第一回バス転落事故検討会(2)

 それから森さんはその当時のことを僕たちに語った。

「兄は事故後、脳挫傷で病院に運ばれた。それから一度も意識を回復することなく、十八日の夜にこの世を去った。わたしたちが何かを言うよりも先に、病院関係者から報道陣にその話が伝わって、それはニュースになっていたらしかった」

 彼女の声はいつもよりも機械的に響いた。

「その後もしばらくわたしは病院の待合室にいたの。消毒剤の臭いのする、真っ白い壁に囲まれた黄緑色のソファの上で、心の整理もつかないまま何時間か過ごした。そこには几帳面に音量の抑えられたテレビがついていて、死んだ兄の写真や動画が時々映しだされていた。それを見た時の奇妙な感覚は、言葉ではうまく言い表せない。それでその後にすぐ兄のスマホにはたくさんの通知が来るようになった。それ以前にも兄が病院に搬送されたと報道されていたから、お見舞いのメッセージはたくさんきていたんだけれど、兄の死が伝えられてからの通知はそれとは違う種類のものだった。兄の登録していたツイッターのアカウントに、たくさんの知らない人から、からかいのコメントが届くようになったんだ」

「からかい?」まるで脈絡のない単語に、俺は思わず口を挟んだ。聞き間違いだろうか?

「安いバスを使ったこいつらも悪いだとか、上級国民が死んでせいぜいしたとか、テレビ出演おめでとうとか、神様が帳尻を合わせてくれたとか、そんな内容だったと覚えている」

 僕は絶句した。瓶で殴られたような激しい痛みが頭部を襲った。どうしてそんな言葉が出てくるのかまるで理解できなかった。

「メディアでの兄や犠牲者たちの生い立ちや経歴が鼻についた人がたくさんいたんだろうと思う。そういう人たちの持つ不満の捌け口に、兄のアカウントは利用されたんじゃないかな」

 そこで僕は、この前のお好み焼き屋での星原さんの話を思い出した。森さんはお兄さんのスマートフォンを使って、彼のツイッターアカウントに鍵を掛けたのだった。それと同日に森さんが車中で語ったメディア嫌いも、それが原因になっているのだろう。

 新聞やテレビのマスメディアは、彼のツイッターから顔写真などの情報を持って来て、世間に流布した。そうすれば必然的に、このアカウントの人があの事故で死んだのだとSNS上でも話題になってしまう。目の前にある新聞では、森のお兄さんが幼少期から成績優秀で、一流大学に進学したこと。塾講師のアルバイトをしており、明るい性格の彼はどの生徒からも慕われていたこと。大学卒業後は海外で働く予定であったことなどが書かれていた。それは絵に描いたような、明るい人生に見えた。そしてどこか決定的にリアリティに欠けていた。

 ひょっとすると、それが原因なのかもしれない。現実の人間を攻撃してしまっていることを、想像力に乏しい彼らは認識できていないのかもしれない。しかし、彼は間違いなくこの世界で息をしていた一人の人間なのだ。名前があり、役割があり、意思を持った一人の人間なのだ。

「辛かったね」と星原さんが森さんに声をかけた。

「そんな辛い思いをしたのは、わたしだけじゃないはず」

 森さんは縮刷版新聞を引き寄せ、彼女のお兄さんのことが書かれたページを閉じ、その何日か前の記事を広げた。そこには森さんのお兄さんと同様に、何人かの犠牲者の氏名や個人的なことについて書かれていた。彼らは皆大学生だった。将来を嘱望されていることや、その人柄などが実際のエピソードも多く含まれた記事だった。また彼らの写真のほとんどは、フェイスブックやツイッター、ブログなどから持って来たものであるらしかった。おそらくは、遺族に無断で。

 生存者からの声も載っていた。彼らの多くはその深夜に起きた事故の直前まで眠っていたという。彼らの中の数人は、バスが事故前に左右に大きく何度も揺れたことを話していた。

「事故原因については、この段階ではまだ何も書かれていないみたいだね」と少しして森さんが言った。

「原因がはっきりと分かるのは、まだもう少し先。でもその前にバスを運転していた人のことをチェックしておきましょう」

 星原さんはそう言うと、十六日の朝刊の記事に戻った。そこには事故を起こしたバスの運転手のことが載っていた。

「結論から言うと、この人の運転ミスで今回の事故は起きた」

運転手の顔写真を指して星原さんが言った。名前は岩崎いわさき郁蔵いくぞう。初老の男で、後退した前髪のせいで太い眉がより強い印象を残していた。口は真一文字にしめられ、何かに挑むかのようにカメラのレンズをじっと真正面から見つめている。縦横比と顔の位置からして、証明写真の一枚だろう。

「長野県警はバスの運転手を容疑者死亡のまま書類送検している」

 僕たちはそのページに載っている記事を読んだ。運転手は二名乗車していたが、ずっと片方が運転していたことや、その運転手は先月に契約社員になったばかりで、大型バスの運転に不安を持っていたことなどについて書かれていた。助かったバスの乗客の一人は、二名のうちの片方の運転手がずっとハンドルを握っていたことを不思議に思ったと話していた。

「本来バスはこのルートを通る予定はなかったんだね。この運転手たちが勝手に道順を変えていたようだ」別の記事を読んでいたらしい糸山が言った。

「それも不審な点の一つ。もし他の安全な道を通っていたら――」

「通っていたらこんな事故は起こらなかった?」と僕は口を挟んだ。「そんな難しいコースには見えないけど。それにこのバスは東京を出発して、軽井沢まで来たんでしょ? いくら運転に不安があるからってそんなにいきなり暴走するかな?」

「そうね。運転に不慣れな佐倉くんだって、この前は安全運転でここから小学校まで往復できたし」と森さんも同調した。

 不慣れと不能は違う。彼は大型バスの運転も素人ってわけでもなかった。彼が「不安に思う」と語ったのは、彼が最近まで運転していた車両よりも今回乗るバスのサイズが大きく、そのサイズ感に慣れるまではどこかに擦ったりしないかが心配だったのだろうと想像するのが妥当だ。暴走させてしまうなんて心配ではなかったはずである。ではなぜこんな事故が起こったのか?

「なぜこの人がバスを暴走させたのか、色々な説があるの。そのうちの一つはバスの運転手が居眠りなどをして意識を失ったこと」そう言いながら星原さんはパラパラとページをめくった。そうして開かれたページには、ツアー会社がバスの運転手の体調管理を怠っていたことが書かれていた。それが一応の根拠となっているらしい。

「そんな。森さんじゃあるまいし」と僕は言った。それじゃああまりに根拠が弱すぎる。

「わたしでもこんなところじゃ眠くならないよ。この前も言ったでしょ。渋滞に捕まった時には眠くなったとしても、こんな山道じゃとてもそうはならないって」

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