柿田との面会(4)

 第一回検討会の日に見た、新陽新聞の一面広告を思い出した。それは光岸グループのものだった。途端に『時の娘』の一節が同時に想起される。『真実はその時代の些細な物事全てのなかに含まれる。家賃の売買、指輪の値段、そして新聞の広告』

「無論、私はそのことを記事にしようと思いました」柿田さんはかぶりを振って、その先の言葉を紡いだ。「しかし上層部の意向で、その記事は社内で葬られてしまったのです。その時点で書ける精一杯の記事が、私が望遠新聞で書いた最後の記事として二十二日の朝刊に載りました」

「それで柿田さんは新聞社を退かれたのですね」

「ええ、スポンサーの都合で真実を書くことのできないメディアで、一体どんな仕事ができるでしょうか?」

 すべての会社はお金を得るために存在している。当たり前の話だが、時々僕たちはそれを忘れてしまう。今回の事故の筋書きは、利益を追い求める大人の都合で上書きされてしまったのだ。

「国交省の資料にもある通り、国交省が車体検証を開始させたのは十九日になってからでした。この時点でバスがメーカー工場に運ばれてから二日も経っています。その四十八時間で光岸が何をしたのか、警察との間にどのような交渉があったのか、それともなかったのか、それは今となっては誰にもわかりません」

 ではその二日の間、報道陣は何をしていたのですか? と僕は目の前の彼に訊きたかった。被害者の写真や経歴を漁り、通夜や葬式へ取材に押しかけたのではなかったか? もしその時間を、原因究明のために使ってくれていたら。

「新聞社を退社した私は、フリーで活動を続けることにしました。本名ではなく、新たな筆名を使っているのは新聞社との都合です。フリーになってからも、この件については継続して調べを進めていました。そのうちに、新たな事実もわかってきました。先程の点検の話も、その一つです。事故後の国交省の調査で、バス運行会社は定期点検整備等の未実施の違反を取られていましたが、今回事故を起こした車両については、きちんとメーカー点検に出していたのです」

 床下部の腐食は、事故後の国交省の調査でも指摘されているところだった。

「この腐食の記録から、私には過去のある出来事が思い返されました。二〇〇二年の十月に起きた、佐倉くんたちを襲った光岸の事故です。そしてその事故をきっかけに、光岸自動車による大量のリコール隠しが発覚したのです」

 僕たちは黙して話の続きを待った。

「さて、今回の事故を起こした光岸のバスの初年度登録はいつされたのか、覚えていますか?」

「まさか」僕は息をのんだ。

「二〇〇二年の十月です。大規模なリコール隠しが発覚したのが二〇〇四年ですから、今回の事故車両も当然欠陥が疑われるべきです」

「つまり柿田さんは、わたしから兄を奪ったこのバス事故を単なる一つの隠蔽としてではなく、そのリコール隠しの続きとして捉えていらっしゃるのですね」

「はい」柿田さんは渋面を浮かべて過去を振り返った。「二〇〇二年トラック事故では、真実が明らかになり、その事故で亡くなった運転手の名誉が回復されるまで二年もかかってしまいました。軽井沢のバス事故からも、もう間もなくそれだけの月日が経とうとしています」

 一呼吸置いて、柿田さんは話を続けた。

「疑わしい点は他にもあります。バス事故の三ヶ月後、光岸自動車は自社のホームページで当該事故車両と同じ型を含むバスの床下部の無料点検を実施すると報告しています。相当な焦りが見受けられます。ですからあの床下部の腐食が、事故の原因であったと私は思いました。腐食によって、数カ所は穴があいていたようです。そこから圧縮したエアーが漏れ、ブレーキが効かなくなったのかもしれません。途中の管に穴があいていても、エアタンク内の圧力は変わらないので警報音はなりません」

 前回のリコール隠しの時もヤミ改修が行われていたと聞く。

「リコール隠し事件が光岸に与えた教訓は、正しくリコールをすることではなく、徹底的にそれを隠してしまうべきだというものだったのかもしれませんね」と僕は言った。

「普通の会社ならあのリコール隠しで潰れていたでしょう。しかし光岸自動車は、光岸財閥からの五千億円を超える援助によってその危機を脱したのです」

「そこまでわかっていながら、どうして柿田さんはその記事を書かなかったのですか? フリーになった今なら、新聞記者時代のような制約はないはずではないでしょうか」と僕は勢いこんで訊いた。

「いずれ、書くつもりでいました」

「いずれ、ですか」

「今回の事件の真相を記事にしたところで、それは誰の利益にもなりません。前回の事件と決定的に違うのは、民事裁判です」

 民事裁判という言葉が発せられた時、森さんの背筋がびくんと伸びた。

「二〇〇二年の事故で亡くなったトラック運転手の遺族は、彼の名誉を回復させるべく署名を集めるなどの活動をして検察に働きかけました。その結果、光岸自動車の幹部は業務上過失致死罪で有罪が確定しました。

 警察、検察、裁判所、被害者遺族の誰かしらが、疑問を持っていてくれたら、記者はその思いを聞きに行きます。その思いを記事にして全国に届けることができます。しかし今回のバス事故では、その向きの動きはありません。被害者遺族団体は、検察に働きかけるのではなく、民事でバス運行会社のティー・ピーツアーに訴えを起こしています。

 そんな中で今のような持論を展開しても、誰のための記事にもなりません。無名の記者が売名のために行っている陰謀論として笑われるか、名誉毀損で訴えられるのがオチです」

「じゃあ――」逸る気持ちを抑え、僕は訊いた。「それでは被害者遺族はみんな、この事故はバスの運転手のミスで起こったと考えているという事ですか?」

 こんな素人の学生の目から見ても違和感に満ちていたこの件を、誰よりも切実に紐解きたいと願っているはずの遺族の方々が誰も気づかなかったとでもいうのだろうか?

「中には、疑問を持った方もいらっしゃると思います。ただそれを声に出さないだけで」

「どうしてですか?」

 柿田さんはそこで初めて、ほんの一瞬だけ言い淀むような素振りを見せた。

「――それは」

「待ってください!」柿田さんの話を、唐突に森さんが遮った。「それは、わたしが答えられると思います」

「森さん、何かわかったの?」

 彼女は痛みを堪えるかのように目をぎゅっと瞑り、それから心を決めたようにこう言った。

「少しだけ時間が欲しい。確認したいことがあるから」

 僕が返事に窮していると、柿田さんが鷹揚に口を開いた。

「そうするのが良いでしょう。私よりもずっと適任です」

 そこで一時会話の流れが止まった。カップとソーサーのぶつかる音や他所のテーブルでの話し声がしばし間隙を埋めた。来たときはがらがらだったカフェテリア内にも、にわかに人が増え始めていた。

「今回の事故は戦後最悪のバス事故として歴史に刻まれました。そしていずれは、当時のマスメディアのぬぐいがたい汚点としても歴史に刻まれることを、現代の一報道人として、私は願っています」

 柿田さんはテーブルの上に広げた資料の数々を僕らに託すと、ナイロンの鞄のジッパーを閉じた。

「佐倉くんは将来、ジャーナリストになりたいんでしたね」帰りがけに柿田さんは言った。「もし君が就活生になった時、望遠新聞に入社したいと思ってくれていたら、その時は私の方で君を推薦したいと思います」

「え」

 突然のお話に、僕は硬直してしまった。柿田さんが長年活躍された新聞社で働くことは、僕の大きな夢の一つでもあった。しかし柿田さんの口から、スポンサーとの間のしがらみを聞かされた今、自分がそこで働く姿を思い描くことは少しだけ難しくなっていた。

「あのような形で退社したとはいえ、まだ私のことを信用してくれている人間が社内には少なからずおります。しかし佐倉くん、君がこの件について記事を書いた場合、おそらく彼らは君の採用を見送ると予想します。たとえ私の推薦があったとしても、です」

 そのくらい柿田さんの存在は新聞社にとって大きく、そしてこの件はデリケートなのだろう。

「ありがたいのですが、真実を書いてはいけない新聞社で、僕はどんな仕事をすればいいのでしょうか」

「私はフリーの記者になり、ある程度自由な記事をかけるようにはなりましたが、それを週刊誌が紙面に載せてくれるとは限りません。この件を載せてくれる雑誌は、日本中のどこを当たってもありませんでした。インターネットの個人ブログなどで情報発信をすることも考えましたが、柿田桂一郎という名前を望遠新聞に奪われた今、私の影響力は極めて限定的です」

 では、真実は誰が守ると言うのだろう。

「佐倉くん、君は望遠新聞に入るべきだ。そして今の組織体制を変えてくれ」柿田さんは僕の目を見てはっきりと言った。「私にはそれができなかった」

 あっけに取られた僕は何も言葉を返せなかった。

「またいずれお会いできる日が来るのを楽しみにしています」と言い、柿田さんはその場を去った。

 残された僕と森さんは、しばらく席を立たなかった。何の言葉も発さず、コーヒーも飲まず、ただ柿田さんから得た膨大な情報を頭の中で整理していた。

「僕はやっぱり、この記事を書くことになると思う」長い間考えた後、僕はそう言った。

 柿田さんは「誰のための記事にもならない」と言っていた。だがこのまま真相が闇に葬られることを、自分の心は許せなかった。たくさんの人を殺し、また不幸に陥れ、偽物の歴史を作った人たちがのうのうとのさばっている世界を許容することは、どうしてもできない。たとえ影響力が微かでも、僕の記者への道に影響が及ぼうとも。

「やめて」彼女は短く言った。

「どうして? 森さんだってこんなこと許せないでしょ?」

「もちろん許せない。でもそれ以上に、わたしのせいでこれ以上誰かの人生が奪われてしまうことに、もう耐えられないの」

 彼女の悲壮な声が、僕を混乱させた。

 どちらに足を踏み出すべきか懊悩していると、隣の彼女が徐に立ち上がった。

「わたしはやる事ができたからもう行くね。ここまで一緒に調べてくれてありがとう」

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