第四話 自己嫌悪

 思えば、その日食べた『三海』の海鮮丼定食が最後に食べたまともなお昼ご飯だったなあと思い出す。ぷりぷりとした新鮮で肉厚な魚たちの、醤油と山葵わさびを絡めた舌でとろけるような味わいと、その上にたんまり盛られたイクラたちのプチプチとした楽しい食感、大葉の鼻を刺激する香味を思い出すと、思わずのどが鳴った。


「そんなお腹空いてたの……」


 因みにあの後、『三海』にて当初の目的を忘れたまま、満腹感とともに店を出たところで怪しげな黒ずくめの集団に捕まって、あれよあれよという間に黒塗りの胴の長い高級車に連行されて、いつの間に睡眠薬を嗅がされていたのか、気がつくと薄暗い研究施設に着いており、そこの研究者である、ウタの親戚のお姉さんにお出迎えされたのはまた別の話。


「で、これどうやって食べるの?というか食べれるの?」


 恐らくもう味わうことのできないであろう豪華なランチの記憶を手で払って、鞄から引っ張り出した袋の中から木の実や植物を取り出してベンチに広げるウタに、私は訊ねた。見たところ、ただのよくそこらで生えているような雑草だ。木の実とゼンマイはさて置き、タンポポやなんかはそんなに食べられるようなものには見えないが。


「チッチッチ……。甘いなトワくん。山菜は灰汁あくさえ取っちゃえば、食べられるものも多いのだよ」


 ウタは、立てた人差し指をメトロノームの振り子のようにリズミカルに左右させて自慢気な顔で人を小馬鹿にしたように舌を打ち鳴らす。

 如何いかにも腹の立つ仕草ではあるが、ウタにやられると何故だかそこまで気にならない。

 顔がいいからだろうか。

 さまになる、というのも変な気はするが、どうにもコメディーティックな動きは彼女にマッチするらしい。

 

 そんな詮無せんないことをぼんやりと考えていると、ウタはベンチに置いたいくつもの雑草の中からネギのような細い束状たばじょうの野草を取り出して見せてきた。


「これはノビル。ネギみたいだけど、ほぼ市販で売ってるワケギと一緒だからそのままでも食べられるよ」


 ウタから「はい」と手渡されたノビルを恐る恐る一口齧ひとくちかじってみると、ほんのりとした苦味が舌を刺激した。

 最初の一口こそ、初めての苦味に思わず眉間にしわが寄ったが、シャクリシャクリと噛み進めているうちに、徐々にそのまんまネギを食べているような深い味わいになっていった。

 口いっぱいに自然の味が広がる。


「多分、今の季節は春なんだろうね。春は美味しい野草の種類も豊富だからよかったよ」


 自然の中から生き抜くための知恵を当然のように披露してくれるウタに呆気あっけに取られる。ウタがいなかったら食べるものが尽きた時点で詰んでいたことだろう。

 ウタが非常に頼もしい。


 そうこうしている間に、ウタは鞄の中から粗方あらかた使いそうな物たちを取り出すと、ベンチの上に並べ始めた。

 その中には十徳ナイフや鍋もあり、最初からこうなることを予見よけんされていたのではないかと悪い想像をしてしまう。


 ウタは、『無限水源器』の水を鍋に移して、その中に雑草を入れて洗っている。


「なんでウタはそんなに食べられる野草に詳しいの?」


 作業中のウタの集中のさまたげにならないよう機会をうかがって訊ねてみた。流石にこうなることまで見据えてあらかじめ知識を蓄えていたということもないだろう。


「昔、幼稚園で近所の山を散策することがあった時に、何も考えずに野草を食べていたら先生に注意されて、それから食べられる野草を調べたんだよ」

「ウタらしい。でも納得」

「幼稚園の話だからね!」


 野生児のウタらしい納得のいく回答で、安心と同時に笑いが込み上げてきた。笑われた側のウタは少し顔を赤らめたが、気を悪くしたようには見えない。


「水と火さえあれば、案外人間生きていけるものだね」


 ウタが電源をつけた小型ガスコンロを見つめて私が呟く。

 点火のつまみを回すと、ボッ!と音を立てて小型ガスコンロが下から青い炎を吐き出した。

 ウタがその上に鍋を置いて水を沸かし始めると、次第に湯気が立ち始め、ぷつぷつと泡立つ。

 それを見てウタは野草を沸騰したお湯にけていく。


 しばらくして、ウタが自前の箸で次々と鍋の中の野草を取り出した。水にひたされてしなしなになった野草たちは、色味が増しており、普通に食卓に並んでいてもおかしくない。


 やがて鍋の中から野草を全て取り出すと、今度は水を沸かさずに置いていた鍋にそれらを移し替えた。


「何してるの?」


 聞くと、当たり前のように答えが返ってきた。


「灰汁を取り除くんだよ。山菜とかは基本灰汁があって、そのままだとエグ味があって美味しくないから、こうやってお湯に浸けてから水で洗い流して灰汁を取るの。本当は天ぷらにするのが一番いいんだけど、油も衣もないからね」


 まるでお料理講座の先生のような口ぶりで教えてくれるウタは、口を動かしながらも手で野草たちをよく揉み込んでいる。


「取り敢えず、この子たちはこのまま水につけておいて、今度は炒めるための子たちを切っていくよ」


 ウタ先生は生徒の私に説明しながら、十徳ナイフを器用に扱い、雑草たちを細かく刻んでいく。


 ハコベ、ヨモギ、ギシギシ、フキノトウ、クサソテツ……。


「タンポポの茎は、ゴボウみたいにするよ」


 先生の解説に、頷くこともできずただ眺めているしかない。お料理経験も格段に薄く、包丁の使い方すらままならない私は食材を切ることに手を出すことはできない。ただただ関心の目で動作を追いかけるばかり。

 

 することもないので、私はウタの手元に視線を送る。

 

「み……見られてると、やりにくい……」

 

 ウタの肌は白くて繊細だ。

 社会のけがれなどとは全くの無縁のように見える純真で綺麗な手指は、まるで彼女の容姿性格を事細かに反映しているよう。

 

 古き良き日本人のサラサラとしたウタの黒髪は、前髪をパッツンと段差が少なく切り揃えられており、襟足えりあしも肩までの長さで、比較的模範生のようなおかっぱに近いショートボブだ。

 目元は付け睫毛まつげが不要なほどに睫毛が長く、やや垂れ目な奥二重な顔立ちには、どこか垢抜けない印象を覚える。

 その上、身長も151センチと女子高生の平均よりも小さいので、この見た目と相まってより若く見える。特に私は164センチの、女子高生にしては背が高い方なので、この世界に来る以前は二人で出歩くと、高確率で姉妹と間違われた。

 

 ところで……。

 

「あれ?ゼンマイは?」


 そういえばと思い出し、登場していないゼンマイの所在を聞く。これだけは唯一私自らの手でみ取って入れたものなのだ。忘れられては困る。


「うーん……、ゼンマイは灰汁を取るのが実は面倒で、木炭をまぶして熱湯にかけなきゃなんだけど、その工程に一晩かかるんだよね……。だから今はできないんだよ」


 見ると、確かにベンチの上に羽毛状の毛で覆われた鮮緑のシダ植物だけがポツンと置かれている。

 どことなく現在の自分とゼンマイの孤独でいる様子が重なって見えて、ゼンマイへの親近感が湧いた。


「それでは、切ったこの子たちを炒めていきます。残念ながら油はないけどね」


 そう言って、ウタ先生は小型ガスコンロの上に置いたフライパン型の金属質の容器に、切った雑草らを入れていく。


「油を引かないで炒めるやり方は炒める、じゃなくてるって言うんだよ」と、私の中の嫌味な私が出しゃばろうとするので押し留めた。


 今現在の、頼り甲斐のあるウタ先生にこんなことを言っても間違いなく劣等生のやっかみでしかない。


 そんなことを考えてしまう自分がなんとも情けない。


 楽しそうに鼻歌を歌い出して炒め物を続けているウタに、口に出さずともひがんでしまった罪悪感から居たたまれない気持ちになって、私は黙って電車の方へ向かった。

 無言で去ってしまうあたり、不貞腐ふてくされた子供のようであわれだ。


 お子様な私の後ろで、ウタは陽気に鼻歌を歌いながら、私が無言で去っていったことに、大して気に留める素振りもなく次の食材の準備に移っているのが伝わってくる。それすらも、私がいなくても問題ないと言外に言われているような気がして、余計に胸にできた傷が痛んだ。


 マイナス思考の私は、ウタといるとよく出没しては長いこと居座り続ける。

 そんなときは、少し距離を空けて外の空気に触れることで思考をリフレッシュするに限る。

 もとよりここは天井の青空が見える屋外だが、ウタから離れることで、少しは落ち着きが生まれるかもしれない。


 駅から出ると、まるで私の帰りを待っていたかのように、横たわったH21が出迎えてくれた。

 その体に抱きついて、泣き言を吐き出す


「私って、なんの役にも立てないのかな。ウタには一ミリも必要とされてないのかな。そうだよね。だって私子供っぽいもん。今だって、僻んで無言で抜け出して来ちゃってさ、ほんっと子供みたい」


 涙こそ出やしないが、自分への悪口雑言あっこうぞうごんは一度蓋を開けると、せきを切ったように溢れ出して止まらない。

 

「大体、ウタが……――」

 

 止め処なく溢れ出す気持ちの悪い自己嫌悪と共に、ウタに対しての恨言うらみごとが口から出かけたが、ウタは何も悪くない。ただ私が被害妄想を膨らませて保身に走った結果、自分の居心地を悪くしただけだ。

 

 全て劣等生の私が悪い。

 

 手伝おうかの一言も言えない。

 手伝うことすら出来やしない。

 自分が他人よりも劣っているとは認めたくなくてマウントを取ろうとする。

 その癖、打たれ弱くて今みたいにすぐ逃げ出してしまう。

 

 成績も、性格も、顔も、人柄も、私を構成するもの全てにおいてウタに劣っている私は、私自身が嫌いだ。

 心と体を切り離してかなぐり捨ててしまいたい。

 体裁ていさいも気にせず泣きじゃくってしまいたい。

 

 ふと気がつくと、H21の割れたフロントガラスには、私の負の感情にゆがんだ不細工な顔面が映っていた。

 

 それからもしばらくH21に、止まるところを知らない己への自己嫌悪を聞いてもらっていると、次第に朝から続く旅の疲れに襲われてしまい、私は気づかぬ間にH21にもたれ掛かって眠ってしまっていた。

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