柿田との面会(3)

 僕の話が終わるまで、柿田さんは真摯に耳を傾けてくれた。

「よく調べられています。論旨も明確でした」

 僕たちが欲しいのは、そんな褒め言葉ではなかった。

 柿田さんはすでにぬるくなりかけたコーヒーにゆっくりと口をつけた。

「森美月さん、あなたは遺族の方でしたね。あれからもう二年近く経ちますか」

そして柿田さんは森さんの方を向いて、深々と頭を下げた。

「あの時はうちの会社がずいぶんと失礼な真似をしたでしょう。本当に申し訳ありませんでした」

 森さんはびっくりして腰を浮かしかけた。

「いえ、そんな」

「あの会社には私も長いことお世話になりましたが、正直に言って弁護する気にもなれません。すでにご承知かもしれませんが、あの後で私はその会社を辞めました」

「存じております」そして僕はずっと気になっていたことをついに訊いた。「どのような理由で退社されたのですか?」

「単純です。あそこは真実を書くには、制約が多すぎました。そして私が書きたいのは、ただ真実についてだけでした」

「真実とは?」

 柿田さんは一度視線をテーブルに落とし、それからまた僕たちの顔を相互に眺めた。

「これを知った後で、君たちは苦しい決断を迫られるかもしれません。それでも尚、知りたいと思いますか?」

 覚悟は既に決まっていた。僕が答えるよりも先に、森さんが口を開いた。

「これまでわたしは、時間が経てば、いずれ本当のことが見えてくるのだと思っていました。でもそれは間違いでした。真実はただ待っているだけではやって来ません。自分たちがそちらへと歩いて行かなければならないのです。わたしはこの何ヶ月かの間に、身をもってそれを知りました」

 その時、テーブルの下で森さんの手が僕の手に触れた。彼女の手は冬の日のアスファルトのように冷たく、そして硬かった。僕はほとんど反射的に、その手を握り返した。その行為の意味すらも考えないまま。薄い靴底から冷気が這い上がってくるように、手のつなぎ目からは彼女の怯えたような気持ちが流れ込んで来た。何に対する怯えなのかはわからない。だが、彼女がそんな気持ちでいることは正しくないことのように気がした。だってなぜ彼女が怯えなければならない? 怯えなくてはならない奴は、真実を隠した方であるべきじゃないか。

 僕は左手に込める力を少しだけ強めた。僕たちは決して偽物の歴史になど屈しない。そこにたどり着くまで、真実の足跡を追い続ける。

「わたしたちは、その歩みを止めるつもりはありません。柿田さん、どうか知っていることをありのままにお話しください」

「わかりました」

 柿田さんは深く頷いて、静かに話し始めた。

「結論から言います。私も今回の事故は、ブレーキの故障だと思っています。佐倉くんたちの推理はおおよそ当たっているでしょう。しかし、君たちの提示した情報だけでは整備者の責任を完全には払拭できません」

 柿田さんは大きな黒いナイロンのバッグから、一枚のクリアファイルを取り出した。そこにはニュースの記事をプリントアウトした一枚の紙が挟まっていた。

「これは私の友人であるNHKの記者が書いた記事です」

 僕と森さんの顔の影が、一枚の紙の上に落とされた。

 それは事故を起こした車両が、メーカーでの点検を受けていたことを示す資料だった。

 点検では床下部の激しい腐食を確認していたものの、それを放置した状態で当時のバスの所有会社に返却されていた。そのバス所有会社はその後その車体を、事故を起こしたティー・ピーツアーに転売することとなる。ティー・ピーツアーには、床下部の腐食のことは伝えられていなかった。点検を受けたのは、二〇一五年三月、事故の僅か八ヶ月前のことである。

「つまり」と柿田さんは言った。「バスを作ったのも、事故直前にそれを点検したのも、光岸です」

「どうしてですか?」怒りの感情を堪えきれずに僕は立ち上がった。「そこまでわかっていて、どうして真実を報道してくれなかったのですか?」

「二つの理由があります」柿田さんは視線を下げて答えた。「一つは国交省が流したツアー会社の不手際に報道陣が飛びつき、そして警察発表を鵜呑みにしてしまったことです。それを元にメディアは事故の筋書きを作ってしまった」

「しかしあなたはその流れを止めようとしてくださっていたではないですか。その時すでに柿田さんはこの件の異変に気がつかれていたのではないですか? もしその時に、今僕らに話してくれたことを書いてくださっていたなら……」

「いや、その時はまだここまではっきりとはわかっていなかった。事故車両を調べたこの国交省の報告書だって、まだあの時は影も形もなかったのですから」

「柿田さん、ではあなたは、どこにこの件を疑問視する材料を見つけられたのですか?」

 柿田さんはそこでコーヒーを口に運んだ。僕たちに落ち着かせる時間を設けたのか、それとも自分自身を落ち着けたかったのか。

「二つ目の理由をお話しする前に、こちらから訊きたいことがあります」

「何でしょうか」

「君たちは、新聞やテレビの報道を見て、どこか不自然に感じたところはありませんでしたか? 事故の原因ではなく、その報道の仕方自体にです」

 僕と森さんは顔を見合わせた。柿田さんの言わんとしていることがわからない。

「この報道で、実名での報道を避けられているものが、一つだけありました。それは誰ですか?」

 バスの運転者、ツアーバス運行会社、そして被害者たちに至るまで、全ての人が写真や動画付きの実名で報じられた。

「バスの製造会社」と森さんが答えた。

 柿田さんは神妙に頷いた。

「私は事故を起こしたバスが、どこで車体検証されたのかを調べました。事故後に軽井沢警察署へと運ばれた車体は、その後十七日になって、車体検証のため、群馬県上田市にある自動車メーカーの支店へと運ばれたのです」

「読みました」

「そこで初めて、私はそのメーカーの名前にぶつかりました。そう、光岸自動車です」

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