柿田との面会(1)

 日程調整の結果、柿田さんとの面会の日時は次の土曜日の十時からに決められた。

 取材の当日、僕と森さんは約束の場所である大学内のカフェテリアに集合した。現在の時刻は九時半。約束の時間よりも三十分早く前乗りしている、

 休日の朝のカフェテリアは空いていて、席は自由に選ぶことができた。僕は奥まった四人掛けの席を確保し、下座に座った。カウンターで注文してくれていた森さんが、両手にコーヒーカップを持って来た。コーヒーをテーブルに置くと、彼女は着ていた黒いウールのコート脱いでジャケット姿になった。ジャケットはベージュのツイードでその下にはチェックのシャツを着ているようだった。

「佐倉くんのジャケット姿も見慣れないね」

 同じことを考えていたらしい彼女はそう言った。さすがにいつものような格好で会うわけにはいかず、今日この日のためにジャケットとパンツを急いで用意したのだった。

 手提げ鞄から手帳とペンを出し終えると、手持ち無沙汰な時間ができてしまった。それで例の病床の探偵に連想が及んだ。

「そういえば読んだよ、『時の娘』」

「どうだった?」

「面白かった。前に江戸井潤樹の『地を這う翼』を読んだときに感じた嫌悪感を、この作品には全く感じなかった。それどころか、良質な記事を読んだ時のような興奮さえあった」

「何が違ったんだろうね。それらはどちらも実際の出来事を元に書かれたフィクション作品のはずだけど」

「でも、全然別物に感じたんだ。『地を這う翼』はすでに世間のみんなが分かりきっていることを指摘しているにすぎない。いわば安全地帯から死体蹴りをしているようなものだった。それに比べて『時の娘』では少数派の意見を拾い上げ、それを論理立てて紹介し、これまでの定説を覆そうとしていた」

「それは、記者の仕事にも通じるものがあるのかもね」

「それに、当たり前に信じている歴史が、実は誰かに作られたものなんじゃないのかっていう怖さは、僕にもよくわかるような気がするんだ」

「それはたぶん、わたしも」

 僕はコーヒーにスティック一本分の砂糖を入れてステンレスのスプーンで静かにかき混ぜた。渦を巻く黒い水面を眺めながら、僕は話を続けた。

「僕が今日柿田さんに会うのも、多分それと同じなんだと思う」

 森さんは無言で続きを促した。

「僕は最初、柿田さんがなんであの記事を書き、そのすぐ後で新聞社を去ったのか、その理由が知りたくてバス転落事故について、みんなと一緒に調べることにしたんだ」

「今は違うの?」

「もっと根本的な理由があると気がついたんだ。その本を読んで」

 コーヒーを飲もうとしてカップに指先を触れた。しかし想像以上にカップは熱く、まだ飲み頃とは言えなかった。ここはいつも飲めない温度でコーヒーを出すのだ。

「わたしの死んだ兄の仇を打とうとしてくれているの?」

「違う」

「わたしが不憫に思えたから?」

「違う」

 正確に伝えられるかはわからないが、僕は自分の胸の中にある気持ちをできるだけ正直に伝えようとした。正直さと正確さは、船の舳と船尾の関係だ。正直に言った言葉がいつも正確に真実を得るとは限らないが、正直さという舳の通った場所のすぐ近くを正確さである船尾が通ってくれるには違いない。

「森さんと初めてあったミスコンの事件でも、プラネタリウムの事件でもそうだったけど、真実が誰かによって歪められる時には、必ずそれで利益を得る者がいるんだ。誰かの身勝手で真実が歪められたとして、それはもちろんそれを工作した人が悪いんだけれど、それを見て見ぬふりをしたり、安易に騙されてしまったりする人もよくないんじゃないかって思うんだ。そういう人が集まって世論が形成されることによって、偽物の歴史が作られて、その結果不利益を被ってしまう人が絶対に出てくるから。その企てに、自分も知らず知らずのうちに乗っかってしまっているんじゃないかと考えると、たまらなく怖くなるんだ。その恐怖から逃げるために、僕はもっと判断材料となる情報が欲しいと思い、真実が知りたいと願うんだと思う」

 そこで突然スマートフォンが鳴った。電話だ。

「は、はい、佐倉です」

僕は立ち上がりながら電話に出た。

『柿田です。今つきました』

 振り返って入り口の方を見ると、自分の両親と同年代か少し年上くらいの男性が手を上げていた。

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