月の寝言
「まさかドライアイスのせいでホースの中の水が凍っちゃっていたなんてね」
帰りの車中で、森さんが愉快そうに笑った。西日を背にして、やや混雑した道路をバンが進む。
「笑い事じゃないよ。もう少しで森さん火傷しちゃうところだったんだから」
すかさず指摘したのは、後部座席に座る糸山だった。
「そうだよ。それに私、あの時もう少しで舞台に乗り込んで台無しにしちゃうところだったんだから」
「ごめんごめん」と森さんは言う。「でもよく気づいたね、佐倉くん。まるでルルタビーユみたいだった」
「え、誰?」前方のトラックに視界を塞がれ、少し広めに車間を取ろうとしていた俺はそう訊いた。
「取材先で次々と難事件を解決しちゃう駆け出しの新聞記者。ガストン・ルルーの生んだ名探偵」
また架空のキャラクターか。よくもまあレパートリーが尽きないものである。
「たまたまだよ。舞台前に馬場さんからドライアイスのことを聞いていたから、それで思い当たったんだ」
思えばあの時、ホースの横にドライアイスを置くのは危ないと僕が指摘していたらこんなアクシデントは起こらなかったのかもしれない。
「でも森さんもよく耐えたよ。かなり暑かったんじゃない?」
「それが本当に寝ちゃったみたいであんまり覚えていないの」
「え?」と三人の声が揃った。
「え、ごめん。冗談なんだけど……」と森さんが言いにくそうに口にした。
「そ、そう。さすがにそうよね」
「いや、さもありなんと思って突っ込めなかった。申し訳ない」と糸山が詫びた。
「あんな舞台のクライマックスで眠くなる人なんてどこにもいないよ」と森さんは語気を強くする。「車の運転だってそうでしょ? 渋滞でのろのろ運転の時は眠くなるかもしれないけど、例えば山道のカーブが連続するような道だとどうしたって眠くならないじゃない」
渋滞に捕まった時でも眠くなるようなことはあってはならないけどな。森さんは車の運転に向いていないかもしれない。
「でも観客は逆に盛り上がったんじゃない。マレフィセントは魔法が使えなくて悩んでいた設定だったし、むしろすぐに水が出てきちゃうよりも良かったかも」と星原さんがフォローした。
「確かにその方がリアルだったかもね。怪我の功名っていうか」と糸山も同意した。
「とにかく、火が燃えている中で微動だにせず眠り続けるなんて、普通の人じゃできない演技だったよ」とまた星原さん。「初舞台だったのによくやったよ」
「初舞台? じゃあ高校の時は違う部活だったの?」と糸山が質問した。
「高校の時はミステリ研だったの」
「なるほど、それでそっちに詳しいわけだ」
「兄がミステリ好きでね。本棚の本を勝手に読み漁っているうちに、いつの間にかわたしもミステリ小説を好きになっていったんだ」
「へー、森さんって怖いの好きなんだ」と糸山が意外そうに言った。
「怖いの?」と森さんがきょとんとした顔で首を傾げた。
「人が殺されちゃうお話のことでしょ、ミステリって。『リング』とか『サイレントヒル』とか『エクソシスト』とか」
「それはホラーじゃない?」と星原さんが指摘した。
「確かにそう言うのをミステリって呼ぶ人もいるけど」小さな生き物に触るようなデリケートな口調で森さんが応答した。「わたしはホラーとミステリは別のものだと考えている。どちらも似たような現象を描いている場合が多いけど、目には見えにくい根本のところで違っているの。科学と魔法みたいに。でもあえて一番わかりやすい違いを言えば、物語の最後に恐怖が勝つか、それとも推理が勝つかってところなのかな」
「ふーん」と糸山は納得したようなしていないような、そんな曖昧な返事をした。
「でも一時期、ミステリを読めなくなってしまったんでしょ?」以前のインタビューを思い出しながら僕は言った。
森さんは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにそれ心の奥に引っ込めた。
「うん、よく覚えているね。そう、高校の時にあることが起こって、それで……。でもそんな時、高校にやってきた二劇の公演に支えられて、なんとか立ち直れたの。取り返しのつかない過去を悔やむのはやめて、前を向こうってね」
そこで会話が途切れた。ラジオは今宵の満月を伝え、その後にベートーヴェンのピアノソナタ『月光』を流した。行きの車中で聞いたブラームスは知らなかったが、こっちならテレビのBGMとかでよく使われているから知っている。特徴的な三連符が文学的だとか神秘的だとか解説されていたが、あまりに聞き馴染みがあるせいでどこかチープなものに聴こえた。
後部座席に座る地学研究会の二人は、さっきから天体に関する話題で盛り上がっていた。なんでもこれまで惑星だと考えられていた天体が実は恒星であるらしいとか、そんなような話だ。僕にはさっぱりだった。
僕らを乗せたバンは神田川を跨ぎ、明大前を過ぎ、渋谷区に入った。渋谷区のくせに業務スーパーなんてあるのかと妙な感心をしていると、隣の助手席から森さんの小さな声が『月光』の旋律に紛れて聞こえてきた。
「ころしてごめんなさい」
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