64でテニスゲーム(1)


 メーカーの調査については、後日に持ち越されることとなった。会議スペースをレンタルした二時間はすでに経過してしまっていたのだ。事故車両がどこのメーカーであったのかについては、「俺が調べる」と糸山が自ら名乗り出てくれたので、彼に一任することに決まった。僕の方では、裁判記録を当たってみることになった。それらの結果は一週間後の同じ時間帯に、新聞部部室で行われる第二回検討会の場で報告をする運びだ。

 

 第一回会議の数日後のお昼。僕が新聞部の部室で例の裁判記録を確認していると、ドアがノックされた。

 ドアを開けると、そこには森さんが一冊の文庫本を抱えて立っていた。

「やあ。どうしたの?」

「これ、前に言っていた小説。よかったら読まないかなって思って」

 やや縦長ぎみの文庫本の表紙には、悪名高きかの英国王の肖像が大きく印刷されていた。タイトルには『時の娘』とある。

「ありがとう。調べ物が終わったら読んでみるよ」

 彼女はそれを手渡し、「じゃあ」と言って帰ろうとしたが、部室内のある方向を見ると動きを止めた。

「あれって64《ろくよん》?」

 彼女の指さす方をみると、開け放たれたロッカーの隙間から、古びた家庭用ゲーム機の姿が見えた。

「ああ、今じゃなかなか珍しいでしょ。ずっと昔の先輩の置き土産みたいなんだ」

「まだ動くの?」

「さあ、どうだろう」と僕は考えた。「つけたことないからわからないな。やってみる?」

「あ、ごめんね。なんか調べ物とかしてたんでしょ?」と森さんは机の上のノートPCの画面が点いていることを認めると言った。「懐かしくって、つい」

「いや、いいんだ。ちょっと息抜きをしたいと思っていたところだったし。今まであまりこの部室でゲームをする相手もいなかったし。せっかくだからやってみようよ」

 僕は埃を被ったそれを引っ張り出すと、電源とテレビにコードを接続した。

「そこらへんにゲームソフトがいくつかあると思うから、何か適当に選んでよ」

 森さんはしばらくごそごそとやっていたが、やがて一本のゲームカセットを手に取って嬉しそうに顔を上げた。

「わー、これ懐かしい!」

 彼女の持っているそれはテニスのゲームだった。僕も昔やったことがある。

 カセットを本体に差し込み、電源をつける。するとモニターに懐かしい映像が流れた。

「何年ぶりだろう」僕は計算してみた。「最後にやったのが小学六年生だとして、えーと……、六年ぶりくらいかな」

「わたしもだいたいそのくらいかも」

 僕はレフティーのラリータイプのキャラクターを選び、森さんはシングルバックハンドのオールラウンダーを選択した。

「自慢じゃないけど、このゲームであんまり負けたことないんだ」

 僕のキャラクターのサービスゲームで一セット・六ゲームマッチが始まった。コートサーフェスは天然芝グラスだ。

「行くよ」

 トップスピンをかけたサーブをセンターへ。森さんのキャラクターは一歩も動けずにエースが決まる。

 15《フィフティーン》―0《ラブ》。

「天然芝だからボールが早いね」と森さんは言うと、レシーブする位置を二歩分後ろに下げた。

 今度はワイドへサーブを放つ。アドサイドからレフティーがスピンをかけたサーブだ。コースは厳しい。それでも森さんのキャラクターは腕を目一杯伸ばし、ラケットの面をうまく作って返球した。だが甘い。

 僕は浅いチャンスボールをフォアハンドでストレートに叩き込んだ。

 30《サーティ》−0《ラブ》。

 続く三ポイント目。一ポイント目同様に、僕はセンターへサーブを打った。百九十キロの会心のサーブだった。しかし、このコースは相手に読まれていた。シングルバックハンドで鮮やかに返されたボールは、僕のコートの隅に突き刺さった。見事なリターンエースだ。

 30《サーティ》―15《フィフティーン》。

「やるね」

 今度の僕のファーストサーブは、ネットにかかった。彼女のリターンにプレッシャーを感じたのかもしれない。入れに行ったセカンドサーブは、待ち構えられていた。フォアハンドで叩かれたボールは、僕のバックハンド側へと矢のように飛んでくる。なんとか追いついて食らいつくが、そこから森さんのキャラクターは左右にボールを散らし、ラリーの主導権を握る。最後は僕が根負けし、サイドアウトになってカウントが並んだ。

 30―30《サーティオール》。

 強い相手とは、少し打ち合っただけでそれとわかる。森さんは間違いなく、僕が戦ってきた中でもトップクラスの実力者だった。

 僕はちらりと森さんの横顔を見た。涼しい顔で、それでいて集中しているのが一見してわかる。

「サーブ、佐倉くんだよ」

「ああ、ごめん」

 僕はテレビ画面に視線を戻した。

 テニスというスポーツはサービス側が絶対に有利だ。交互にやってくる自分のサービスゲームを落とすと、一著しく不利な試合展開になる。特に出だしのこのサービスゲームから落とすわけには行かない。

 僕は奇襲に出た。通常は高くトスをあげ、なるべく高い打点からサーブを放つのがセオリーだ。その方が直線的に、速いボールが相手のサービスエリアに入りやすくなるためだ。しかし僕は、あえてトスをあげず、膝の高さからラケットでボールを掬い上げるようにして、遅いサーブを放った。アンダーサーブだ。スライス回転のかかったボールは相手のサービスエリアの浅い場所に決まり、相手のラケットが届く前にツーバウンドした。

 40《フォーティ》―30《サーティ》。ゲームポイントだ。

「遊び心があるんだね。ずいぶん余裕そうじゃない」と森さんは皮肉なことを言う。

「必死なんだよ」と僕は正直に言った。

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