64でテニスゲーム(2)

 続くポイントもなんとか取り切り、僕は最初のサービスゲームのキープに成功した。

「今度はこっちのサーブだね」

 森さんのサービスゲームに移って一ポイント目、彼女はサーブの姿勢に入った。左足に重心を乗せたまま、ボールを二度つき、左手で柔らかく掴んだ黄色いテニスボールを一歩分前方に高くトスする。両足が地面を蹴って離れるのと同時に、右手に握られたラケットは大きく弧を描き、頂点にまで上がったボールを勢いよく振り抜いた。教本のような美しいフォームだった。

 気がつくとボールは僕のキャラクターの横を通り過ぎ、コートに引かれた白線の粉が舞い散っていた。グラスコートでボールがライン上に乗ると、時折このように白い粉が舞い散ることがある。スピードメーターに表示された数字は二百を超えていた。コースもスピードも完璧なサービスエースだった。

「まるでフェデラーだ」

 そのゲーム、僕は攻略の糸口すら掴めないまま、森さんにラブゲームでキープされてしまった。このサーブのクオリティを最後まで維持されてしまったら、僕に勝ち目はないだろう。自分のサービスゲームをキープして、彼女の調子が落ちるのを待つしかない。

 その後は自分のサービスゲームのキープ合戦が続き、ゲームカウントは4−4まで進んだ。

 このゲーム、僕のサーブのコースはことごとく彼女に読まれた。15《フィフティーン》―40《フォーティ》でこの試合最初のブレイクポイントのピンチを迎える。正念場だ。だがピンチの後には往々にしてチャンスがやってくるものだ。ここを凌げば勝機は見えてくる。

 サーブはいいコースに入った。ボディへフラット系のファーストサーブが飛ぶ。森さんのキャラクターはなんとか返球したものの、それはふらふらと僕のレフトハンドのフォアハンド側に上がった。絶好のチャンスボールだ。思い切りドライブをかけ、クロスへと返球する。ウィナー級のショットだった。しかし彼女はそのコースを読み、シングルバックハンドでさらに角度を付けながらクロスへと返してきた。僕は観客席の壁と激突する勢いでそのボールを追った。両脚を大きく開いてスライディングをし、腕と手首のスナップを使ってヒッティングする。スナップによって回転のかかったボールはバナナのような軌道を描き、ネットの外側から相手コートに突き刺さった。今日一番のスーパーショットだ。

「すごいね、今の! ナダルみたいだった」

 ナダルだったら「Vamos!」と叫んでいたところだろう。というか森さん、さっきからやけにテニスに詳しいな。

 これで30《サーティ》―40《フォーティ》。もう一本凌げばデュースに持ち込める。濃紺のコントローラーを握る僕の手はじっとりと汗をかいていた。

 ファーストサーブは僅かにロングにフォルトした。セカンドサーブが入って、アドバンテージサイドでの激しいクロスの打ち合いが始まる。お互いに様子を伺うようにして、同じようなコース、球種のラリーがしばらく続いた。先に展開を仕掛けたのは森さんだった。彼女はこれまでのクロスの展開と変わらないフォームで、一閃、ストレートに振ってきた。僕の反応は一拍遅れるが、それでもなんとかボールを拾う。体勢を立て直す時間を稼ぐために、相手のコートの深いところへのロブ・ショットを選択した。これが予想外に良い結果をもたらした。僕の視界には入っていなかったが、森さんの操るプレイヤーはその時ネット側まで詰めてきていたのだ。彼女は慌ててネットに背を向け、ボールを追う。もらった。おそらくボールは帰ってこないだろうが、よしんば返ってきたとしてもチャンスボールとなるだろう。そう考え僕はネットに詰めた。チャンスボールは前で叩くべし。僕のロブが相手のベースラインぎわでワンバウンドし、そして相手の体の影に隠れた。股抜きショットをするつもりらしい。来るなら来い。チャンスボールをスマッシュかドロップで捌いてやる。

 返球はまだだ。それどころか、その構えすら見えない。焦ったい程に長い時間が、彼女の背中を見つめるうちに過ぎる。よもや諦めたのだろうか。そうと思いかけた時、ようやくリストバンドをつけた彼女の右手が高く上がる。足の間から、地面に触れそうなほど低い位置にあるテニスボールが見えた。打点が低いなら、山なりの軌道のボールが来るはずだ。おそらくは前に詰めた僕の頭上を超えるようなロブを狙ってくるのだろう。スマッシュで決めてやる。僕はバックステップを踏み、それに備えた。

 しかし彼女がラケットを振り抜いた瞬間、僕はボールを見失った。どこに消えた? いや、そんなはずはない。それが自分の予想とかけ離れた動きをしたせいで、消えたように錯覚したのだ。彼女の放ったショットは、緩やかなロブではなかった。鋭いパッシングショットだ。それに気がついた時にはもう遅かった。僕は一歩も動けず、目だけが僕の横を抜いていく打球を追っていた。お手上げだ。興奮した観客たちは立ち上がって拍手を送っている。

 それで僕はブレークを喫した。ゲームカウント4−5で迎えた森さんのサービングフォーザマッチ。彼女はそれをしっかりと取り切り、この熱戦に終止符を打った。

「完敗だよ」ゲーム上では、キャラクター同士が握手をしている。「来年は学祭のゲーム大会に出た方がいい」

 優勝すれば図書カードが貰える。

「でも佐倉くんもかなり強かったよ。お兄ちゃん以外でこんなに強い人、初めて見た」

「お兄さんとよくやってたんだ、このゲーム」

 三限の時刻も近づいてきている。僕たちはゲームの片付けを始めた。三色コードや電源プラグを抜いてロッカーにしまう。

「うちは両親が共働きで、どちらも土日しか休みがないから、平日の放課後とかは、小さい時からずっと兄と二人きりのことが多かった。三つ歳の離れた兄は、小さい時からずっとわたしの遊び相手になってくれていたの。そんなに裕福でもなかったから新しいゲーム機もあまり買ってもらえなくてさ。それでずっと同じこのゲームばかりやっていたんだ」

 森さんはコントローラーにコードを巻き付けながら、昔のことを聞かせてくれた。きっと幸せな記憶なのだということが、彼女の表情からよく伝わってきた。

「テニスゲームがそんなに強いのはお兄さんのおかげなんだね」

「テニスゲームだけじゃない」と森さんは言った。「私立の高校に入れてもらえて、この大学に進学できたのも兄のおかげなの」

 僕はその言葉の意味について考えた。僕が黙っていると、森さんは話を継いだ。

「兄は手のかからない子だと、両親は昔から口を揃えて言っていた。それに兄は勉強もできた。公立の高校からストレートで国立大学に入っちゃったんだ。塾にも通わずに。だからわたしは、兄が私立の大学に行く為に両親が貯めていた分のお金で私立の高校に入れてもらえたの」

 そして努力して入った大学では、塾講師のバイトもしていたと聞いていた。

 そこで僕は、彼女のお兄さんのSNSに届いたと言う、例の下劣なコメントが思い出された。あれはくだらない上に全くの的外れだったと言うことがよく分かった。彼は恵まれた環境に甘えて生きてきたわけではないのだ。むしろこれまで家族のために頑張ってきた。安いバスツアーを選択したのも、そんな彼の育ちに起因しているのではないだろうか。

「わたしは兄にたくさんのことをしてもらった」苦しそうに彼女は言った。「これから兄は、もっと自分自身の幸せを追い求められるはずだった。せめてもっと幸せな時間を過ごしてから――」

 森さんの語る言葉の一つ一つに、お兄さんへの親愛の気持ちが伺えた。そしてどこか自分を責めているような雰囲気も。

「事故にあった兄が脳挫傷で病院に運ばれた数日後、わたしお母さんに言われたの。『美月は大学に行きたいよね』って。わたしは『行きたい』って答えた」

「森さん……」

「ごめん、変な話聞かせちゃったね」彼女はゲームをロッカーにしまい、扉をぱしゃりと閉めた。「久しぶりにこのゲームができて楽しかった」

 彼女が部室を出た。まだ熱気のこもった室内に彼女の愛読書、『時の娘』が置かれている。フィクション作品に心が惹かれることなんてもう何年もなかったが、僕は今これまでにないほどその小説に興味を持っていた。早く読んでみたい。

 だがそれよりも先に、僕にはやるべきことがあった。僕は森さんが来る前にロッカーから引っ張り出してきた古い型のノートPCを開き、例の事故についての調査を再開させた。

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