 少女を見送った電車が、流れる景色のなか捉えた駅の表示看板には、

千種ちくさ』と書かれていた――。

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